「神に対する感謝」 コリントU 九章六ー

 主イエス・キリストのいわれた言葉で、ただ一つ福音書に書き残されていない言葉が使徒言行録の二○章に、パウロの言葉として残されております。それはパウロがエフェソの教会の長老たちに別れを告げる最後の言葉として言われた言葉てあります。
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が『受けるよりは与える方が幸いである』といわれた言葉を思いだすようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」といって、パウロはひざをついてみんなと一緒に祈り、人々はみな激しく泣いてパウロとの別れを悲しんだというところであります。
 
 「受けるよりは与えるほうが幸いである」と、主イエスはいわれたというのです。パウロはそのイエスの言葉を誰から、どこから聞いたのかわかりませんが、そのイエスの言葉を思い出しながら、今コリント教会に、エルサレム教会に対する募金のことで書いているのかもしれません。

 パウロは詩編の一一二篇を引用するのであります。九節です。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」。

 ここは口語訳聖書では、「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続く」となっています。詩編の一一二篇のほうも同じであります。しかし、新共同訳は「彼の義は」というところを「彼の慈しみは」と、訳しているわけです。
 「義」というヘブル語には、「慈愛」という意味、「愛」という意味も含んでいるからそう訳したと思いますけれど、しかしやはりここで「彼の義が永遠に続く」と訳したのでは、パウロが今まで用いてきた「義」という言葉とはあまりにもかけ離れているから、「慈しみ」と訳したのではないかと思われます。

 パウロはわれわれが救われるのは、われわれの善行などというわざ、義などではないのだ、われわれは自分が救われる根拠となるような善行などできる筈はないのだ、われわれが救われるのはただキリストの十字架に於いて示された神の憐れみの義によってなのだと言ってきているからであります。

 ここを説明して竹森満佐一はこういっています。「パウロという人は人間の義についてもっとも厳しく考えていた人だ。人間が作り出した義では、救われることがないということをことごとに訴えた人だ。その人が施しくらいで、人が神に対して義を得られるなどと考えられない」というのです。

 そしてこれは、その次の句に「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになるかたは、あなたがたに種を与え、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」とありますが、ここも口語訳は、「あなたかだの義の実を増やしてくださる」となっておりますが、要するに、これは神様が与えてくださる義であり、われわれが人を慈しむという慈しみも、もともとはわれの中にあるのではなく、神に与えられてはじめてわれわれの中に存在し、その義を、その慈しむ心を成長させてくださるという意味なのだということであります。

 そこで思い出すのは、前の説教でも引用しましたが、サレプタのやもめ女が預言者エリヤを助けたという記事であります。預言者エリヤがアハブ王に迫害されて逃れていたときに、ついに食べるものがなくなった。その時に、神からサレプタのやもめ女のところに行けといわれるのであります。そこにいったところ、ひとりのやもめが薪を拾っていた。それでエリヤが「器に水を飲ませてくれ、パンを一切れもってきてくれ」と頼みますと、女はこう答えた。「わたしには焼いたパンなどない。壺には一握りの小麦粉と瓶の中に一握りの油があるだけで、わたしは二本の薪を拾って帰り、息子の食べ物を作り、それを食べてしまえば、死を待つばかりなのです」と答えて、エリヤの申し出を拒否するのです。

 するとエリヤは「恐れてはならない。帰ってあなたが言ったとおりにパンを作りなさい。だがまずそれでわたしのために小さいパンを作って、わたしに持ってきてほしい。それからその後、あなたとあなたの息子のために造りなさい。なぜなら、イスラエルの神、主はこういわれるからだ、『主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない』」。
 やもめは預言者エリヤの言うとおりにしたというのです。

 ここはまさに、このやもめ女の義が、この女の慈しみが、エリヤを助けたのではないのです。彼女は一度はエリヤの申し出を拒否しているからです。女はただ預言者の言葉、「神が壺の粉を尽きることなく、瓶の油を絶やさない」という言葉を信じて、エリヤにパンを先ず与えたということなのです。

 それはまさにパウロがコリント教会の人々に対して「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになるかたは、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します」といっていることであります。
預言者エリヤは、「もしわたしにパンを作ってあたえてくれるならば、あなたがたの壺の粉は増えるし、瓶の油もなくならない」と約束しているからであります。

