「惜しまず豊に蒔く」 コリントU 九章

 また献金の話であります。エルサレム教会に対する募金の話であります。「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません」といいますが、もう十二分に書いてきているのです。これはもちろん普通の手紙で、これがまさか後に聖書になって、こうして福音を宣べ伝えるための説教のテキストになるなどとは思ってもいないで、パウロは書いているわけであります。

 ここで、「聖なる者たちへの奉仕について」とありますが、竹森満佐一がこの「奉仕」という字について面白いことを言っております。
 「奉仕という字はディアコニーという字から来ている。ドイツにいくとディアコニッセといって、生涯、独身で教会の奉仕の仕事をしている人たちがいる。そのディアコニーという字は、もとは、バタバタして埃を立てる、という意味があると言われている。人のためにひたすら動き回て、埃りばかり立てているように見えるということなのだろう。奉仕というと何か、仕えてやる、という気持がしないでもないが」というのです。
 われわれは奉仕というと、本当になにかやたらにかまえて、奉仕してやろうなどとかまえてしまいますけれど、奉仕という言葉のもともとの意味は、バタバタして埃りを立てるほどに、下働きをする、しもべとして立ち働くことだというのです。

 九章一ー五節をみますと、パウロはコリント教会の人を「わたしはあなたがたの熱意を知っているので」とほめていますが、しかしそうかといって、コリント教会の人々を全面的に信頼しているわけでもなさそうなのです。「マゲドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせた」と言っておりますが、しかし同時に「あなたがたのことで、私達が抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないために」というのですから、パウロはコリント教会のエルサレム教会に対する募金活動の進展を全面的に信頼しているようではなさそうなのです。
 つまりその募金で集められた献金が用意されていなかったら、自分たちは恥じをかくことになるから、そうならないように献金を用意しておくように、しかもそれを渋りながらではなく、惜しまずに差し出すものとして用意しておくようにと要請しているのであります。

 世俗的にいえば、お金を受け取りにいって、そのお金が用意されていなかったならば、自分たちのメンツがたたないというのです。これでは何か露骨に献金を強要しているような感じすら受けてしまうのであります。献金は強制ではない、あくまで自発性を重んじるといいながら、「渋りながらではなく、惜しまず」などと言葉に出して書き出すのは、これは一種の強制ではないかとさえ、思えてくるのであります。そう考えるのは今日のわれわれが少しひねくれているからでしょうか。そうともいえないと、思います。パウロはもちろんここで自分のためにお金を求めているのではなく、エルサレム教会のためにお金を求めているから、こういう事が言えるのでしょうが、お金を集める、言葉は悪いですけれど、お金を引き出すということがどんなに難しいかということは、現代もこの時代もひつも変わってはいないということてばいなかと思います。

 パウロはコリント教会の人々を褒めたり、しかしまた心配したり、不信とまではいかなくても、少なくも不安になったりしている様子がこの手紙をよみますとよく分かるのであります。

 お金とか、献金の問題は、自発性のない献金はもともと献金ではないわけで、それは心から捧げるものでなければ、本来献金ではないわけで、しかし、われわれ人間の自発性だけを頼りにしていたら、お金はちっとも集まらない、献金は少しも集まらないという現実があるわけです。
 それほど、われわれ人間はお金をだしたがらない、やはりなんといってもお金には執着している、自分の生活を支える大事なものだと思っているわけです。

 信仰生活をする、つまり、信仰生活をするということは、信仰生活を続けるということで、あるいっとき、ある瞬間だけ、信仰に燃える事ではなく、その生活をずっと死ぬ間で続けるということは、自分が生きるということを続けるということであって、自分の肉体をささえ、生活を支えるパンの問題、お金の問題とどう対処していくか、つまり、神と富とに兼ね仕えることはできないといわれた主イエスの言葉を聞きながら、具体的には、神と富とにどのようにしたら、うまく兼ね仕えながら、生きることができるかということであると思います。

