「慰 め」 コリントU七章二ー一○節

 今日学ぼうとしております七章二節からのところは、よくわからないところがあります。たとえば、一一節からのところで、「例の事件に関しては、あなたがたは自分のすべての点で潔白であることを証明しました」とありますが、「例の事件」というのが具体的にどういう事件であるかよくわからないのです。

 よくわからないのですが、どうもコリント教会の中でなにか問題が起こって、それは教会を駄目にするくらいの大きな事件であるにもかかわらず、コリント教会の人々はそれに対して、きちんと対応していない、それをパウロは大変憂えて、また怒って、手紙を出したらしいのです。それが八節にある「あの手紙によってあなたがを悲しませたとしても」というところにあたるようであります。

 その手紙はパウロが涙をもって書いた手紙のようで、それはコリント教会に対して大変厳しい内容の手紙で、それはコリント教会の人々を傷つけ、悲しませ、あるいは怒らせたかもしれない手紙だった。それでパウロはその手紙がどのように受け取られたかを心配になって、弟子のひとりテトスをコリント教会に派遣したのです。しかしテトスはなかなか帰ってこなかった。

 それが五節のところに記されていることのようであります。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました」と記されていのです。

 そうした中で、テトスがようやく帰ってきた。そしてそのテトスの報告ではコリント教会ではパウロに抱いていた誤解がとけたようで、パウロの真意がそのまま伝わったようで、まえにもまして、コリント教会の人々が七節にありますが、「あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き苦しみ、わたしに対して熱心であることを伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだ」というところであります。

 二節から四節のところが、五節からのところと関連があるのか、あるいは全く別のことがらなのかはよくわかりませんが、いま手紙がおかれている現状からすれば、二節の「わたしたちに心を開いてください」という言葉に始まる勧告、またパウロが自分はだれをも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれをもだましとったりしたことはないというパウロの自己弁明は、五節から記事の前書きのようにも読めるところであります。

 ともかくこの五節から始まるところでは、パウロがもうとても喜んでいる、それが手にとるように感じられて、ここを読むとパウロという人が身近にかんじられるような気がしてくるのです。

 ここでのパウロの喜びは、コリント教会の自分に対する誤解がとけたいうことであります。それはいってみれば、仲直りできたということであります。これをパウロは手放しで喜んでいるのです。

 ここに現されているパウロの喜びは、なにか宗教上の悟りを開いたとか、啓示を受けたとか、そういういわば高尚な喜びではないのです。誤解がとけて、もう一度交わりが回復したということなのです。それをこんなにも喜んでいるのです。
それはわれわれがしばしば味会う喜びとあまり違いはないのではないかと思って、このパウロの喜びにうれしくなるのです。

 しかし考えてみれば、神の喜びも全くそれと同じ喜びだといえるのではないか。ルカによる福音書にあの有名な放蕩息子の話の前にある話に、イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしているのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者が非難したときに、こういう話したという記事があります。
 「百匹のうち一匹が見失われたときに、羊飼いは他の九十九匹を放っておいて、その失われた一匹の羊を見つけるまで探し回るだろう。そして見つけたら喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくれ』というだうろ」という話をするのです。
 そうして「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びがある」といわれるのであります。

 神様の一番大きな喜びは、罪人が悔い改めてもう一度神様との交わりの中に帰ってくることなのだというのです。それを今わたしは喜んでいるので、徴税人や罪人と一緒に食事をしているのだ、それがどうしてお前達はわからないのかとファリサイ派の人々を批判しているのです。

 神がお喜びになるのは、われわれが一生懸命に修業をつんで、なにか宗教上の悟りを開いたとか、人格的に立派な人間になったとかということではないのです。われわれがこのままの姿で神のもとに立ち帰ろうとすることだというのです。すでに学んだところでいわれた言葉をもちいれば、それは神との和解だということです。神と和解する、神と仲直りする、それが救われるということであり、それを神が一番喜ばれることなのだということなのです。

 そうであるならば、パウロが今コリント教会の人々と和解できたということ、もう一度その交わりが回復できたということをこんなにも喜んでいるのを知るのはとてもよくわかることなのではないか。