 やもめ女は決して高尚な精神の持ち主ではなかった。崇高な義をもった女でも、慈悲深いやもめでもなかった。ただ神の慈しみを信じた、神が必ず種を与え、パンの糧をあたえてくださるかたであると信じた、だからそれができたというのです。
 人に何かを与えるとき、あるいは施しをする時に、きっとこれをしていれば、神様がこの自分を祝福してくださる、神様が大いに豊に恵んでくださる、そういう思いでするということは、いわば御利益的な思いが働くことであり、それは愛とはいえないのではないかというかもしれません。しかし、人に親切にしていれば、きっと神様は自分にも何かいいことをしてくださるといういわば御利益的な思いをもちながら、施すなり、慈善な行為をしたほうが、つまり、何か崇高な顔をして、あるいは悲壮な気持になって施すよりは、ずっといい施しが、いい慈善的なことができるのではないか。少なくとも謙遜にそれができるのではないかと思うのです。

 われわれクリスチャンはとかく御利益信仰を軽蔑しますけれど、わたしは御利益信仰というのは、大切だと思います。神様からの報いを期待する信仰というのは本当に大切だと思います。そんなものは軽蔑する、そんなもの低い心だというのならば、もういっそうのこと神様なんか信じないで、自分の力で生きていけばいいと思うのです。

 主イエスが、われわれに教えてくださったあの「主の祈り」のなかで、主の名を崇めなさい、といわれたあと、一番われわれにとって大切なこととして、日ごとの糧を今日も与えてください、と祈れといわれたこと、そしてその次に罪の赦しについて祈れと教えられたことを考えなくてはならないことであります。

 ただこの御利益は、父なる神様が与えてくださる御利益ですから、われわれの予想通りのものではないかもしれない、いや、われわれの期待どうりのものでないかもしれない、神様がどんな御利益をあたえくださるかは、楽しみに待つ以外にない。そういう意味では、われわれの信仰は、いつも自分の期待を、神に対する信頼に変えていかなくてはならないのであります。

 それにしても、預言者エリヤがやもめ女に言ったことはすごいと思います。エリヤは「まずわたしにパンを造って、それをもってきてくれ。そのあとにあなたとあなたの息子のために作りなさい」というのです。「あなたがたがまずパンを食べてそのあまりのものを恵んでくれ」などというのではないのです。「まずわたしにくれ」というのです。

 そして女はその通りにしたというのです。これが「与える」ということなのだということです。それは金持ちが自分の余っているものをドブに捨てるようにして、人に施すということではないのです。いわば、貧しいやもめがレブトン銅貨を二つとも、今手にもっている銅貨をふたつを、一つではなくふたつとも捧げたということと同じであります。まず自分を大事にする、まず自分のことを確保して、それからエリヤを助けるというのではなく、まずエリヤのために、なけなしものを与える、これが与えるということだいうことなのです。

 それができるためには、よほど神に対する信頼がなければできないことであります。神は必ず恵んでくださる、御利益を与えてくださる、豊にしてくださるという神に対する信頼がなければできないことであります。

 パウロはさらにこういいます。「その施しは私達を通じて神に対する感謝の念を引き出します。この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになる。この奉仕のわざが実際に行われた結果として、彼らはあなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」。

 要するに、この施しは、エルサレム教会に対する献金のわざは、最後にみんなが神をほめたたえ、神に感謝するようなるというのです。そしてそれをすることによって、信仰告白ができるようになるということであります。

 最後には神に感謝するようになるというのです。
 神に感謝するということはどういうことでしょうか。それは神をほめたたえることだというのです。神をほめたたえるということはどういうことでしょうか。それは神がわれわれの人生を支配しておられること、神がこの全世界を支配しておられること、それを告白するということ、そのことに心から感謝し、神をほめたたえるということであります。

 神をほめたたえるということで、思い出すのは、ヨブのことであります。ヨブは正しい人であったにもかかわらず、何にも悪いこと、罰を受けるようなことはひとつもしていないにも拘わらず、ある時、突然大変な不条理な不幸に見舞われるのであります。自分の全財産が奪われ、自分の家族を失ってしまう。その時ヨブはどうしたか。ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言った。ここは口語訳では、「主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」と訳されております。