 お金をあらかじめ用意して、それを捧げる、それは大変難しいことだと思います。何かに感激して、衝動的に献金するなら、それは瞬間的なことですから、それは容易なことかもしれません。しかしある程度時間があって、お金を準備して、それを献金として用意する、ということは、その間にいろいろとこの世的な思惑とか計算が働くわけです。そういう計算とこの世的な思惑と戦いながら、それでも自分はこれだけのお金を神様に捧げるのだと決断する、それがあらかじめお金を用意するということであります。
 そして、そのように用意された献金というのは、あの衝動的に捧げられる献金、それは一見なにか大変純粋に見える行為かもしれませんが、その衝動的に捧げられる献金に比べたら、何か信仰的でない不純な献金のように感じられるかもしれませんが、そうではないと思います。こういう献金、少し大げさに言えば、自分の欲とか、自分の不信仰と戦いながら、捧げられる献金こそ、尊い本当の信仰的な献金、本当の捧げものだと言えるのではないかと思います。
 
 ある教会では、月定献金はなしにして、礼拝の席上献金だけで、教会の運営をしていくという教会があると聞いております。いわゆる純福音系の教会です、つまり、献金というのは、あくまで自発性が大事なのであって、教会の運営は予算を立てたりするのは、不信仰であくまで神様を信頼して、ただわれわれの自発性だけを重んじて、やっていこうということらしいのであります。それはいかにも信仰的に見えるのです。しかし本当にそうだろうか。

 献金は自発性が大事なことは確かですが、その自発性というのは、あくまで罪人のもつ自発性であります。なにか聖人の自発性ではないのです。われわれ罪人の自発性であります。そうであるならば、この世的な思い煩い、お金に対する執着心、富に仕えようとする自分、そういものと戦いながら、それでもこれを神様のご用のために捧げようとして、捧げる、そうした悪戦苦闘の戦いをしながら、自発的に捧げる、それがわれわれ罪人の自発性ということではないかと思うのです。

それは献金の問題だけでなく、われわれが人を愛するということだって、愛は自発性が大事だなどとのんきにかまえていたら、われわれは一生人を愛せないと思います。少なくも、敵を愛するなんてことはできないと思います。やはりイエスから、「あなたの敵を愛しなさい。右の頬をぶたれたら、左の頬をぶたれなさい」というイエスの言葉を聞いていなければ、われわれは生涯、敵を愛することも、人の罪を赦すなんてことはできないと思います。

 パウロは、六節から、その自発性をさらにうながすために、こういうのです。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊に蒔く人は、刈り入れも豊なのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点で、すべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるさせることがおできになります」と書くのであります。

 ここは以前は、教団の月定献金袋の表紙には、口語訳ですけれど、「少ししかまかない者は少ししか刈り取らず、豊にまく者は豊に刈り取ることになる。各自は惜しむ心からではなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである」というここの聖句がその表紙に印刷されていて、それはなにかあまりにも嫌らしいということで、今ではそれが印刷された袋はないと思います。

 つまり、「少ししか蒔かない者は少ししか刈り取らず、豊に蒔く者は豊に刈り取る」といったあと、「各自は惜しまず、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりに」というのでは、献金の勧め方としては露骨すぎるということで、この袋は用いられなくなったのではないかと思います。
 つまり、ここには献金をしたら、その額に応じて神からの恵みがありますよ、ということで、なにか御利益的な献金の勧め方になるのではないかということで、みんなからいやがられたのではないかと思います。

われわれは報酬を求めて、豊に刈り取るために、献金するのではないということなのかもしれません。もっと純粋に捧げものをしたいのだということなのかもしれません。しかしある人が「新約聖書は、はなはだ現実的な本であって、その大きな特徴の一つは報酬めあての動機を一つも恐れていないということだ」といっております。

 たとえば、主イエスは施しをする時には、あの偽善者たちがするように、みんなの見ている前で施しをしないで、隠れたところで、右の手のすることを左の手にも知らせないようにしなさい、というのです。なぜなら、人の前で善行をする者は既に報いを得てしまっているからだ。だから天の父からの報いをうけられなくなってしまうからだ」というであります。
 そこで、大事なことは天の父からの報いを受けること、神様からの祝福を受けることが大事なことなのだ、そのためにわれわれは隠れたところで善行し、施しをするのだというのです。
 
