「弱さを誇る」 コリントU 一一章一六ー三三節

 新約聖書には、「誇る」という字が三三回用いられているそうであります。そのうち、三十回がパウロが使っているということであります。それほどパウロという人は、誇りということにこだわりをもった人であるということであります。それはパウロが誇り高い人であったというのではなく、人間の中にある誇りというものがどんなに罪に直結するものであるかということを考えていたということであります。だから、パウロは何回となく、誇ってはならない、自分を誇ってはならない、誇る者は、神を誇れ、主を誇れといっているのであります。

 パウロという人は、自分の中にある誇るという気持と一番激しく戦ってきた人であります。彼はフィリピの信徒への手紙では、自分はクリスチャンになる前は自分は誇り高い人間であったということを述べて、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人で、律法を守るという点ではファリサイ派の人々の中でも完璧に守ってきた。そして教会を迫害するということに関しても一番熱心であったというのです。しかし自分はキリストに救われてからは、これらの自分を誇らせてきたものをすべて捨て去ったというのです。それらを塵芥のように思えるようになったというのです。

 誇り高い人とつきあうのも大変ですが、そうかといって、全く誇りというものを失った人とつきあうのはもっと大変だと思います。ですから、われわれにとって大切なのは、何を誇るのか、どのように誇るのかということが大切になってくると思います。

 パウロは今「だれもわたしを愚かものと思わないで欲しい、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信しているのです」というのです。
 このところのパウロは本当にいやらしいほどに、ひねくれていて、もってまわったいいかたをしていると思います。誇りたいなら、素直に誇ればいいのに、なにかもってまわったいいかたをして、いわば開き直って誇りだすのであります。

 一三節をみますと、「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」というのです。「肉に従って誇る」というのは、信仰的ことからいえば、してはいけないことだが、自分の人間的なことを誇るという意味です。だからこれから自分が誇ることは、本当に愚かなことなのだけれど、あえてそうするというのです。そういう自分を我慢して聞いて欲しいというのです。
 あなたがたは我慢強いから、自分の愚かさくらいは我慢してくれるだろうと、これももってまわったいいかたをしているのです。

 二○節の言葉は、「実際あなたがたは誰かに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢してきたのだから、わたしの愚かな自慢話、わたしが愚かにも自分のことを誇っても我慢してくれるだろう」というのです。

 ここで言う「あなたがたは奴隷にされても」と言う言葉からはじまる一連の言葉は、コリント教会にきた偽伝道者、パウロからいえば、使徒と称する偽者からさんざん食い物にされてお金をまきあげられても我慢してきたということです。「顔をなぐりつけられても」というのは、もちろん実際にそうしたことがあったわけではなく、これはパウロの痛烈な皮肉だと思われます。
 そういう我慢強いあなたがたなのだから、わたしのこれからいう自慢話を辛抱して聞いてくれるだろうといって、これから自慢話をするのです。

 「愚か者になったつもりでいいますが、あえて誇ろう」と言って始まる一連の箇所は、大変不思議な思いに立たされます。つまり、これは本当にパウロは自分のことを愚かに誇っているのか、それとももう誇るということからすっかり離れてしまって、ただ自分が信仰者として経験したことを述べて、いわば自分の信仰の告白をしてるのではないかと思わせられるからであります。

 二二節から始まりますが、「彼らはヘブライ人なのか、わたしもそうです」といいます。ここでいう「彼ら」とはパウロに敵対する偽教師たちです。「アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか、気が変になったようにいいますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこと、むち打たれたこと、死ぬようにあったこと」から始まって、パウロは自分はキリストを愛するあまり、キリストに仕えるが故に、どんなに労苦したか、迫害にあってきたかということを連綿として述べていくのです。

 自分はヘブライ人だ、つまり選民だという誇り、アブラハムの子孫だという民族的な誇り、それは、確かに肉の誇り、人間的な誇りであります。そこまではわかります。しかしそのあとにつづく、「キリストに仕える者なのか、気が狂ったようにいうが、わたしは彼ら以上にそうだ」、そのためにどんに迫害にあったか、苦労したか、苦難にあったか、というところからは、もうこれは決して「肉の誇り、人間的な誇り」とは言えないのではないかと思えるのです。むしろ信仰者としての誇りではないかと思われるのです。

 さらに、二八節からみますとこういいます。「その上に、日々わたしに迫るやっかいな事、あらゆる教会についての心配事がある。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるだろうか。だれかがつまずくならば、わたしが心を燃やさないでいられるだろうか」というのですが、これはもう人間的な誇りではなく、ある意味では信仰者としての誇りではないかと思われます。これはもう自分を誇っていることにはならないかからであります。

 パウロはいつのまにか、愚か者になって自分の肉について誇ってきましたが、それをやめてしまったのだろうか。多くの聖書の学者はそう考えておるようであります。

 しかし、そう思って三○節に来ますと、パウロは「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と述べるところをみますと、やはり今で述べてきたことは、自分の肉的な誇りを述べてきたのかなと思うのです。

 この一連の箇所は、文脈から言えば、パウロはこれから愚か者になったつもりで自分の肉的なことを誇りますよ、つまり、自分のことを誇りますよと宣言して述べているところですから、やはりこの一連のところも、パウロにとっては肉的な、人間的な誇りとして述べているところだと思わざるを得ないのです。そう思って改めてここを読み返してみますと、本当に考えさせられます。

