「信仰者の戦いの武器」 コリントU 一○章

 コリントの信徒への手紙の一○章から一三章までは、今までのところとは、違うテーマと状況のようであります。それでこれは二章の四節のところで、パウロとコリント教会の間がこじれて、パウロに対するいろいろな誤解が生じて、それでパウロが「わたしは悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」とありますが、その涙の手紙がここに入り込んで、このような形になったのではないかといわれております。

 それはともかく、九章のエルサレム教会に対する募金要請の話とは違うのです。

一○章の一節をみますと、「さて、あなたがたの間で面と向かって弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われているパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたにお願いします」と書き出すのです。

 ここでは「キリストの優しさと心の広さとをもって」といいながら、パウロはかなりけんか腰であります。「わたしのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりだ。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っている」というのです。

 さらに九節をみますと、「わたしは手紙であなたがたを脅かしていると思われたくない。わたしのことを『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいる。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはない」と、いうのです。

 こういうところを見ますと、パウロという人は、決して八方美人的な人ではなかったということがわかると思います。パウロは六章では、自分は神に仕える僕なのだから、人に躓きを与えないようにいつも心がけているといいながら、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしているといっていたのであります。人にそしられたり、悪評を受けたり、というのですから、いつもいつも人から好かれたことには限らないし、人から嫌われるようなこともあったし、人を傷つけるようなことも言わなくてはならないときには言ってきたのであります。

 神の僕として生きるということは、いつもいつも人に仕えるんだといって、卑屈に卑屈に人のいいなりになるということではなく、それはあくまで、神の僕として生きるということで、まず第一に神の僕として、神に仕えることなのであって、それは必ずしも、人の僕として生きるということでない、人のいいなりなることではない、人間のご主人のご機嫌ばかりとるような卑屈な奴隷とは違うということなのです。

 真実を述べる人は、場合にとよっては、人を傷つけることも言わなくてはならないのです。人から非難されてでも、いわなくてはらないことはいわなくてはならないのであります。

 ここではパウロは自分はキリストの優しさと心の広さで、と言っておりますが、これは口語訳では、「キリストの優しさと寛大さ」となっておりますが、イエスは確かに優しさをもったかただったと思います。主イエスご自身が「疲れた者、重荷を負う者はわたしのところに来なさい。はわたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのところに来なさい、そうしたら安らぎがえられる」と言われているのです。
 しかし主イエスは権威をもって振る舞おうとするファリサイ派の人々、律法学者に対しては、大胆に堂々と立ち向かっていったのであります。もしイエスがただ優しさだけの人であったならば、十字架で殺されるなんてことはあり得なかったのです。

 ある学者がここで使われている「優しさ」というギリシャ語は、「過度に怒ることと、全然怒らないこととのちょうど中間を表す言葉だ」と説明しておりまます。それは怒りが完全にコントロールされている、抑制されていることを表す、そういう字がここで使われているといっております。

 そして「寛大さ」という字は、「公正にして公正以上のもの、つまり法や規則、正義が厳格に適用されると、かえって現実には不正となる場合がある。真の正義というのは、法規の文字に固執することなく、それをより高い次元で適用しようとすることだ、それが寛大さということだ」というのです。

 なんか難しそうな説明になりますが、ようするに、柔軟性をもって人に接するということではないかと思います。つまり、自分の感情、自分の怒り、あるいは自分の正義感だけにふりまわされないで、それを抑えることができるということであります。

 パウロは、二節で「わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者にたちに対しては勇敢に立ち向かう」といって、三節で「わたしたちは肉において歩んでいるが、肉に従って戦うのではない」といっております。

 肉において歩んではいるが、肉に従って戦っているのではない、歩んでいるのではないということはどういことかといえば、われわれ人間ですから、人間的な限界のなかで、この世の生活を生きているわけです。お金もかせがなくてならないし、ある程度貯金もしなくてはならないし、保険にも入っていなくてはならない、神様さえ信じていれば保険なんか入る必要はない、金銭もいらないという人もいるかもしれませんが、それがいかにも信仰的にみえますが、それは実はひとつも信仰的なことではなくて、それははなはだ無責任なことで、それで生活ができているとしたら、本人は気が付かなくても、まわりの人が一生懸命お世話したり、支えているだけの話かもしれないのです。