 ここでヨブはこの大変不条理な不幸の中で、「神の御名はほむべきかな」と神をほめたたえているのです。これはもちろん、衣を裂き、髪をそり落とし、というのですから、苦しみ抜いた果てにということでしょう、悲しみの果てにということでしょう、決してただちに神をほめたたえたわけではないでしょう、しかしその苦しみの果てに、悲しみの果てに、最後には地にひれ伏して、神をほめたたえたということであります。

 口語訳では、「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」となっておりますが、ここは新共同訳の「主は奪う」という訳よりは口語訳の「取られる」のほうがいいと思いますが、しかし口語訳の「主が」という訳よりは、新共同訳の「主は」のほうがいいと思います。

 これは日本語だけの意味かもしれませんが、「主が与え、主が取られたのだ」ということでは、ヨブはこの自分の出来事に関してだけ、これは神様はそうされたのだという意味でいわれたということになりますけれど、新共同訳のように「主は与え、主は取り去る」というように、「は」と訳しますと、主なる神さまというかたは、われわれにすべてのものを与え、われわれからまたすべてのものを取り去るかたなのだ、という意味をもったことになると思います。

 ここのところをリビングバイブルが大変意味をとって訳しております。「生まれた時、わたしは裸でした。死ぬ時も、何一つもって行けません。わたしの持ち物は、全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。神様の御名がたたえられますように」。これが一番いい訳のようにわたしには思われます。

 神様はすべてのものを与えてくださる、「ですから」、「だから」です、ですから神様はまたすべてのものを取り去るのだ、神様はその権利をもっていらっしゃるのだということであります。取り去る、奪い取る権利をもっいる。

 つまり、神様がすべてのものを与えてくださるのだという信仰に立つならば、またその神様はすべてのものをわれわれから取り去るかたでもあるという信仰にたたなければならないということなのです。そうでなければ、神が「与えてくださった」ということも、本当には信じたことにはならないということなのです。

 そうでなければ、すべてのものが奪われた時、取り去れたときに、ヨブのように「神の御名はほむべきかな」などと神を讃え、神に感謝するなんてことはでなきいということなのです。
 与えられた時だけ、神に感謝し、神をほめたたえるのであるなるば、それこそそれは御利益信仰に過ぎないのであって、神を信じたことにはならないということであります。

 くどいようですけれど、神から与えられた時に、神に感謝し、神をほめたたえるのであるならば、神から取り去られる時にも神をほめたたえられるのでなければ、与えられたものを神からうけとったことになはならないということなのです。

 もちろん、奪い取られたときに、ただちに神に感謝したり、ただちに神をほめたたえるなんかはできないと思います。とうてい、感謝なんかはできないと思います。しかし、その時にでも、ヨブのように、衣を裂き、髪を切り落としてでも苦渋に満ちてでも、地にひれ伏し、「神の御名はほむべきかな」と告白する信仰をもたなくてはならないと思うのです。つまり、神の御名をほめたたえるということは、わたしの人生のすべては神の支配下にあるという告白なのです。それが「地にひれ伏して」ということであります。不条理な出来事に出会ったときに、その苦しみのなかで、その悲しみのなかで、神の前で、地にひれ伏すのです。そのようにして「主の御名はほむべきかな」と告白する以外に、慰められることはないと思います。

 これはもちろん、容易にできることではあります。あのサレプタのやもめ女も、パンを与えられたときには、神に感謝し、神の御名をほめたたえたのです。しかしその後その息子が重い病におちいって死にそうになったのです。いや一時は死んでしまったのです。そのとき、女は預言者エリヤにくってかかり、「あなたは息子を死なせるために来たのですか」というのです。奪い去られる時には、ただちに神に感謝などできないのです。

 ヨブだって、その後のヨブ記をみれば、そうやすやすと神を賛美できなかったということが、延々と記されているのであります。しかしヨブは悪戦苦闘の末に、最後には地にひれ伏し、塵と灰の中に伏し、神を仰ぎ見、自分を退け、悔い改めることができたのであります。
 すべてのものを神があたえてくださるという信仰に立つものは、すべてのものがまた神から取り去れる時がくるという信仰に立たなくてはならないのであります。「主は与え、主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな」であります。

 パウロは最後に「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」というのであります。