「偽者との戦い」 コリントU 一一章一ー

 今学んでおりますコリントの信徒への手紙の第二の十章から十二章にかけては、コリント教会の一部の人々がパウロに対して非難めいたことを言っている、そしてそれがコリント教会全体に及ぼうとしている、パウロが今まで命を賭けて宣べ伝え、守ってきた福音が危うくされそうになっているという、そういう事実をパウロが大変憂えて、そうならないようにと涙ながらに訴えている内容であります。

 パウロという伝道者に対する個人攻撃なのですが、それはただパウロに対する個人攻撃ではなく、伝道者パウロに対する個人攻撃でありますから、パウロとしてはこれを見過ごしにするわけにはいかないのです、なぜなら、これを放置しておいたら、パウロが命を賭けて伝えた福音そのものに対する攻撃になるからであります。これは単なる権力争いではなく、使徒と使徒との戦い、使徒というのは神から遣わされたものですから、その使徒が本当に神に使わされた使徒なのか、それさも偽ものなのかという戦いということになるわけで、ここのところの箇所は、パウロが大変感情を露わにしてむきになって、自分が神から遣わされた本当の使徒であると弁明しているところであります。

 一一章の一節をみますと、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが、いや、あなたがたは我慢してくれています」という言葉で始められています。ここでパウロはいったいパウロの何の愚かさを我慢してくれといっているのか、よくわからないのです。
それで口語訳は、ここのところは、「わたしが少しばかり愚かなことをいうのをどうか、忍んでほしい、もちろん忍んでくれるのだ」と訳しております。つまり、パウロの愚かさではなく、これから述べるパウロの言うことを、それは愚かに聞こえるかもしれないが、我慢してくれ、という意味にとって訳しているのであります。原文に忠実なのは、新共同訳なのです。

 原文に忠実に訳されております今われわれが用いております新共同訳からいえば、パウロのこれから述べることではなく、パウロ自身の愚かさということになりますが、それは具体的にはなにかといえば、この文脈からいえば、五節からパウロが「あの大使徒たちと比べてわたしは少しも引けは取らない、話し振りは素人でも、知識はそうではない」といって、パウロが自分のことをある意味では自慢している、自分のことを誇っている事を、自分の愚かさといっているということなのかもしれません。それがなぜ愚かさなのかといえば、パウロは自分のことを誇るな、人間を誇るなとさいさい言ってきているのに、ここでパウロは自分のことを誇っているからであります。

 もう一つ、この箇所でわかりにくいところは、四節の「よく我慢しているからです」という言葉です。これも何を我慢しているのかよくわからないのです。ここはパウロとは違った偽の福音を宣べ伝えるものがコリント教会に出てきても、あなたがたはよく我慢している、といっているところなのです。
 何を我慢してるのか、それを受け入れてしまっているのか、偽物だとわかっていながら、それを受け入れることに我慢しているというのか、それともそれを受け入れないで、しかし、真っ向から戦おうともしないで、我慢しているということなのかよくわからないのです。

 それでここはよく引き合いに出しますリビングバイブはもっとあっさりとこう訳しております。「あなたがたときたら、どうもだまされやすくて・・・、だれかが私達の伝えたのと違う教えを伝えたり、あなたがたが受け入れた聖霊様とは違う霊を伝えたり、あなたがたが救われたのとは違う救いの道を教えたりしようものなら、それを信じてしまうのですから」と、訳しているのです。
 この訳のほうがパウロが本当は言いたいことをよく訳しているところではないかと思います。

 しかしパウロは実際には、そんなにあからさまにいっていないのです。
 
 ともかくこの一連の箇所は、パウロとしたら、パウロらしくないほどに、持って回った言い方をしている、なにか相手を傷つけないように非常に配慮しながら、しかし激しく相手を非難している、そういう微妙なパウロの気持ちが良く出ているところではないかと思います。そういう意味では、ここのところは、パウロという人間性がよくでているところではないかと思います。つまり、ここにはパウロの弱気とパウロの強気が入り交じってでてしまっているとろではないか思います。

