「神の御心に適った悲しみ」 コリントU 七章五ー一六節

 パウロは、コリント教会に対して、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適った悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう」といいます。

 ここは少し、わかりにくいところがあります。それは神の御心に適った悲しみは、悔い改めに導くといっておきながら、それに続いて、神の御心にかなった悲しみは、熱心、弁明、憤り、と続いて述べられていて、なにか悔い改めた者にはふさわしくないかのようなことが列挙されているからであります。たとえば、「弁明」ということがここに記されておりますが、悔い改め者が弁明するのでは、悔い改めにならないのではないかと思われるからであります。

 それで竹森満佐一のここのところの説教をみますと、こういうふうに説明しているのであります。たとえば、弁明ということをこう説明しております。
 カルバンはこういっているというのです。「ここでいわれている種類の弁明とは、自分の罪の弁解というよりも、むしろ、ゆるしの希求というほどのことであることに注意すべきである。それは自分の誤りをみとめ、へりくだって、ゆるしを乞うということよにより、身のあかしを立てる」ことだとカルバンはいっているといって、竹森満佐一は、「弁明であるから、自分に罪のないことをいうように見えるけれど、それは悔い改めの反対だ、悔い改める者は、自己弁明はしない」と、ここを説明するのであります。
 そしてさらに、つぎに「憤り」とありますが、これも他人の罪に憤るということではなく、自分の罪に対する怒りだと説明するのであります。

 ここに書いてあること、すべてをそのように悔い改め者の立場から説明しようとするのであります。悔い改めたのだから、自分の罪について弁明するのはおかしい、悔い改めのだから、他人の罪に対して憤るのはおかしいということで、ここをそのように説明するのであります。

 しかしそれはどうも無理な説明のような気がしてならないのです。弁明というからには、それはなによりも、自分の罪に対する弁明のことを指すはずであります。憤りというからには、何よりも自分の罪に対して憤るというよりは、他人の罪に対して憤ることだと思われます。自分の罪に対して憤るときには、こんな言い方はしないと思うので、憤るというからには、やはり他人の罪に対して憤る、他人の自分に対する不当な扱いに対して憤るということでなくてはならないと思うのです。

 そして確かに、悔い改めた者がそのように弁明したり、憤ったりすることはおかしいのです。だからそういう少し無理な説明になったのではないかと思うのです。

 しかし、ここで注意したいのは、パウロはここで「神の御心に適った悲しみは、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り」といっているのであって、神の御心に適った悔い改めが」とはいっていないということなのです。「神の御心に適った悲しみが」といっているのであって、「悔い改めが」といっていないということなのです。つまり、これはまだ悔い改めに至っていない状態、そこに導かれるまでの神の御心にかなった悲しみが、そうさせるということなのではないか。

 言葉をかえていえば、自分の悲しみを神の前で、あるいは神に向かって悲しんでいるときに、われわれは神に対して熱心になったり、神に対して熱心に弁明したりするということではないか。それはもう本当に激しい自己弁明をする。あるいは他人が自分に向けて行った不当な行為に対して憤ったりしている、ということではないか、そしてそれがやがて、神の御心にかなった悔い改めにわれわれを導いていくのでないかということなのです。

 ですから、これは神の御心に適った悲しみがわれわれを悔い改めに導く課程のなかで起こることなのではないかということなのです。また、悔い改めというのは、一回すれば、もうそれで完全だというのではなく、悔い改めては、また前の状態に帰り、そうしてはまた悔い改める、そういう悔い改めの繰り返しがわれわれの現状なのであって、一度神の御心に適った悔い改めをしたら、それですむようなことではないのではないかと思うのです。そういう完全な悔い改めに導かれる課程のなかでのことがここでいわれているのでないか。

 ともかく、それが神の前で悲しむとき、神に向かって悲しむとき、このようなことが起こるということであります。
 
 たとえば、ヨブのことを思いだして欲しいのです。ヨブはあるとき、突然大変な理不尽な不幸に見舞われた。ある時突然略奪隊に襲われて自分の財産を失う、また火事に見舞われ、嵐に見舞われて、自分の財産だけでなく、息子娘たちまでも失われてしまうのであります。それだけでなく、ヨブ自身が全身重い皮膚病に見舞われて、自分の奥さんから嫌がれ、「神様を呪って死んでしまったら」といわれるくらいなのです。