 そしてそれはコリント教会の人々のパウロに対する誤解がとけたということだけを喜んでのではなく、それと同時に、いやそれ以上にパウロの厳しい手紙を読んで、コリント教会の人々がもう一度神の前にひれ伏して、神に向かって悔い改めている、神と和解している、そのことを知ってパウロは喜んでいるのであります。
 
 九節にこうあります。「今は喜んでいる。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは、神の御心にかなったことなので、わたしたちからは何の害も受けずにすんだ。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらす」というのです。

 竹森満佐一がここの説教でこういっております。「後悔と悔い改めとは違う。後悔というのは、あとで残念に思うことだ。後悔には何の望みもない。もうできてしまったことだ。今更、どうにもならない。変えられない。しかし、どうしても変えたい、できないことをどうかしたいと焦り、悔やむのだ。思い切りが悪いといわれるかもしれない。しかし、どうにもならない。後悔は自分がしたことがいやになったということだ。よく考えてしたつもりが、やはり失敗であったと思うのだ。それで今の状態を変えたいのだ。言い換えれば、与えられたままではいやなのである。ここのままでは神の恵みが感じられないと思うことだ」、そういっているのであります。

 パウロは、「神の御心に適った悲しみは取り消されない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらす」といいます。ここでいう「世の悲しみ」とは、ただ後悔ばかりしている悲しみであります。それは自分がやったこと、自分が失敗したことばかりに、思いがいって、悔やんでばかり、もうどうにも取り返しがつかないことにくよくよとばかりして、自分を責めているからであります。それは死をもたらすだけであります。

 しかし考えてみれば、神の御心にかなった悲しみと、この世の悲しみと二種類の悲しみがあるわけではないと思います。悲しみは一つだと思います。その悲しみを神の御心に適った悲しみにするか、それともただ後悔ばかりして、悔やんでばかりしていて、自分を責め続けて終わる、それがこの世の悲しみになるかのどちからであるということではないか。
 われわれが一つの悲しみに対して、どういう態度でその悲しみを受け止めるかによって、神の御心に適った悲しみになるか、それともこの世の悲しみなるかが違ってくるのではないかと思います。

 主イエスが十字架にかけられたときに、主イエスを銀貨三十枚で敵に売り渡したイスカリオテのユダ、そして主イエスにあんなに愛されておりながら、そしてそれに応えてあなたと一緒に死にますと誓っていたペテロ、そのペテロはついに自分の弱さのために「そんな人のことは知らない」と三度イエスを否認したペテロ、ふたりとも同じように悲しんだと思います。

 ユダは最初は悲しまなかったかもしれません。しかしイエスがいよいよ十字架で殺されるということが分かったときには、やはり自分のしたことの大きさに気付き悲しんだと思います。自分を責めたに違いないと思います。そして後悔したと思います。しかしそれだけで終わってしまって、ついには首をくくって死んでしまったのであります。

 それに対して、ペテロはどうだったか。ペテロも同じように悲しんだと思います。そして自分を責め続け、後悔したと思います。しかし後悔しながら、神に赦しを乞い続けた事だろうと思います。神にその悲しみを訴えたのではないか。
 
自分の悲しみを、ただ自分を責めるだけの後悔に終わらせるか、それともその悲しみを後悔しながらも、神に訴え続け、神に赦しを乞うか、それが悲しみを後悔だけに、つまり世の悲しだけで終わらせるか、それとも神の御心に適った悲しみにして、悔い改めに導き、そうして救いに至らせるかということであります。
 自分を責め続けるか、神にその悲しみを訴えるかという違いであります。

 ペテロは、その悲しみを深めていって、自分の罪に気付かせられたのではないかと思います。ペテロは自分の罪に気付いたときに、それは神に赦しを乞う以外にないと思ったのであります。自分で自分の罪を処置することはできないと思ったのではないかと思います。それで神に赦しを乞い、神の赦しを待ち続けたに違いにないと思います。それはもちろん明確な姿で、たとえば、ペテロはただちに山にでもこもって、神に赦しを乞い続け、祈りに祈ったということではなかったでしょう。もうただ茫然として、あるいは、ぼんやりとして、自分の故郷にとぼとぼと帰っただけかもしれません。しかし、彼はユダのように、自分の罪は自分で処置はできないと思っていたことは確かだろうと思います。自分の罪は自分で処置できるほど容易なものではないと思っていたことは確かだろうと思います。それは神に赦してもらう以外にないと、ぼやりとではあったかもしれませんが、思い続けていたに違いないと思います。