 そのパウロの弱気と強気とは、何かといえば、それは一言でいえば、パウロのコリント教会の人々に対する深い愛であります。ここの一連の箇所を読んでいくときに、パウロという人がどんなに愛情の深い人であるかがわかるのではないかと思うのです。特にコリント教会の人々をパウロがどんなに深く愛しているかであります。

 もし愛がなければ、もう相手が誤った方向にいくのであれば、そのままそれを伝えて、それを受け入れてくれなければ、もう知らないといって、切って捨ててしまえばいいわけです。こんなもってまわった言い方はしなくても済むと思います。相手を傷つけたくない、致命傷をあたえしまうほどには、傷つけたくはない、しかし相手の誤りはどうしても指摘しなくてはならない、そういう時に、われわれの愛の深さが問われるのではないでしょうか。みっともないほどに弱気になったり、強気になったりして、心が揺り動かされるのではないでしょうか。

 それは旧約聖書で描写される神の愛の姿をみればよくわかることであります。その一つの例としてホセア書を引用しますけれど、ホセア書の十一章のところにこういう神の愛の表現が預言者ホセアの言葉を通して書かれております。
「ああ、エフライムよ、エフライムというのは、ここではイスラエルのことですが、
ああ、エフライムよ、お前を見捨てることがでようか。お前を引き渡すことができようか。わたしは激しく心動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない、お前たちのうちにあって、聖なる者。怒りをもって臨みはしない」というのです。
 ここは口語訳でみますと、こうなっております。「わたしの心はわたしのうちに変わり、わたしの憐れみはことごとく燃え起こっている」。

 愛というものは、相手のことを思って、相手を傷つけないようにして、そうして相手を救おうとして、細心の注意を払い、心みだれて、心が変わって、そうして最後には憐れみに胸を焼かれるようになるということであります。
 パウロ自身が今コリント教会の人々に対してそのように対しているのであります。そしてそれは、何よりも神の愛、神のわれわれに対する愛がそうなのであります。そういう神の愛に応えるためには、われわれのほうも真心と純潔の愛をもって応えなくてはならないのであります。

 パウロは二節からそのことを述べるのであります。
「なぜなら、わたしはあなたがを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに捧げたからだ。ただ、エバが蛇の悪巧みで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのでないかと心配している」というのです。

 もうこの頃は、純潔とか真心とか、貞操という言葉は使われなくなっているかもしれません。むしろ不倫ということが当たり前のようになっております。

 ここでパウロは二節で「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いている」と述べておりますが、この「熱い思い」という字は、口語訳では「神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している」と訳されておりますが、この「神の熱情」という字は、「神の妬み」という字です。これは口語訳にありました、あの十戒にある言葉、「あなたの神、主であるわたしは妬む神である」という字で使われております、「妬む」という字であります。

 神は妬む神だというのです。だからわたしのほかに他の神々の像を造ってそれを拝んだりしてはいけない」ということであります。
 「妬む愛」というのは、日本語ではいい意味で使われることはないので、新共同訳では、「神の熱情」と訳して、ごまかしてしまっております。妬む愛、というのは、「わたしはあなただけを愛するのだ、だからあなたもわたしだけを愛しなさい、いや、わたしだけを愛して欲しい」、そういう愛であります。

 これはある意味では、狭い愛であります。博愛の愛などとはほど遠い愛であるかもしれません。しかし、神はお前だけをわたしは愛するのだから、お前のほうでもわたしだけを愛せよ、他の神々を拝むな、そういってわれわれ一人一人を愛しておられるのです。