 そのヨブはどうしたか。まず、嘆くのであります。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか、せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ労苦する者に光りを賜り、悩み嘆く者を生かしておられるのか」と、神に向かって嘆き始めるのであります。神に向かって、神の前で悲しむのであります。

 それに対して、友人たちが見舞いにきて、ヨブのあまりにも悲惨な姿をみて、またヨブがただ嘆き、いわば、神に文句をいっているのを見て、ヨブに対して゛「それはあなたが罪を犯したからだ、あなたは気がついていないかもしれないが、あなたがどこかで罪を犯したから、このような罰を受けているのだ。考えても見よ、罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と言い始めるのです。

 それを聞いてヨブはかっーとなって、友人に対して激しく憤るのです。そしてまた激しく弁明いたします。自分は絶対に罪を犯していないというのです。少なくとも、この不幸に見合うほどの罪は犯していないと弁明するのです。ヨブ記の大半は、このヨブの弁明と理不尽な友人に対する憤りに満ちているのです。そしてその友人にたいする憤りは、やがてこの不当な不幸を与えた神に対する憤りになるのであります。そしてそのヨブの激しい自己弁明と憤りがわれわれに共感を呼び、ヨブ記を大変感動的な書物にしているのではないかと思います。それが神の前でなされ、神に向かってなされているからであります。それはまさにわれわれ信仰者の姿だからであります。

 それはすべて神の前でなされている、神に向かってヨブはそれをしている。それが神の御心に適った悲しみになり、そしてそれが神の御心にかなった悔い改めに導いているのだということであります。

 神の御心に適った悲しみは、どういう悲しみかといえば、それは神の前で悲しんでいるかどうか、神に向かった悲しんでいるかということなのです。
 
 あのペテロが主イエスを、自分も十字架につけられて殺されるのではないかと恐れて、三度まで、イエスに対して「わたしはそんな人のことなど知らない」と否認した後、ペテロは突然、外に出て泣き出すのであります。その時ペテロが悲しんだのは、そういう自分のふがいなさ、自分の弱さ、ただ自己保身に走って、自分の先生を否認する自分の事を思って悲しんだのではないのです。ペテロが激しく泣き始めたのては、彼が「そんな人はしらない」と誓い始めたときに、鶏が鳴いて、それをきっかけにして、イエスの言葉を思い出した、「お前は鶏が鳴く前に三度わたとを知らないというだろう」といわれたイエスの言葉を思い出した、そのとき、ペテロは外に出て激しく泣いたのであります。

 これは単なる自責の念にかられて、ふがいなくて、ぶかいなくて、後悔して、悲しんだのではないのです。イエスの語られた言葉を思い出して、外に出て激しく泣いたのであります。自分の惨めさを、自分のふがいなさを、自分の弱さを、自分の罪をイエスはもう既に知っておられた、そしてそれを自分に知らせてくれていた、ということなのです。つまり、自分の罪はもうイエスに、神様に知られた罪であった、そのことを知って泣き出したのです。

 もう自分の罪は自分の心の中だけで、処理していればいいというものではなくなってしまっていた、もう神に知られた罪となってしまったいたということなのです。だから外に出て、激しく泣いたのであります。泣いたというのですから、悲しんだと言うのですから、つまり、恐れたとかというのではなく、泣いた、悲しんだというのですから、あのイエスの言葉「お前はわたしを三度知らないというだろう」というイエスの言葉は、ただ自分を責める叱責の言葉、裁きの言葉としてだけでなく、「お前の弱さはもうわたしには十分に分かっている」という響きに感じられたに違いないと思います。

 つまりイエスがもう自分の弱さを見込んで、それを赦してくださっているという響きがあったからこそ、そのことを思い出して、外にでて激しく泣いたのだろうと思います。そのイエスの言葉は単なる自分に対する叱責の言葉ではなかった、そこには赦しがすでに込められていた、だからこそ、ペテロは泣いたのであります。

