「自分を清める」 コリントU 六章一一ー七章一節

 今日は六章一一節から七章一節までを学ぶつもりですが、聖書の学者によっては、六章一一節から一四節は、七章二節からのところに結びつけたほうが続き具合がいいということであります。そして一四節から七章一節までのところは、パウロのコリント教会あての手紙の別の部分が混入したのではないかと推測する人もおります。これはもちろん印刷されたり、しっかりと製本された書物ではないわけですから、しかもこの手紙は多くの人に回し読みされたものですから、順序が入れ違ったりすることはいくらでもありましたから、そういう推測も成り立つと思います。

 そういわれて、改めてここの箇所をよみますと、一一節から一四節のとろでは、「心を広くして欲しい」と訴えているところで、そして一四節からは、そのこととまるで関係のないこと、「あなたがたは信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながれてはならない」という勧告になって、「信仰者であるあなたがたは不信仰者とつきあうな」ということになっているのであります。

 「心を広くしなさい」といいながら、すぐそのあとで、不信仰者と交わるなというのですから、まるで正反対のことがいわれているようなのです。
 ですから、六章の一一節から一四節の箇所は、次の七章の二節からのとろこと一緒に学んだほうがいいかと思います。

 しかしそれにしても偶然に手紙の綴じ具合がそうなってしまったのか、あるいは意図的にこれをとじ合わせたのかはわかりませんが、「心を広くして欲しい、あなたがたは自分で心を狭くしている」という勧告のあと、すぐ続いて、それを訂正するような勧告、不信仰者と交わるなという勧告が続くのは、考えさせられるところであります。
ある意味では、一四節からの箇所は、そこだけを読んでいたら、われわれの信仰者の心が大変狭いものになる、狭隘のものになってしまうのではないかと思います。なぜなら、ここでは、不信仰者とくびきを共にするな、交わるな、といっているのですから、クリスチャンの生活はずいぶん狭いものになるという印象を与えることになるからであります。
 
 ですから、だからこそ、この一四節からの箇所を読むときに、その前にある「心を広くして欲しい」という言葉、そしてその後にある言葉、「心を広く開いでください」という勧告を頭にいれながら、読む必要があるのではないかと思います。そういう意味では、この一四節からのところを読むときには、今われわれが手にしている聖書のこの順序に沿って、一四節からのところを読むのはふさわしかもしれないと思います。

 一四節からのところは、わたしにとっては一番苦手ないわゆる「聖化」の問題がとりあげられているのであります。七章の一節をみますと、「愛する者たち、わたしたちはこのよなう約束を受けているのだから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」と勧められているところであります。

 もう信仰生活を何十年もしてきているのに、自分自身ひとつも聖化されたという実感はないし、自分だけでなく、他のクリスチャンの人をみても、申しわけないですが、率直にいいまして、みんながみんな聖化されたとも思えないのであります。そしてまた聖化されたと思われている人とつきあうのは、ごめんこうむりたいという気がしてならないのであります。
 そうしたなかで、聖化を勧めることは、できもしないことを勧めることになるし、それはなにか過重な負担を強いることになるし、またそれは偽善的な生活を強いることにならないかと懸念するのであります。

それならば、いっけん聖化を勧めているこの箇所をわれわれはどう読んだらいいかということであります。

ここを読むときに大事なことは、これが手紙であるということであります。なにかキリスト教教理を述べる神学書ではないということであります。手紙には宛先人がいるということであります。ここはコリント教会あての手紙であります。すでに学びましたように、コリントの教会はコリントという都市のまんなかにある教会であります。コリントというのは商業都市で、ちょうど日本でいえば東京のような都会であります。経済的に繁栄しておりましたから、道徳的には大変乱れていたようであります。当時はコリントするという動詞まであって、それは性的に淫らなことをするという意味に使われていたということであります。

 そういう都会の中にある教会であります。それは当然教会の中にまで影響を与え、ずに学んだコリントの第一の手紙では、「現に聞くところによれば、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは異邦人の間にもないほどのみだらな行いで」と書かれていたのであります。