 だからわれわれは常識をわきまえて、この世の生活をしていかなくてはならないのです。他人の迷惑をかけないように責任をもって生きていかなくてはならない。信仰者といえども、常識人でなくてはならないのです。

 しかし、それだけに縛られて歩むのではない、お金を稼ぐ、そしてある程度貯金もする、しかしそのお金に振り回されない、お金に支配されないということであります。それが肉に従って歩まないということであります。

 肉において歩むけれど、肉に従って生きるのではない、ということは、言葉をかえていえば、いつも自分の人生を決断的に歩むということではないかと思います。この世的な欲望、人間の肉としての欲望をもちながら、絶えずそれにふりまわされないように、それをふっきって生きていくという決断をしながら、歩むということであります。そうでないと、われわれは自分の人生をずるずると何かに引きずれながら、流されて生きることになるのでないか。

 この世的なこと、あるいは人間的な欲望を常にふっきっていく、その都度その都度ふっきるという決断していく生き方をするということではないかと思います。

 肉に従って生きないということは、何も肉的な人間的な欲望によって生きないということだけでなく、たとえば、人間的な誇り、ただプライドだけを大事にして生きていくという人もありますが、そういう生き方をしないということでもあります。あるいは、自分が傷つかないようにということだけを最優先にして生きている人もありますが、そのためにいろんな役職につくことを極力避けようとする人がおりますが、それもある意味では肉に従って歩むということになるのではないかと思います。つま、自己保身だけを考えて生きるのではなく、ある時には必要な時には、自己保身的な生き方を捨てて、自分が傷つくことも恐れないで、人の上にも立つという生き方をする、そういう生き方をするというこでもあるのではないかと思います。
 
 わたしはいつも個性を大事にするということをいってきましたが、しかし個性なんてものも、どれがその人の個性かなんてこと自分で決められることでなはくて、思い切って自分の個性を捨ててみて、普段とは違う何かをやってみるということも必要ではないかと思います。ただ自分の個性に従って歩むのではなく、ある時には自分の個性を超えて、それをふっきって、大胆に生きてみる、それが肉に従って歩まないということでもあります。

 主イエスの話に、タラントの話がありますけれど、ある主人がその人の能力に応じて、ある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラントを預けて、それで商売をしてきなさいといって、旅に出たというたとえ話であります。ところが一タラントを預けられた者はそれを商売して失うことをおそれて、地面にそのまま埋めて、主人が帰ってきたときに、その一タラントのまま主人にさしだしたら、主人からひどく叱られたという話であります。

 誰が五タラントを与えられ、誰が一タラントしか与えられないかなどということは、実際の話では、誰にもわからないことであります。自分が一タラントしか与えられてないなどと自分で決めることはできないと思うのです。案外、その一タラトンを使ってみれば、それを地面に埋めないで、それをもって大胆に生きてみれば、自分は五タラントを与えられている者であるかもしれないと思います。
 自分の個性に従って歩むということも大事ですけれど、ある時には、その自分の個性を超えて、それをふっきって、自分の個性に従わないで、一歩踏み越えて歩みだすということも大事ですし、それが肉に従って歩まないということでもあると思います。

 そのようにして、肉にあって歩むけれど、肉に従って歩まないためには、われわれには何が必要か。そうさせる武器が必要だとパウロはいうのです。
 四節でパウロはこういいます。「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって、要塞も破壊するに足ります」といいます。

 パウロはテサロニケの信徒への手紙の五章八節で「信仰と愛を胸当てにとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と、信仰者の戦いの武器について述べております。信仰と愛と希望であります。パウロが好んで用いる言葉であります。

