「成長させてくださるのは神」コリントT 三章一ー九節

 パウロはコリント教会の信徒にこう書くのであります。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて固い食物は与えませんでした。まだ固いものを口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えないのは、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいるということにはなりませんか」と叱責しています。

 ここはさっと読んでいくとわかりますが、一つ一つにこだわって読んでいこうとするとよくわからないのです。一番わからないのは、固い食物とは何かということです。今まで語ってきたこと、たとえば、十字架の言葉は愚かであるとか、自分はあなたがたのところでは、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい、語るまいと決めた、というようなことは、それでは固い食物ではなかったのかということになります。これこそ、キリスト教の中心的なテーマで、これこそ、固い食物のことであります。これこそ、この事を語れば、あとは何も語らなくてもいいというくらいの大事な固い食物の筈であります。

 ここは語りかたの問題でもないと思います。つまり、ちょうど、われわれが大人の礼拝で語る説教と、教会学校で語る説教と違う語りかたをするというようなことではないと思います。確かに、大人に語る語りかたと、小さい子供に語るかたりかたとは、表現の仕方とか、言葉づかいとかは違って語らなくてはならないと思います。しかし、内容はやはりイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外のことを語るわけではありません。

 ですから、わたし自身、一番苦労するのは、教会学校での説教であります。教会学校の礼拝では、まだ学校に行っていない子供から、高校生までいるのです。ですから、説教するのには大変難しいのです。

 ここでパウロが言っているのは、そういうことではないと思います。つまり、あなたがたはまだ幼稚だから、固い食物を与えられない、柔らかいミルクしか与えられないということではないと思います。なぜなら、コリント教会の信徒たちは、自分たちは知恵がある、知識があると誇っていた人々だからであります。そういって、妬み、争い、主導権争いをしているからであります。子供はそんなことはしません。喧嘩はするでしょうが、そんな陰険な喧嘩はしません。

 ヘブル人への手紙の五章一一節からはこういうことがいわれております。
「あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師になっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された一人前の大人のためのものです」といっているところがあります。

  ここでもある意味では、パウロがコリント教会の信徒に対していっていることと同じことがいわれているようであります。問題は、知識がないということではないのです、知識という点では、もう教師になっていてもいいくらいだといっているのです、問題は、「あなたがたの耳が鈍くなっている」ということなのです。だから、義の言葉を理解できない、善悪を見分ける感覚をもっていないということなのです。
 
 つまり、パウロが「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物を与えなかった。まだ固い食物を口にすることができないからだ」というのは、コリント教会に対する皮肉であって、パウロは十字架の言葉を語ってきているのですから、パウロは今までも十二分に固い食物を与えてきているのです。しかしあなたがたは、耳が鈍いために、その固い食物を十分に咀嚼してこなかったということではないかと思います。

 十字架の言葉を、十字架の愚かさを、観念的にではなく、ただ神学上の知識としてではなく、自分の実生活において本当に信じて、実行にうつしているかどうかです。十字架の愚かさに徹しているかどうか、そうしたら、自分のつまらないプライドなんか捨て去ることもできる、自分の我を引っ込めることができる、自分さえ損したらいい、自分だけが謙遜になれたら、何もかもうまくいくと信じて歩むということです。なぜなら、神は恵み深いかただからです。そうしたら、どんなに自分が損しようが、神は恵み深いかただから、かならず最善の道を自分に用意してくれるはずだと信じて歩むことができるということです。

 なにも観念的に、抽象的に、いつも自己犠牲ばかりの道を歩めというようなことではないのです。自分ひとり損していれば、自分ひとりが謙遜になって、自分のプライドを捨て、自分の我を捨ててみれば、神は恵み深いかたなのだから、かならず、自分にとっても得する事が起こると信じることなのです。パウロはフイリピの信徒の手紙では、「わたしにとって益であったこれらのことを、キリストのゆえに損と思うようになった」といっているところがありす。つまり、ここではパウロは救われるか救われないかを、大阪商人のように、損得の問題として考えているのです。

