「限度を超えないで」 コリントU 一○章一二ー一七節

 今日学ぼうとしておりますコリントの第二の手紙の一○章一二節から一七節までのところをみますと、この短い文章の中で「限度を超えないで」という言葉が三回も出てまいります。何を限度を超えないのかといえば、「限度を超えて誇らない」ということ、また「限度を超えて行動しない」ということのようであります。

 ところで今日は聖霊降臨日の礼拝として守っております。聖霊を与えられるということは、われわれ信仰者が自分の人間的な限界を超えて、いわば、限度を超えて動くことができるようになったということではないかと思うのであります。

 ところが、今日学ぼうとしております聖書の箇所は、「限度を超えないで」というのが繰り返し出てくるのであります。
 いわば、われわれ信仰者の生き方は、つまり聖霊を信じて生きるということは、自分の人間的な限界を打ち破り、限度を超えて飛躍して生きるということであると同時に、自分が人間である事を自覚してて、限度を超えないで生きることであるともいえるのではないかと思います。

 聖霊降臨とはどういう出来事であったかといいますと、それは使徒言行録の一章二章に記されている出来事なのですが、主イエスはよみがえられてから、四十日の間この地上におられましたが、四十日後、弟子達の見ているうちに天にあげられて雲に覆われて弟子達の目から見えなくなったというのです。そのことが使徒言行録では大変神話的な描写で記されておりまます。

 主イエスは天に昇られる前に弟子達を集めてこういわれるのです。「エルサレムを離れないで、前にわたしから聞いた父なる神の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたはまもなく聖霊によって洗礼をさづけられるからだ」といわれていたのです。

 弟子達にとっては、自分たちがあの十字架の前にイエスを見捨てて逃亡してしまったという自分たちのふがいなさ、弱さ、自分たちの罪の前に恐れおののいてうちひしがれて、自分たちの故郷に帰ろうとしていいたときに、その主イエスがよみがって再び自分たちの前に現れ、自分たちの罪が赦された思いをして、再び元気をとりもどしていたのに、その主イエスが再び自分たちの目の前からいなくなってしまう、せっかくお会いできた主イエスが再びいなくなってしまうということに、がっくりしていたのであります。
 その時に、弟子達は天に昇られる主イエスから、「エルサレムから離れないで、父なる神からの約束、つまり聖霊があなただかに降るという約束を待っているがよい」といわれたのです。

 弟子達はがっかりはしましたが、そのイエスの言葉を頼りにして、エルサレムに留まり、ある部屋を借りて、その約束のものが来るのを待ったいたのであります。彼らはその間に、イエスを裏切って最後には呪われて死んでしまったイスカリオテのユダの代わりにもう一人、主の復活を証する証人を選びだそうといって、マティアという人をユダの代わりに選んだのであります。

 ちなみに、マタイによる福音書では、イスカリオテのユダはイエスを敵の手に渡してしまったあと、自責の念に駆られて首をくくって自殺したと記されておりますが、使徒言行録では、ペテロの証言によれば、「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのだが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまった、このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡っていることだ」と記されております。自分たちの救い主を銀貨三十枚で売り渡したというユダに対する恨みが、こういううわさを造りだしたのかもしれません。

 マタイの記述と使徒言行録の記述と、どちらが正しいのかはもうわれわれにはわかりませんが、ともかくユダは死んでしまったということは事実なのです。

 ともかく、弟子達は一室に閉じこもって、主イエスのいわれた父なる神の約束を待っていたのです。そして五旬祭の日、これがペンテコステという日といわれていたのですが、ペンテコステというのは、五十という意味なのです。これは過越の祭りから五十日目に行われるお祭りの日のことなのですが、その日に、一同が一つになって集まっているときに、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきて、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌がわかれわかれに現れて、弟子達ひとりひとりに留まったというのです。すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し始めたのです。

 大変神話的な表現でこの不思議な出来事を聖書は記しているのであります。そこには、お祭りの時ですから、天下のあらゆる国からこのエルサレム神殿があるエルサレムに集まってきていたのです。彼らは、弟子達の語る言葉に驚いた。それはまるで自分たちの生まれ故郷の言葉で話されていたようだったからであります。彼らはこういって驚いたのです。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大なわざを語っているのを聞こうとは」と口々に言って驚いたのであります。