 そういう状況のなかでこの手紙は書かれているわけです。つまりこれは常に淫らな生活、そして偶像礼拝に誘われるという誘惑にさらされている人々に対して書かれた手紙であるということであります。
 これは聖なることを目指して、清らかな心をもっている人々に対して書かれた手紙ではない。そういう人々に対して、いっそう清くなれ、聖化を目指して邁進せよという勧告の手紙ではないということであります。

 いってみれば、もうすでに汚れた人間、汚れた人間のなかにいて、その汚れに染まりそうな人々に対する勧告の言葉だということであります。

 たとえがいいかどうかわかりませんが、すでにアル中になって、そこからなんとか酒を断って、アル中から抜け出そうとしている人に対して、酒は絶対に飲むな、一滴も飲むな、と必死になって訴えている手紙だということであります。アル中になっている人、そこから抜け出そうと一生懸命になっている人に対して、酒は絶対に飲むな、一滴も飲むな、と言う勧告、そういう命令は、決して律法ではなく、それは愛に満ちた福音の勧めだと思います。

 清らかな生活をしている人間に対して、いっそう清くなれ、という、そういう聖化の勧めではないということであります。

 一四節をみますと、「あなたがたは信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながるな、正義と不法とにどんな関わりがあるか。光と闇とに何のつながりがあるか。キリストとベリアルにどんな調和があるか。信仰と不信仰に何の関係があるか。神の神殿と偶像とどんな一致があるか」と、たたみかけるように問いかけるのであります。
 ベリアルとは、悪の王を現す言葉で、サタンの固有名詞だそうです。

 つまりこれは、たとえば、自分の子供が暴力団の仲間に入れられそうになったときには、親ならば必死になって、その仲間から引き離そうとするだろうと思います。そこでは、もう我が子だけを守ろうとするだろうと思います。自分の子供だけを悪から引き離そうとするのは、家族的エゴイズムだといわれようがなにをしようが、親は我が子だけを必死になって、悪い仲間から引き離そうとするだろうと思います。まずそうするだろうと思います。その悪い仲間も一緒に、我が子と共にその悪い友達までも悪の誘惑から守ってあげようなどと悠長なことは考えないだろうと思います。

 繰り返しますが、そういう誘惑のなかにいないで、清らかな環境のなかにいるひと、自分は清らかな生活をしていると自負している人に対して、あなたはもっと清くなれと勧めてるいわけではないのです。

 そういう人に対してなら、もっと別の勧めかたをしたかもしれないと思います。先日木曜日の聖書を読む会で、ルカによる福音書を学んだところで、そこではあるパリサイ派のひとりがイエスを食事に招待したという記事のところです。イエスがあるファリサイ派の人に食事に招かれたというのです。そこにイエスに会おうとしてひとりの女が入ってきた。その女は町で評判の罪ある女だった。彼女はイエスにうしろから近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、イエスの足に接吻してその足に香油を注いだのです。するとイエスを招待したファリサイ派の人シモンは、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」といって、心の中で非難したというのです。

それを見抜いてイエスはそのファリサイ派の人シモンにこういうのです。「あなたはわたしを招待しておきながら、足を洗う水もくれなかった、接吻もしてくれなかった。それなのにこの女は涙でわたしの足を洗い、わたしの足に接吻してやまなかった」といわれるのであります。そうしてこの女に対して、「お前の罪は赦された、お前の信仰がお前を救ったのだ、安心して行きなさい」といわれたのであります。

 自分の正しさを誇り、自分の清さを誇り、汚れた人間を軽蔑しているファリサイ派の人々に対して、イエスは痛烈に批判するのであります。
 ファリサイ派の人々、律法学者たちは確かに清らかな、いわば聖化の道をまっしぐらに歩んでいるし、歩もうとしていたのであります。
 そういう人々に対して、イエスはその道を歩んでいっそう精進しなさいとは決していわれなかったということであります。

それはパウロも同じだったと思います。偶像に供えられた肉を食べると何か自分の信仰が汚されるのではないかと心配して、肉をたべないでいる信仰の弱い人と、偶像など存在しないのだから、肉を食べてもなんら差し支えないと自由に振る舞っていたいわば知的には強い信仰者の争いがコリント教会のなかでおこった時に、パウロはどうしたか。