 主は恵み深いかたなのです、だから、十字架の愚かさに徹して生きようとして生きてみれば、かならず、得するのです。それは自分が今まで考えてきたような得、期待していたような利益ではないかもしれない、しかしそれにもましてもっと豊かな得をする筈なのです。それは、永瀬清子さんの詩の言葉ではないですが、「そんなことは女子大学で教えないだけで、どこの田舎の老婆も知っていることなのだ」ということであります。
 
 十字架の言葉に徹する、十字架の愚かさに徹する、それは固い食物なのです、それを自分の生活のなかで実践する、そうしたら、妬みや争いから脱するとができるのです。つまり、パウロは固い食物を与えてきたのです。しかしあなたがたはそれを十分に咀嚼してこなかったというのです。だからお互いに、ねたみや争いが絶えないのだというのです。

 四節をみますと、「わたしはパウロにつく」といい、他の人が「わたしはアポロに」などといっているとすれば、あなたがたはただの人にすぎないではないかといいます。もうここでは、一章にでてくる、「わたしはケファに、つまりペテロにつく」とか、「わたしはキリストにつく」とかということはでてこないのです。つまり、このコリント教会の争いは、結局は、パウロ派とアポロ派との二つの分裂から始まっているということです。それに嫌気がさした人が、いや自分たちはパウロでもなく、アポロでもなく、ペテロにキリストにつくと言い出したにすぎないようであります。一つの分裂が起こると、つぎつぎと分裂を生み出していくということです。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」という分裂がおこったならば、それを戒めて、十字架の愚かさに徹しようではないかという人がでてこないで、お前達がそんなことをいうなら、自分はパウロでもアポロでもなく、ペテロにつくとかキリストにつくといいだしているのは、大変情けないことであります。

 それを憂えて、パウロはいいます。「アポロとは何者か、パウロとは何者か。この二人はあなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」というのです。
 ここでパウロは、種のことは言っていないとある人が指摘しております。種は、福音のことであります。それはパウロが作り出したものでもないし、アポロが造りだしたものでもないのです。種は神がお造りになるものだからであります。パウロはそれをただ植えただけだ、そしてアポロはそれに水を注いだだけだというのです。

 だから大事なのは、神なのだというのです。それは何もパウロのしたこと、アポロのしたことは無意味だったというのではないのです。福音という種はやはり地に蒔かれ、植えられ、そして水を注ぐ人がいなければ育つことはないのです。だから、それぞれの働きに応じて自分の報酬を受け取ることができるのであります。

 ここで大事なのは、「主がお与えになった分に応じて仕える」ということであります。伝道者の謙遜というものがあるとすれば、このことだと思います。自分の伝道者としての仕事は、主が与えられたものだということと、そしてもっと大事なことは、「主がお与えになった分に応じて」ということです。この「分に応じて」ということに徹するということが大事だと思います。「主が与えてくださった分に応じて」ということが、野心的な伝道者にはなかなかできないのです。いや伝道者だけではなく、われわれすべてにとって、この「分に応じて」という生き方ができない、すぐ越権行為をしがちです。

 教会の働きにおいて、それぞれの人が「主から与えられた分に応じて仕える」ということをしていれば、教会の分裂は避けることができると思います。人はいつもいいますように、個性的な存在なのです。有能な人もいれば、見た目にはあまり有能でない人もいるのです。いやもっとはっきりいって、見た目だけでなく、事実あまり有能でない人もいるのです。しかしそれぞれの人が自分に与えられたタラントを生かし、たとえ自分は一タラントしかあたえられていなくても、その一タラントの分に応じて、主に仕える、人に仕える、そのことが大事なのではないか。弁が立つ人もいれば、口べたな人もいる、積極的な人もいれば、控えめな人もいる、それぞれの個性を認め合う、尊重する、役に立つ人もいれば、あまり役に立たない人もいるかもしれない、その人もまたその働きの故にではなく、その人がいるということ、その人が存在しているということ、それ自体を認める、それぞれの分に応じて主に仕える、人に仕えるということであります。