 これは不思議な出来事であります。初代教会には異言を語る者が沢山いたようであります。異言というのは、異なる言葉という字を使いますが、普通のわれわれが使う言葉とは違う言葉を話すことのようであります。それは何か宗教的な恍惚状態で普通の言葉ではない言葉を語りだす、今日でいえば、一種の宗教的ヒステリー現象というのかもしれませんが、そういうことが流行しまして、それを語れ者は何か大変神秘的な体験をしたもので、信仰深い人で、初代教会では、競って異言をかたろうとしだしたようであります。パウロもそれを語ることができたようなのですが、彼はしかしそんなものは信仰的なことではないから、人前で語らないようにと戒めているのです。
 
 それでこのペンテコステの出来事も異言を弟子達が語ったのではないかと説明する人もおります。しかしこの使徒言行録をみますと、決してそんなことではなく、弟子達は「神の偉大なわざについて語っている」、しかも、それがまるで、自分たちの生まれ故郷の言葉で語られているようによくわかったということなのですから、それは異言現象にみられるように、わけのわからないことが語られたのではなく、よく分かるように話されたということですから、これは決して異言とは違うことであります。つまり弟子達の話はきわめて論理的で筋の通った話を彼らは語ったということであります。

 しかしその語りはかたは確かに今までのあの漁師であった弟子達、十字架を前にして先生を見捨てて逃亡してしまった弟子達とはまるで違ったように、大胆に堂々と神のわざについて語りだしことは確かなのです。ですから、ある人は彼らは気が狂ったのではないか、お酒に酔っているのでないかと言い出すのです。

 それでペテロが立ち上がって、十二人を代表して声を張り上げてこう話し始めたというのです。「ユダヤの人々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがある。わたしの言葉に耳を傾けて欲しい。今は朝の九時だからわれわれはあなたがたが考えているように酒に酔っているのではない。預言者ヨエルの預言にあるように聖霊がわれわれに与えられたのだ」と語りだすのであります。ヨエル書の預言にはこう記されているではないかというのです。「神はいわれる、終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕、はしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ」とヨエル書には預言されている、それが今、今日という日に起こったのだというのです。

 そしてペテロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は復活させたのだ、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはならない。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主、メシア、救い主となさったのだ」と語るのであります。それを聞いて人々は心を動かされ悔い改め、次々にキリストの名によって洗礼を受けたというのです。
 ここから教会が始まった。教会がこの日に誕生したというのであります。

 つまり、聖霊を与えられるということは、あの弱い弟子達がその限度を超えて力を与えられるということだったのです。聖霊を与えられた弟子達は、特にペテロは、もう十字架を前にして逃亡するような者ではなく、堂々と人前でイエスはメシアである、イエスはキリストであると証言できるような力を与えられたのであります。

 テモテの第二の手紙の一章の七節に「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証することも、わたしが主の囚人であることをも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」という言葉があります。

 聖霊を与えられるということは、もう臆病でなくなることだというのです。「力と愛と思慮分別の霊が与えられることだ」というのです。ここは口語訳では、「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである」なっております。

 ともかく、聖霊を与えられるというこは、臆病の霊、あの十字架を前にして臆病風に振り回されたペテロではなく、臆する霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊、慎みの霊を与えられたのです。それはいわば人間の、自分という個性の限度を超えた力を与えられたということでないかと思います。

 聖霊を与えられることを信じて生きるということは、自分という脆い土の器の中に、測り知ることのできない神の力が上から入れてもらえる、そのことを信じて生きるようになるということなのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターが当時の権力の牙城であるカトリック教会の誤りを指摘する九十五箇条の提言を、ヴィッテンベルグの教会の扉にはり付けにいった時には、それを張り終わった時には、力つきてへなへなに崩れたということだそうです。へなへなと崩れはしましたが、しかしルターはそれを掲げることができた。それが聖霊を信じて行動するということであります。それが今日の宗教改革になり、われわれプロテスタント教会の誕生となったのであります。

 聖霊を与えられて生きる、それを信じて生きるということは、そういう生き方ができるということであります。自分の人間的な限度を超えて、立ち上がることができるということであります。

 しかし同時に聖霊を信じて歩むということは、今日の聖書の箇所でパウロが繰り返し述べているように、「限度を超えて誇らない、限度を超えて行動しない」ということであります。