 愛は、豊かな愛とか、崇高な愛、つまり、高い愛などとも表現できると思いますが、しかし妬む愛ということで表現される愛は、深い愛であります。激しい愛であります。それはただひとりに集中的に注がれる愛であります。主イエスのたとえ話によれば、他の九十九匹の羊をうっちゃっておいても、迷えるただ一匹の羊をどこまでも探し求める愛、いわばえこひいきする愛であります。
 迷える羊が救われるためには、そういう愛がどうしても必要なのです。問題をかかえている者にとっては、このわたしひとりだけに注がれる愛、そういう愛をもって愛されないと救われないのです。

 われわれもまたそのようにわたしに注がれた神の深い愛にふれて、救われたのではないでしょうか。もちろん神の愛は狭くはないし、広い豊かな愛のかたであります。ですから、その神の豊かな愛、広い愛というのは、博愛主義というあまり意味のない言葉で表現されるような暢気な愛ではなくて、ただひとりに注がれる愛をもって、神はすべての人を愛しているのです。神の愛というのは、そういう豊かな広い愛のかたなのです。また神の高さは、あの迷える小羊をどこまでも探し求めて、ついには、ご自分を犠牲にして、十字架でご自分の命を捨ててまでして探し求める愛、そういう崇高な愛となってほとばしり出たのであります。

 旧約聖書をみますと、われわれの神はただイスラエルという一民族だけを集中的に愛する神として表現されております。そうすることによって、聖書は神の愛の激しさと深さを示そうとしているのです。だから、この神によって救われたわれわれは、旧約聖書を読む時に、それがイスラエルに集中的に注がれる神の愛であっても、少しも躓かないで、そこに神の愛の激しさと深さを読み取って読んでいるのであります。そのイスラエルに注がれている愛が、この自分にも同じように注がれたことを知っているからであります。
 それは妬む愛であり、えこひいきの愛であります。

 それはこういったらいいかもしれません。沢山子供がいるなかで、一人の子が病気になったら、親は他の子供達のことはほっておいて、その病気になった子供に集中的に愛を注ぐだろうと思います。そしてその愛が深ければ深いほど、他の兄弟達は、その愛がその時に自分たちに注がれなくて、自分たちはほうっておかれていても、少しも不満は感じないだろうと思います。むしろ、自分たちもまたその病気の兄弟を助けるためになんとかしよう、なんとか親の手助けをしようという気持になるのではないかと思います。

 パウロは今そういう愛をもって、「神が抱いておられる熱い思い、いわば妬みの愛をもって、あなたがたに対している」と、コリント教会に書くのであります。「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた。つまりキリストに捧げた」というのです。何か今日では気恥ずかしくなるようなことをパウロは書くのであります。

 そしてそのあと、「エバが蛇の悪巧みで欺かれないように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配している」と書くのです。ここは面白いことに、アダムに対するエバの不貞のことなんか全然念頭になく、神に対して不貞したのだと述べているのです。

 これは具体的には、どういうことが問題になっているかといいますと、コリント教会にパウロが伝えた福音、つまり、われわれが救われるのは、われわれ人間の善行の積み重ね、わざの積み重ね、律法の積み重ね、そういうわれわれ人間のわざとか行いによって救われるのではなく、われわれはそんな善い業なんか到底できないし、できたとおもったら、それはりのただ自分を誇る材料にするだけなので、そんなものは自分が救われる根拠にはひとつにもならないということ、そういう行いによって救われるのではなく、ただキリストの恵みを信じる信仰によってのみ救われる、それがパウロが伝えた福音なのですが、それとは違ったことを伝えにきた人々がいて、コリント教会の人々がそっちのほうにひきずられそうになっているということなのです。

 キリストに対する純情な信仰から離れて、自分たちのわざ、業績を頼りにし、それを誇ることによって救いの道を見いだそうとしている、そのようにして、キリストを裏切ろうとしている、キリストに対して、不貞を働こうとしているということなのであります。

