「教会の交わり」 コリントU 八章八ー二四節

 今日は、一○節から学びます。今日のところも、先週学びましたように、当時の教会のいわば、大本山でありますエルサレム教会に対する献金を要請するということをめぐっての話であります。

 お金の問題であります。献金の問題であります。「あなたがたはこのことを、このことというのは、エルサレム教会に献金をするということです、去年から他に先駆けて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思った通りに、自分の持っているものでやりとげることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」といいます。

 ここをみますと、コリント教会の人々は、一度はエルサレム教会に対する募金を始めたにもかかわらず、それが途中で頓挫したのではないかと思われます。「去年から先駆けて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいたのだ」という書き方からすると、どうも途中でその気持がなえてしまって、今その募金活動が中断されたような状況を思わされます。
 「だから、今それをやり遂げなさい」と勧めているわけです。お金の問題というのは、本当に難しいと思います。献金という問題は本当に難しいと思います。それは強制するわけてにもいかない、献金は国の税金とは違いますから、あくまで自発的なものですから、その自発性を重んじながら、なおその自発性を強く持って貰おうとしなくてはならない、自発性を促すということは難しいことであります。

 自発性なのですから、本当は、自発性というからには、他の人が勧めたり、もちろん強制などできるわけはないし、またそれはしてはいけないものなのですが、しかしわれわれの自発性などというものは、本当に頼りにならないもので、献金というものは、自発性だけを頼りにしていたら、成り立たないことも確かであります。なぜなら、われわれはお金はだしたくないからです。自分でもっていたいし、手放したくないし、手放したら不安なのです。

 パウロはここで、まずその自発性を重んじようとしております。「進んで実行しようと思ったとおりに」とか、「進んで行う気持があれば」と、あくまで自発性を重んじ、しかもなんとかその自発性を高めて貰おうとしております。 
 そうしてこういいます。「自分の持っているものでやり遂げなさい」「もたないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられる」というのです。

 これはずいぶん、常識的な、ある意味では、穏やかな勧めかたではないかと思います。一言でいったら、あまり無理をしないで献金に応じて欲しいという言い方では無いかと思います。

 ここにはキリスト教の愛の特徴として、いつも掲げられる自己犠牲の愛などというものは、みじんも感じられないのです。わたし自身は、いつもいいますように、キリスト教の愛は決して自己犠牲が目標とされるような愛とは思っていないのですが、あまり教会で自己犠牲、自己犠牲などといわれると、自分自身はできもしないくせに、他人にぱかりそれを強いるということで、またたとえできたとしても、自己犠牲ができたとしても、そのように自己犠牲されて愛されたり、お金をもらったら、そのような愛され方は大変な重荷を背負わせられることになるし、ちっとも愛された気持にはなれないのではないかとも思います。

 確かに、主イエス・キリストの愛は、十字架において示された愛は、ご自分の命を捧げられたということからすれば、自己犠牲の愛であります。しかしそれは決して自己犠牲そのものが目的ではなく、そうすることによって、なんとかして神とわれわれの関係を修復したい、回復したいための自己犠牲の愛だということであります。

 主イエスが、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれたのは、ここでは確かに自己犠牲の愛を高く評価しているところですが、しかしこれは「互いに愛し合いなさい」という勧めの中でいわれた言葉なのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」といわれたあと、「これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれたのです。

 つまり、互いに愛し合うためには、いつも自分を犠牲にする覚悟というか、思いをもって、愛し合わない限り、互いに愛し合うことはできないということなのです。目的は互いに愛し合うということなのです。神がどんなにわれわれから愛を求めておられるかということなのです。心をつくし、精神を尽くして、主なる神を愛せよということであります。愛して欲しいと神はどんなに願っておられるか、そのために、神はまずご自分のひとり子をわれわれのために犠牲にして愛を示してくださったということであります。

 互いに愛し合うためには、どうしても自己犠牲というか、自分は損してでもという覚悟は必要なのです。だから、自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛はないということであります。

 それにしても、ここにはそうした自己犠牲的なことはなにひとついわれていないのです。「自分が持っているものでやり遂げなさい、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」と勧めるのです。
 そうしてこういいます。「他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるというのではなく、釣り合いがとれるようにする」のだというわけです。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」といいます。