そういうペテロに復活の主が現れてくださって、もう一度「お前はわたしを愛するか」と尋ねてくださったのです。それがペテロの悲しみを神の御心に適う悲しみにしてくれて、それが悔い改めに導き、救いに導いたのであります。

 ユダも最後は悲しんだと思います。しかしその悲しみは、ただ自分を責める方向だけで、神に赦しを乞うという方向転換には至らなかったと思います。それは後悔だけに終わって、悔い改めには至らなかったのではないかと思います。後悔は、この世の悲しという後悔は、死をもたらすだけなのであります。

 「神の御心に適う悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」とありますが、だからといって、その悲しみは、ただちに、神のみこころにかなった悲しみになったら、ただちに、喜びに変わるというものではないと思います。悲しみの原因は取り去られるわけではないと思います。

 ペテロの場合でしたら、あの悲しみ、主イエスを三度裏切ったという悲しみは、決して取り去られることはなかったと思います。復活の主から三度目に「お前はわたしを愛するか」ときかれたときに、「ペテロは悲しくなった」と、聖書は記しているのです。決してその悲しみは取り去られることはないのです。その悲しみの原因であるペテロの弱さ、ペテロの罪は、決してその後もなくなりはしないし、取り去られたわけではないからであります。

 それは罪の問題だけでなく、たとえば、愛する者を失うという悲しみでも、その悲しみが神のみこころに適う悲しみになったとしても、それはただちに喜びに変わるわけではないと思います。その悲しみの原因になっているものは取り消されないからであります。愛する者は帰ってこないからであります。
 
 ここでは、神の御心にかなう悲しみは、喜びに変わる、とはいっていないのです。あるいは、その悲しみが神のみこころに適う悲しみになったら、その悲しみの原因は取り除かれるとはいっていないのです。それは悔い改めに導く、つまり、それは自分を責めるという方向から、神によって慰めをうけようとする、神に向けての方向転換が与えられるということなのです。

 悔い改めという字のもともとの意味は、向きを変えるという字なのです。日本語でいえば、回心、つまり回るという字の使われる回心です。心を改めるという字の改心という字ではないのです。

 ただ自分を責める、自分のほうばかりに向かう心を、神のほうに向ける、それが悔い改めということであります。それが神のみこころに適う悲しみになったということであります。悲しみの原因になったものは取り去られないままで、救われるということであります。つまり、それは悲しみが直ちに、喜びに変わることではなく、その悲しみが慰められるということであります。
 悲しみは喜びに変わるのではなく、慰めに変わるのであります。

 この七章の二節から一六節までのところで、「慰め」という言葉が何回も出てくるのです。竹森満佐一は、このところでこういっているのです。
 「慰めはただの幸福とは違う。慰めにはいつも悲しみが、不幸が伴っている。喜ぶことの難しい者が、慰められるのである。自分に何でもあって、不足を感じる必要のない者には、慰めはない」といっております。

 先ほど、悲しみはただちに喜びに変わるわけではないといいましたが、この慰めは、悲しみを喜びに変えてくれる力をもっているのであります。四節には、「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のなかにあっても喜びに満ちあふれている」と、パウロはいっているのであります。また一三節からは、「こういうわけで、わたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました」というのであります。

 われわれの味わう喜びは、赤ちゃんや子供が天真爛漫に喜ぶ、あの無邪気な喜びとは違うかもしれません。もう罪を知ってしまっているわれわれは、そういう無邪気な喜びはないかもしれません。しかしわれわれには、あの赤ちゃんの喜びよりも、いっそう深い喜びを与えられているのではないか。それは慰められるという喜びであります。

 自分の罪をかかえたまま、従ってさまざまな悲しみをかかえたまま、われわれは神によって慰められ、本当の喜びの生活を送ることができるのであります。