 われわれは自分の業績とかわざとか行いとかによっては救われなかったのです。そのことは本当によくわかっている筈なのです。それなのに、信仰生活が少し長くなると、教会生活が少しなれてしまうと、すぐわれわれは自分のわざが気になる、どれだけ教会に奉仕ししたらよいかと言うことを気にするようになってしまうのです。それは人間の中に、われわれ自身の中に、どんなに深く律法主義というものが執拗に入り込んでいるかということであります。だからわれわれはすぐ偽物の福音に惑わされてしまうのであります。

 そしてパウロはこういいます。五節、「あの大使徒たちに比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話しぷりは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点で、このことをあなたがたに示してきた」というのです。これは実に大胆な発言であります。

 自分はあの大使徒といわれるペテロや、ヤコブや、ヨハネよりも少しも劣っていないというのです。口語訳では、「たとい弁舌はつたなくても知識はそうではない」となっておりますが、パウロは説教はつまらないと言われているのです、しかし福音の知識については、あの大使徒ペテロたちよりも上だというのです。
 
 これは使徒言行録をみると本当にそうだと思います。初代教会においては、その中心はまだまだユダヤ教徒が多かったわけで、律法というものから完全には脱却されていなかったのです。それで問題になったのは、異邦人で救われた者にも割礼をほどこすべきではないかということが、いわば、大本山ともいうべきエルサレム教会から議論が起こったのです。それでパウロは異邦人教会を代表して、アンティオキア教会からエルサレム教会に長い距離を旅してやってくるのです。

 そしてパウロはエルサレム教会であの大使徒たちと対等にわたりあって、議論した。そして激しい激論が交わされて後、ついにペテロが立って、「異邦人で救われた者に対して、あらためて割礼を施さなくてもよい。先祖もわたしたちも追い切れなかったくびきをどうしてまた掛けようとするのか。わたしたちは主イエスの恵みによって救われると信じているではないか、それならば、異邦人だって同じだ」と、言って、ついにパウロの主張が勝利を収めたのであります。

 この第一回の教会会議を記すにあたって使徒言行録の書き方は大変大事な書き方をしております。それはパウロがこの会議に臨むために遠くアンティオキアからエルサレムに来る途中で、道すがら異邦人に福音を宣べ伝え、そうして救われていった、つまり割礼をほどかさなくても救われていったという事実、そこになされた神の大きな働きを記述して、それがエルサレム教会の使徒達、長老たちに報告されて、この会議が始まったと記されているということなのです。

 つまり、信仰のみによって救われる、もはや割礼とか律法のわざによって救われるのではないというパウロが主張した福音は、なにもパウロの発明とか編み出した教理なんかではなく、神の恵みの事実なのだ、現にそういうことが起こっているという事実が示されて、そこから激しい論争が起こりましたが、ただキリストの恵みを信じる信仰によってのみ、救われるという事実が現に起こっている、それが決めてになって、決着がついているということなです。それは議論とか多数決によって決められではないということなのです。教会会議というのは、議論によってきめられものでもなく、まして多数決によって決められるのではなく、いつも神の恵みがどのようにわれわれの中に働いているかという事実の確認によって決められていくということなのです。

 この「信仰のみによって救われる、ただキリストの十字架において示された神の恵みを信じる信仰によってのみ救われる」という福音をはっきりと言葉に出して、いわば知識として示したのは、大使徒といわれるペテロやヤコブではなくパウロだったのであります。それはもちろんパウロが発明しものでも、パウロが頭で編み出した教理ではなく、パウロ自身もそれによって救われ、そして多くの人々がそれによって救われた事実なのです。それをただパウロが知識としてあらわしただけであります。それはパウロがイエスの教えを曲げたとか観念化したということではなく、イエスの語ったこと、イエスの行ったこと、なによりもイエスの十字架と復活という出来事をパウロが言葉として、知識として、正しく表現したということであります。そういう意味では、パウロがいなかったら、キリスト教はなかったということであります。

 信仰によってのみ救われるという信仰義認の福音に立つわれわれプロテスタント教会にとっては、カトリック教会がペテロを自分たちの始祖とするならば、われわれにとってはパウロこそプロテスタント教会の始祖なのであります。