 そのことは使徒言行録には、たびたび記されているのであります。パウロたちが伝道の旅に出ようとするときに、しばしば聖霊に禁じられたので、そこに行けなかった、行こうとしなかったという記述がでてくるのであります。たとえば、使徒言行録の一六章六節からのとろでは、「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア洲に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それでミシア地方を通ってトロアスに下った」と記されているのであります。
 
 これはいろんな事情が重なってそちらに行こうとしてもどうしても行けなかったということだろうと思います。それは偶然の重なりかも知れないし、分析してみれば、別にここで聖霊が許さなかったとか、聖霊が禁じたなどという必要がないことかもしれませんが、しかし彼らは少なくも彼らはそうした人間的な事情の障害を、聖霊がそれを許さなかった、聖霊が禁じたのだと、聖霊の働きとしてそれを受け止めたということであります。
 
 パウロがエフェソの教会の長老を集めて告別説教をするところがありますが、そこでパウロが長老たちにこう語るのです。二○章の二二節からのとろです。
「そして、今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走り通し、また主イエスからいただいた神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたがみなもう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしにはわかっています」というのです。

 パウロは自分がこれから行く道は、投獄と苦難とが待っているところだと言うことを知っている、それが聖霊が告げていることだというのです、しかし自分は聖霊に促されてそこに行くのだというのです。聖霊に促されているから、そこにゆくことができるのだというのです。

 ですから、使徒言行録をみますと、聖霊を信じて生きるということは、ある時には、自分の限界を超えて、自分の限度を超えて、自分の行く先にはどんなに苦難が待ちかまえていようと、そこに行くという大胆さを与えられる、臆することのない霊を与えられるということでありますが、また同時に聖霊が禁じる場合には、その限度を超えて行動しようとしないということでもあるということなのです。
 その判断はどうしたらよいか、それについてのマニュアルなどはないと思います。ただ祈って、判断し、行動する以外にないと思います。

 それぞれの人が、ただ自分だけの思いで生きるのではなく、絶えず自分を超えた力が与えられるのだと信じて生きる、そういう用意をいつも持って生きるということ、自分の限度を超えて生きることができるのだという望みを持って生きるということ、しかし同時に聖霊によって導かれて生きるのだから、ただ闇雲に自分の思いのままに、自分の力をなりふりかまわずふりまわして生きるのではないということであります。つまり限度を超えないで生きるということであります。
 
 テモテへの第二の手紙でいわれているように、「神は臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊もわたしたちにくださった」というのです。この「思慮分別の霊」というところは、口語訳では、「慎みの霊」となっております。これは英語の訳では、self-control、自己抑制、とか sound mind、健全な精神、となっております。

ちなみにこの字はパウロがローマの信徒への手紙の一二章三節以下で使われている字と同じであります。そこではこういわれているのです。「自分を過大評価してなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と、ありますが、その「慎み深く」という字と同じであります。
 
 聖霊は、われわれを大胆にし、臆病風を吹き払うと同時に、われわれに慎み深くさせる、思慮分別のある行動をとらせるということであります。

神は主イエスを天にあげられてから、弟子達にただちに聖霊を与えなかったのではないのです。主イエスは、「かねて父なる神が約束していたものをエルサレムを離れないで待っているがよい」といわれて、十日間待たさせたのであります。
この十日間待たせたということが大事だと思います。

 ですから、われわれは聖霊を信じて生きると言うときには、待つということが大切であります。待つ信仰を自分の中に持たなくてはならないということであります。ただ闇雲に行動し、動き回るのではなく、待たなくてはならない。待つということは何もしないということではなく、彼らはエルサレムから離れなかったとありますように、エルサレムから離れないということは、彼らの行動であります。そして待ったのであります。

 彼らはただ待っていたのではなく、あの一室を借りて、祈りながら待っていたのであります。祈るというのは、ある意味では、待つという信仰であります。つまりそれは自分の限度を超えないという姿勢であります。あくまで神の示しを待つ、神から与えられる霊を、力を待つ、そういう望みに生きるということであります。

 聖霊降臨日の今日、われわれもまた「臆する霊ではなく、力と愛と思慮分別、慎みの霊」を与えられたいと思います。