 肉に従って歩まない、自分の個性にだけ従って歩まないためには、この自分という脆い、弱い土の器の中に、測り知ることのできない神の力、自分にとっては思いがけない力が自分にも宿っている、与えられているのだという信仰、特に望みというものがあってこそ、自分を超えられるのであります。だからどんなに傷ついても、倒れても、躓いても、そこからまた立ち上がることができる、そこから立ち上がらせてくれる神様がおられる、そういう信仰、そういう希望があってはじめて、われわれは肉に従って生きることをふっきって生きることができるのであります。

 特にここでのパウロの当面の問題はコリント教会に対する戦いであります。パウロに悪口をいい、パウロを貶めようとする者との戦いであります。その時に大事なのは、肉に従って戦うのではない、ということであります。だからここでは信仰と希望に付け加えて、愛という武器が必要なのであります。

 その愛はなによりも、「理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして、キリストに従わせ」るのだというのです。信仰者の戦いは、ただ論戦して理屈で相手を打ち負かせることではなく、なによりも神の前に謙遜にさせることであり、キリストに従順になるように導くことだというのです。

 そしてそのようにして、「あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができる」といいます。ここのところは、どうもはっきりしない書き方がされております。「すべての不従順を罰する」ということが具体的になにをいっているのか、だれのことをいっているのかよくわからない。「あなたがたの従順が完全なものになるとき」というのですから、「すべての不従順を」という不従順というのは、別の人のことをいっているのかと思えるのですが、このところはよくわかりにくいところです。

 ここはこう考えてみたらいいと思います。人を罰する時には、その人が本当に神の前に悔い、神の前に従順になったときに、はじめて自分の不従順に気がつき、それがいかに悪いことであったかということに気がつき、そうして、正しく罰を受けることができるという意味ではないかと考えるのがいいと思います。

 つまり、裁きとか罰を受けるということは、その人が心から悔い改め、裁く人の前で従順な思いをもっていなければ、本当に裁かれたことにはならないし、また罰を受けても意味がない、ただ反抗心を増長させるだけだということではないかと思います。

 われわれも神の裁きとか神の罰というものが本当に分かる時というのは、信仰をもった時ではないかと思うのです。信仰をもっていない時というのは、神の裁きとか神の罰というのは、それは地獄の閻魔大王の裁きとひとつもかわりないものとしてしかうけとめられないのではないか。ただ恐怖心だけでその罰を受け止めるだけなのではないか。
 われわれは神の前に従順になったときに、はじめて神の罰を正しく受け止められ、そして真に悔い改めることができるということではないかと思います。

 七節からのところをみますと、ここにはパウロのいささか肉の思いがにじみでてしまっているところではないかと思います。つまり、まるでケンカをうっているようなものであります。「あなたがたはうわべだけを見ている。自分がキリストのものだと信じ切ってる人がいれば、その人は自分と同じくわたしたちもキリストのものであることをもう一度考え見るがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥じにならないでしょう」というのです。

 ここは素直にみれば、パウロの誇りが傷つけられたことに対するパウロの怒り、しかも肉的な怒りが滲みでてしまっているところではないかと思います。一一節では、「そのような者は心得ておくがよい、離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはない」と、啖呵を切っているのであります。

 あなたがたが信仰をもちだすならば、自分たちにもあなたがた以上に信仰がある、主は自分たちに権威を与えくれている、それを誇っても恥じとはならないだろうと、パウロは啖呵を切っているのであります。

 これほどパウロを怒らせたのは九節以下のことであります。「わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。わたしのことを『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者がいるからです」という噂がパウロの耳にまで達してきたからのようであります。

 パウロという人はどうもあまり見栄えのよくない人のようだったようなのです。話もうまくなかったというのです。
 それにも拘わらず、いわばパウロの敵も、パウロの手紙だけには一目おいているということは面白いところであります。つまり、福音というのは、人間の容姿とか弁舌の巧みさというものを超えて、やはり福音というものの真実さということであります。それはある意味では、福音の論理の正しさ、それが人を最終的に導くのだということであります。

もし逆の場合だったらどうでしょうか。パウロという人がハンサムで弁舌さわやで、しかしその手紙には重みがなかったとしたらどうでしょうか。パウロの人気は高まるかもしれませんが、福音は伝わっていかなかったのではないかと思います。