 だからといって、ペテロはただちに悔い改めに導かれたわけではないのです。それから復活の主イエスにお会いするまで、ペテロは恐らく、神に対して熱心に自己弁明をしたかもしれない。またイエスを処刑した人々に対して憤ったかもしれない。しかしそれらのことをペテロはすべて神の前でした。神に向かってした。それを祈りのようにしたのではないかと思います。

 神の前で悲しむということは、神に向かって悲しむということであって、それは祈りながら悲しむということであります。

 祈りと座禅とは違うと思うのです。座禅のことはよく知っていないのに、こんなことをいうのは、少し僭越かもしれませんが、しかし、座禅の根本は、自分が悟るというところにあるのではないかと思います。確かに座禅にも導師という先生はいるかもしれません。しかし導師は彼を突き放す役割を果たすのでなはいかと思います。お前ひとりで考えよ、お前が悟れ、と突き放す役割をするのではないかと思います。

 それに対して、祈りというのは、相手がいるのです。対話なのです。神に向かって訴えるのです。つぶやくのです。叫ぶのです。弁明するのです。憤るのです。祈りというのは、なにも形式的に考える必要はないと思います。われわれは道を歩きながらも、祈るということであります。

 悲しみの中には、必ずどこかに自己否定というものがあると思います。自分は駄目だ、もう自分は終わりだという自分に対する否定的な考えがあると思います。だから悲しむのです。しかし単なる自己否定では、本当の自己否定になるのかどうかであります。
 イエスを裏切ったユダも、かつては自分の先生であったイエスがいよいよ処刑されると知ったときには、悲しんだと思います。そして自分を責めたのであります。自分を否定したのです。そして自分の犯した罪わ、自分で処理しようとして首をくくって死んでしまったのであります。しかしそれは本当に自己否定になっているか。

 自殺する人というのは、もちろん、自殺する人は、もうすでに心の病に陥っていると言うことですから、正常に扱うことはできないかもしれませんが、自殺する人はどこかに自分に対する甘えのようなものがあるのではないかと思います。

 自分を本当に否定するためには、絶対他者、自分を超えたかたによって否定されない限り、本当に自分を否定したことにはならないと思います。つまり本当に悔い改めたことにはならないと思います。

 ヨブはさんざん神の向かって文句を言い続けたのです。神に、最後にはもう友人に対してではなく、神に向かって、神に向かってだけ、悲しみ、憤り、弁明したのです。それこそ、パウロがいうように、ヨブは「熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意」を込めて神に訴え続けたのです。

 そしてとうとう神の声を聞くのです。主なる神は嵐の中から、「お前は何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」、と叱られてるのであります。お前は神か、お前は天地の創造者か、と言って叱られていくのであります。これがパウロのいう「懲らしめ」であります。

 その言葉を聞いてヨブは「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないことを悟りました。あなたのことを今まで、ただ頭だけで、耳にしておりましたが、今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」といって、悔い改めるのであります。

 悔い改めというのは、ただ自分で自分を否定することではないのです。ただ自分で、もう自分は愚かで、どうしようもない存在で、といって悔やむことではないのです。他者によって、お前は本当に駄目な人間だと否定されることであります。お前は何者か、お前は絶対者か、お前は世の中のすべてのことがわかるのか、と神から言われることであります。

 その時に、もう一切の弁明をしなくなるのではないかと思うのです。もう自分のことは自分で弁明する必要はない、もう自分のことは自分で守る必要はないということがわかる。このかたの前にひれ伏し、このかたにすべてをお委ねしようと思って神の前にひれ伏すのであります。そのとき、われわれははじめて、自分から解放されるのではないか。

 もう自分で自分を救う必要はないのだ、自分のことをなにもかも分かってくださるかたがいて、そのかたが自分を救ってくださるのだ、そのことがわかって、われわれは救われるのではないかと思います。救われるということは、自分から解放されるということであります。

 神の前で悲しみ、神に向かって悲しむときに、それが神の御心に適った悲しみになり、それが神の御心に適った悔い改めに導くのであります。

 そしてそのような悔い改めが、コリント教会との深い和解に導き、このことをパウロがどんなに喜んでいるかがそのあとの文に記されているのであります。