 つまり、善のために善をするというような、そんなかっこいい、高尚な倫理なんかいわないということなのです。われわれは神様から、イエス様からほめてもらいたいために善をする、施しをする、献金をするのだということなのです。それをいやらしい不純な動機だなどと思う必要はないし、それを不純な動機だなどと思うほうが大変傲慢なのであって、われわれが一番求めなくてはならないのは、何よりも神様からの報いであり、神様からの祝福なのであります。それがわれわれを本当に謙遜にするのであります。

 ただそれは神様からの祝福ですから、われわれの期待どおりのものではないかともしれません。主イエスはあるところで、「求めよ、そうすれば与えられる、あなたがたの天の父は、求める者に良いものを下さるに違いない」といわれるのです。しかし、ルカによる福音書では、そのところを「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」といいかえております。
 その時にわれわれは「聖霊」などもらっても仕方ないといってはならないということであります。神様はわれわれにそのつど神様から見て最善のものを与えてくださる、それが神様の与えてくださる報いであり、それをわれわれは信頼して求めていかなくてはならないのであります。われわれの聞かれない祈りの中にこそ、神様の祝福があるかもしれないし、そこに祈りが聞かれているということもあるのだと信じなくてはならないのであります。

 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊に蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。これは詩編の一二六篇の言葉を思い出させます。 
 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と歌われております。
 苦労して種を蒔いても必ず喜びをもって刈り取ることができるのだと励ましているのであります。必ず神の報いはあるということであります。

 しかし、ヨハネによる福音書のイエスの言葉にこういう言葉があります。四章三六節からのところです。ここはイエスが弟子達に今や伝道の時だ、そしてわたしがこの世に来たことによって、預言者達が長い間苦労して伝えて来たことが実現して、その種の実をお前達が刈り取る時が来たのだといっているところであります。

 「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざの通りになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたがその労苦の実りにあずかっている」といっいるのであります。

 預言者たちがさまざな殉教に会いながら、神の言葉を述べ伝えてきた。そしてその預言者たちはその実を刈り取ることはできなかった。その刈り取った実を見ることができなかった。しかし今お前達は、自分では苦労しなかったのあの預言者たちの実を今刈り取ろうとしているのだというのであります。そして今、「種を蒔く人も、刈る人も共に喜ぶのだ」というのです。その実を刈り取ることもできないで、無惨にも死んでいったあの預言者たちも今共に喜ぶのだというのです。

 「一人の人が種を蒔き、別の人が刈り取る」ということわざは、人生の悲劇として、人生の不条理としてのことわざだと思います。しかしイエスは、今それを人生の悲劇とか不条理としてではなく、神の祝福として、神の報いとして、弟子達に述べているのであります。
 どんなに涙をもって、苦労して苦労して、種を蒔いても、必ずしもその実を喜びをもって刈り取れるとは限らないのがわれわれの人生なのです。別の人がそれを刈り取ることになるかもしれない。しかしそれでもいいではないか、共に喜ぼうてばいなかと、われわれは思うことができるということであります。

 子育てなどは、まさにそうかもしれない。ある意味では、伝道ということもそうかもしれないと思います。これは特に地方の田舎の伝道などは、折角苦労して苦労して涙をもって伝道し、そしてようやく洗礼者を出しても、その若者はやがて大学にいくために、就職するために都会に出ていってしまうのであります。そしてもはや帰ってこないのです。その実を刈り取るということはないのです。地方の教会というのは、みなそのことで苦労しているのであります。

 それでもいいではいないか、自分が蒔いたものが別の人が刈り取ることになる、それでもいいではないか、共に喜ぼうという思いがなければ、なかなか地方で伝道することはできないのであります。そして神の祝福というのは、そういうわれわれの近視眼的な目とは違い、長い広いスパン、幅で考えないといけないと思います。

 「惜しまず豊に蒔く人は、刈り入れも豊である」神はあなたがたをいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよいわざに満ちあふれるようにあらゆる恵みをあなたがたに満ちふれさせることがおできになります」という神の約束を、そのように、長い目で、広い目で、せせこましい思いではなく、豊かな思いで、神様の報いを信頼していきたいと思います。
 今涙をもって種を蒔いているかたも、そういう意味で、その涙は必ず報われる時がくるのだと信じて、種を蒔き続けていきたいと思うのであります。