 「自分の持っているものでやりとげなさい」といいます。 ここの話で思いだすのは、聖書に出てまいります「レブトン二つを捧げた貧しいやもめ」の話であります。それはこういう話です。イエスがある時、弟子達と神殿にいったときに、そこに金持ちが賽銭箱に献金しを入れるのを見ておられた。そこに貧しいやもめがレブトン銅貨二枚を入れるのを見て、弟子達にこういったというのです。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と言われたというのであります。

 そこでは、イエスが貧しいやもめが自分の生活費全部を神に捧げたということを高く評価されたではないか、それに比べるとここでのパウロのは献金の勧めかたはずいぶんなまぬるいではないか、常識的すぎるではないかと、いわれるかもしれないということなのです。

 ここでパウロが「持っているものでやりとげよ」とか、「もたないものではなく、もっているものに応じて」というのは、自分の持っている全財産、自分の生活費全部、それは確かに持っているものですから、それを捧げよといっているように聞こえますが、パウロはそんなことをいっているのではないことは明だと思います。パウロがここでいいたいことは、具体的にいえば、自分の生活費をけずってまでして、それを犠牲にしてまで、献金しなさいというのではなく、生活費を除いたもので、余裕がある場合、そのもっているもので、捧げ物をしなさいということだと思います。
 そうでなければ、「他の人々には楽をさせて、あなたがたに労苦をかけるということではなく」という言葉は出てこない筈であります。

 ですから、パウロがここでいっていることは、自分の生活費を確保して、その余分のもので、その持っているもので、という意味であることは明らかだと思います。つまり、「持たない物ではなく」というのは、「自分の生活費だけで一杯で、もう余裕はない、生活費以外何ももうもっていない、その持たないもの」という意味であることは明らかだと思います。

 そのパウロに対して、イエスはこのレブトン銅貨二つを捧げたやもめを、彼女は自分の生活費を全部ささげたのだといい、それをお褒めになっている、イエスはやはり、パウロに比べるともっと徹底している、過激だということなのでしょうか。献金というのは、自分の生活費全部を捧げることだと奨励したのでしょうか。

 神殿に銅貨二枚を捧げたやもめ女の献金をイエスがお褒めになったのは何のためかということです。だいたい、この女のもっているレブトン銅貨二枚が、彼女の生活費全部だなんてことは考えられないし、第一イエスがどうしてそれが彼女の生活費全部なんて知っているのか。

 献金というのは、いつも生活費全部を捧げることが本当の献金だなんてことを勧めのは、まるで新興宗教の教祖みたいなことになってしまうのではないか。イエスがそんなことを勧めるはずないと思うのです。

 ここでのイエスの目的は、お金持ちの献金の仕方を批判しているところだと思います。彼らは「有り余る中から献金したが」とイエスはいうのです。つまり、金持ちたちは、確かに献金はした、それはこの貧しいやもめが捧げたレブトン銅貨二枚よりは、十倍も何十倍も額は多かったかもしれない、しかしそれは金持ちにとっては、痛くもかゆくもない額でしかないだろう。それは彼らにとっては、どぶに捨てるようなものでしかなかっただろう、それが献金か、とイエスはいいたいのだと思います。この話のポイントは、金持ちの献金の仕方に対する批判であります。

 金持ちの献金の仕方に対して、この貧しいやもめは今二枚の銅貨をもっている。家にはこれ以外にも生活費の少しは確保されているかもしれない。しかし、彼女にとっては、今二枚の銅貨をもっている。本当なら、そのうちの一枚だけ捧げても良かったはずだ。しかし彼女は自分の今もっている二枚の銅貨をすべてささげた、いわば一枚けちらなかった、それをイエスはみていて感動したのではないかと思います。それは貧しいこの女にとっては、彼女の生活費すべてを捧げたことに匹敵することではないかということなのでないかと思います。

 しかもイエスは、この女のところにのこのこと出て行って、それを告げて、それをお褒めになったのでなはいのです。それをだた弟子達に告げただけであります。恐らく、田舎から出てきた弟子達は、エルサレム神殿の立派さにどきもを抜かれ、金持ち達の献金の額の大きさに驚嘆している、そういう弟子達に対して、イエスはこの貧しいやもめ女の献金をとりあげたのではないかと思われます。

 献金について、ある人がいった言葉を思いだします。教会の献金は、なにも新興宗教のように自分の生活費を全部ささげよ、なんてことではない、しかし、その献金には、少しは自分の生活費の一部をきりつめるという痛みがともなわなくてはならない、少しは痛みが伴うくらいの額でなければ献金ではないのではないか、というのです。