 それは何も教会の働きだけでなく、家庭のなかでの夫と妻の働きについてもいえるかもしれません。男と女の働きについてもいえるかもしれません。それぞれが分に応じて仕え合えばいいのであって、何もフェミニスト運動など起こす必要はないと思うのです。もちろん、男の役割、女の役割を固定化する必要はないし、一律化する必要はないし、それぞれの家庭によって、夫婦によって違うでしょう。大事なことは、この「分に応じて」ということを認めるということです。そこから謙遜ということが起こるのではないか。

 われわれを謙遜にさせる一つのことは、この「分に応じて生きる、主が与えてくださった分に応じて仕える」ということではないかと思います。

 パウロはのちに、キリスト者の具体的に生き方について述べるときに、一番初めにいっていることは、口語訳でいえば、「思うべき限度を超えて思いあがることなく、神が各自に与えられた信仰の量り慎み深く思うべきである」と述べるのであります。これがまさに「主が与えてくださった分に応じて」ということであります。

 「分に応じて生きる、分に応じて仕える」ということがどんなに大事か、どんなにわれわれを謙遜にさせるかということであります。そしてそれは「主があたえてくださった分に応じて」という「主が与えてくださった」という信仰がなくてはならないということであります。

 つまり「成長させてくださるのは神だ」という信仰であります。
七節で、「ですから、大切なのは植える者でも、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と、続きます。ここは口語訳では「植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させてくださる神のみである」となっております。植える者も水を注ぐ者も必要なのです、大切なのです、しかし植えながら、水を注ぎながら、共に取るに足らないと、自分のしていることを否定できなくてはならない、なぜなら、結局成長させてくれるのは神だからであります。

 成長させてくださるのは神だといいますが、これは具体的にはどういうことかといえば、種それ自体の力、福音という種それ自体の力、つまり聖書のみ言葉それ自体の力がわれわれという畑の中で、成長するという信仰をもつということであります。
 主イエスのたとえに、「一粒のからし種が地に落ちたら、それは成長してどんな野菜よりも大きくなり、空の鳥がやどるほどになる」といわれているのであります。しかも、それは「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり」ともイエスは言っているのであります。

 口語訳では、「地おのずから実を結ばせる」となっております。種のもつ力がそうさせるのだというのです、その間、人間は夜昼、寝起きしているだけだというのです、なぜ成長するのか人間にはわからないのだというのです。

 詩編の言葉に、神様はわれわれが眠っている時にもなくてならなぬものを与えてくださる、だから思い煩うな、という言葉があります。 
 福音の種は、ひとたび地に蒔かれたならば、おのずから、ひとりでに成長するというのです、だから、植える者も水を注ぐ者もともに取るに足りないのです。福音という種、神の言葉というものの力というものをわれわれは信じなくてはならないと思います。
 
 今日はちょうど幼児祝福式をいたしますが、これは子育てについても言えることであります。植える者も水を注ぐ者もともに取るに足りないというのです、なぜなら、成長させてくださるのは神だからであります。子供は親がなくても育つし、あるいは、皮肉な人がいうには、親があっても子は育つというのです。子供それ自体のうちに秘めた子供自体の力がそうさせるのであります。親などというのは、ある時期からたいていの場合、反面教師的な役割をするものではないでしょうか。子供は親を否定して、乗り越えて、大きく育っていくものであります。もちろん、ある時期までは、水を注ぐ、つまり愛情を一杯注ぐということはどんなに大事かわからないと思います。愛というのは、結局は愛されてはじめて、愛というものを学んでいくものだらかであります。しかしそれでも子供がうまく育つかどうかはわからないし、少なくも親の期待どおりの子として成長するかどうかわからないものであります。

 だから成長させてくださるのは神だ、神のみだという信仰をもつことが大事なのであります。