 パウロ自身は肉を食べても差し支えないと信仰の自由を主張する立場にいながら、そして信仰的にはそのほうが正しいと思いながら、パウロはその信仰的には弱い立場にいる人の信仰を躓かせないために、あえて自分は肉を食べまいと、自分の信仰の自由を放棄すると宣言しているのであります。

そこでは信仰の純粋性を守ろうとか、そのためには、信仰の弱い人を切り捨てて、もっぱら自分の信仰の強化しようなどとは少しも考えないのです。

 しかし、この状況はそういう状況ではないのです。信仰の弱い人が、この世の汚れに誘われて、信仰を失いそうになっているのです。そういう人に対して、今パウロは「あなたがたは信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきを共にするな」というのです。「信仰と不信仰と何の関係があるか。神の神殿と偶像とどんな一致があるか」というのです。

 そして「わたしたちは生ける神の神殿なのです」といって、淫らな仲間とつきあうなと勧めるのであります。それは前の手紙にもでてきましたが、性的な乱れの危機にある青年に対して、娼婦と交わるな、「あなたがの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」という箇所と同じであります。

 それはイエスが罪ある女といわれていた娼婦と食事をしたり、交わったりしていたこと、またそういう人々を決して排除してはならないと言われているところがありますが、それとは矛盾しないのであります。

 われわれはイエスほど誘惑に強い人間ではないし、またイエスもその娼婦とか姦淫を犯した女に対して、そのままでいいといわれたわけではなく、もう今後罪を犯さないように、といわれたように、そのような人々を罪から救うために、その人々と交わったのであります。

 しかし、ある時には、われわれは自分の弱さを知って、いわゆる悪のグループから自分を引き離さなくてはならないと思います。信仰を守るためには、偶像を破壊していくということも必要であります。偶像に供えられたと思われる肉を一切食べまいという決断が必要であります。いわゆる聖化の道をひたすら歩もうという決意と精進が必要であります。

 それが七章一節の言葉であります。「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となれ」という勧告になるのであります。ここでは「肉の汚れ」だけでなく、「肉と霊のあらゆる汚れ」といっているのですから、むしろ、霊の汚れが問題であります。
 そして「このような約束を受けているのですから」という約束は何かといいますと、一六節からの旧約聖書からの引用であります。
 「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」、これは出エジプト記からの引用であります。
 そして一七節の「『だからあの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる」というところからは、イザヤ書の言葉、エレミヤ書の言葉の引用であります。
 
 その中でイザヤ書の言葉をみてみたいと思います。イザヤ書の五十二章一一節からの言葉であります。
 「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ。しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがり守るのもイスラエル神だから」。
 ここはわたしには、やはり口語訳聖書のほうがなじんできましたので、口語訳聖書で引用しますとこうなってりおります。「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器を担う者よ。おのれを清く保て。あなたがたは急いで出るに及ばない。また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ」。

 「そこを出よ」というのは、バビロンから出よ、ということであります。異教の民バビロンに捕らわれている捕囚の民に対しての言葉なのです。捕囚から解放されるイスラエルの民に対する呼びかけであります。あの偶像にみちていたバビロンから出よというのです。
 しかし急いで出る必要はないというのです。逃げ去ることも、あわててとんで行く必要もない、というのです。なぜなら主は、われわれの神はわれわれの前にいてくださり、われわれの一番うしろになって、しんがりとなってわれわれを守ってくださるのだから、というのです。
 
 われわれは聖化とか、自分を清くしなくてはならないと思うと、本当にくたびれてしまうし、途中で挫折してしまうのです。また自分を清くしようとするあまり、ついつい自分を正当化し、他の人々を軽蔑したり、排除したりしがちなのです。そうしては心を狭く狭くして、しまうのであります。

 われわれは自分ひとりの力で、自分ひとりの精進努力で、自分を清くしようと思うと、必ずそういう道を歩んでしまうのではないか。

 しかしそうではないというのです。神がわれわれの前に行き、神がわれわれのしんがりとなってまもってくださるのだから、そんなに急ぐ必要はない、あわてる必要はないというのです。

 この神の守りを信じて、この神様の御手に導かれて、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全な聖なる者となれ」という、信仰の精進をしていきたいと思うのであります。