 やはり、金持ちがありあまる中からどぶに捨てるようにして献金するようなことでは困るのであります。

 そしてパウロはいいます。一三節「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるというのではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補い、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれることになるのです」というのです。
 これはまさに日本のことわざにありますように「情けは人のためならず」であります。これはつまり、ことわざになるくらいに、きわめて常識的なことだということであります。

 そしてパウロは旧約聖書を引用してこういいます。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。

 これは出エジプト記にある言葉ですが、イスラエルの民が奴隷であったエジプトから脱出してようやく故郷のカナンに旅しているときに、砂漠をさまよっていたときの出来事であります。彼らは食べるものがなくなって、指導者モーセに文句をいいだした。こんなことなら、まだエジプトにいたほうが良かったと言い出す始末なのです。それでモーセは神に訴えところ、神はマナという不思議な食物を天から降らせた。

 神はその時こう命じられたというのです。「あなたたちは必要な分、つまり、一人あたり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい」といわれた。それで早朝それを集めた。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし升ではかってみると、「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないこともなく、それぞれ必要な分を集めた」というです。

 このようにして釣り合いが取れたというのです。つまり、ここに聖書が示す、あるいは神様が与えてくださる平等というものがあるというのです。

 それは全部一律に同じものが与えられのが平等だというのではなく、その人の個性に即してその人に必要な分が与えられるのが、平等だということなのです。つまり、太っている人にはやせている人よりは、沢山のマナ、パンが必要なのです。しかしやせている人は太っている人が必要な分量よりも少なくてもいっこうにかまわないのです。

 イエスのたとえにも、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラント、それぞれ能力に応じてお金を与えたという主人の話があります。つまり、その主人とは神様のことなのですが、そういうたとえ話がでてまいります。能力に個性があり、能力に差があってもいっこうにかまわない、それで平等が犯されるわけではないということです。
 
 それぞれが自分にとって必要な分を得て生活する、もし余裕がでてくれば、欠乏している人にそれをお裾分けする、それが相互主義だし、真の平等なのだというのです。そのようにして、お互いに釣り合いがとれるようにする、ただ自分一人が苦労する、そして他人は楽をさせる、そんなことがキリスト教のアガペーの愛だなどと自己満足しないことです。

 人々が天から降ってくるマナを集める時に、神がただ一つこうしてはいけないといわれたことがありました。それは「よくばって明日の分までため込もうとして多くのもの、余分のものをとるな」ということでした。
 その警告を無視して、欲張って明日の分まで取ってため込もうしたマナは翌日は腐ってしまっていたというのです。

 つまり、自分に必要な分だけとって、余分の分まではとらない、これに徹するには、神に対する信頼、神に対する信仰を必要とするということであります。神は必ず明日もマナを与え下さるという信仰があって、はじめて明日の分まで確保しないと心配だという思いわずらいから解放されるのであります。
 神に対する信頼があってはじめて、自分にとって多く持っているものを他の人に与えることができるという相互主義とか平等の社会も建設できるということであります。
 そうでなければ、能力のある人、金持ちはどんどんお金をためていって、それに執着し、人に決して与えないで、ただ貯蓄に走ることになるということであります。

 あすのことを思い煩わないためには、神に対する深い信頼がなければならないということであります。

 そしてそのあと、一六節からは、パウロは、この献金、この慈善の業を円滑に進めるために、テトスを派遣することを告げます。またさらにもうひとりの兄弟を同伴させますということを告げます。二二節では、さらにもう一人同伴させますと書き送るのであります。パウロはただお金を集めれば良いと考えているのではなく、このお金集めのためには、一番大切なのは心を通わすことなので、そのためには、自分が信頼し、また教会みんなから信頼されている人を派遣しなくてはならないとパウロは思っているのであります。

 人を助けるということは、やはり、最後はただお金の問題ではなく、人なんでい。人を信頼できるかどうかということなのです。
 それは経済の利潤を追求することを第一にしている会社組織でも、最後のところで大切なのは、そのトップに多くの人から信頼されている人間がいるかどうかということではないかと思います。

 われわれにとっての一番の財産は、金ではなく、人脈であるということであります。信頼できる人を何人もっているか、そして自分がどれだけ人から信頼されているか、それがわれわれの財産であるということであります。