 それはどういうことかといえば、われわれがキリストに仕えるということ、われわれがパウロと共に気が狂ったようにキリストに仕えるということも、それを誇りとして感じるならば、それもまたわれわれの肉的な人間的な誇りになり果ててしまうのだということなのです。

 そしてキリストの故に苦労していること、迫害にあっていること、苦難に遭うこと、それも、もしそれを誇ろうとするならば、それは肉的な誇りになってしまう、つまり信仰の誇りとは遠く離れた誇りになってしまうということなのです。

 わたしは熱心に信仰している、そのためにいろいろと苦労してる、そのために迫害を受けている、そのことが信仰的ではないというのではないのです。それは本当に信仰的なことなのです。大いに信仰の故に起こることなのです。
 しかしそのことをわれわれが誇るようになってしまったら、それはもう信仰から離れてしまって、肉的な、人間的な誇りになりさがってしまうということなのです。

 それはわれわれにもわかることではないかと思います。たとえば、よく伝道集会などで、いわゆる有名人を呼んで話しをききますと、その人が伝道者として今までどんなに熱心に伝道してきたか、そしてそのために苦労してきたか、そのために迫害にもあってきたかということを講壇から述べているのを聞きますと、われわれは感激はするかもしれませんが、しかし同時になにか自慢話をきかされているかのように思えて、ああ嫌だなとも思えてくることがあるのではないか。
 その人が決して自慢話をするつもりはなくても、淡々と話されたとしても、聞くほうからいえば、やはり自慢話に聞こえてしまうということなのです。
 
 もっと、恐ろしいことは、二九節にある箇所であります。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられようか、だれかがつまずくならば、わたしが心を燃やさないでいられようか」ということすら、それを誇りとして語る場合には、肉の誇りになってしまう、人間的な誇りになってしまうということなのです。
 「誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられようか」というパウロの言葉は、それだけを聞いたら、感動的な言葉であります。しかし、パウロはそれを肉の誇りのなかに入れて語っている、人を愛するということすら、それはうっかりしたら、肉的な誇りになりはててしまうということなのです。

 パウロはそう考えていたということなのです。パウロはそれほど徹底して、人間の誇りと言うことを厳しく考えていたとうことなのです。人を愛するということすら、うっかりするとそれはわれわれの人間的な肉の誇りの材料になってしまう。パウロがどんなに誇りというものを徹底的に考えいるかということがわかると思うのです。どんに自分の中にある誇りと戦ってきた人であるかということが分かると思うのです。

そしてそのように語ったあと、三○節で、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇ろう」というのです。つまり、今までは自分の肉的な誇り、人間的な誇りについて語ってきたが、これからは信仰的な誇りについて語ろうということであります。

 ここで大事なことは、パウロは自分の長所、自分の良いところを誇るのは、自慢話になってそれは肉的な、人間的な誇りなるが、自分の短所、自分の欠点について誇るなら、それは信仰的な誇りになるというのではないのです。

 たとえば、ここでパウロは自分の醜さについて誇ろうといっているのではないのです。パウロという人はあまり容貌はよくなかったようであります。口べた、話し方もうまくなかったようであります。そういう伝道者としてのいろいろな欠点をもっていたようであります。それらについて、自分の欠点について、自分の醜さについて誇ろうというのではないのです。そんなものは単なる開き直りであって、それはますますその人を醜くするだけであります。
 
 大事なことは、パウロは自分の弱さにかかわる事柄につい誇ろうといっているということであります。弱さとは何かであります。

 パウロはそのあと、突然唐突に、三二節からぽつんと、一つのエピソードを語るのです。「ダマスコでアレタ王の代官がわたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」と語るのです。この出来事は使徒言行録にも記されていることですが、これは本当に唐突な話しのもってきかたであります。

 これをパウロは自分の弱さにかかわる事柄としてとりあげているのです。つまりこの出来事に関しては、パウロはひとつも自分のことを自慢できるような関わりかたをしていないのです。ただただ、人に助けられたということです。もう自分は何一つできないでいた、その時に自分は奇跡的に助けられたということであります。自分は何もできないでいた、自分は全く弱さの中にいた、その時に自分は人の手によって、神の手によって助けられた、それが自分の弱さにかかわる事柄についての誇りだということなのです。

 三一節で「主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです」と、わざわざいっております。これはつまり、自分が自分の弱さについて誇ることは、決して無理して、ひねくれて、開き直ってそれを誇っているのでなはく、自分は本当に自分の弱さを心から誇っているのだということであります。

 それは自分が誇るのは、自分の強さではなく、自分が何かをしたということではなく、自分はもうなにもしないで、自分からはもう何もできないときに、神が助けてくださった、神が具体的に人を遣わして自分を助けてくださった、そのことは本当にありがたいことだった、それを今自分は心から誇ることができるというのです。

 つまり、自分の弱さを誇るということは、言い換えれば、神を誇るということなのです。自分の弱さの中で自分を救ってくださった神の力を、ほめたたえ、神を誇ることができるというのです。パウロが好んで用いる旧約聖書からの引用の言葉、「誇る者は主を誇れ」ということであります。

 それに対して、パウロが二三節から言っていること、「キリストに仕える者なのか、気が変になったようにいうが、わたしは彼ら以上にそうだ」から始まる、パウロの誇りは、これはパウロの強さであります。信仰の強さといってもいいかもしれません。迫害にあってもくじけないこと、立派に堂々と苦難に耐えたこと、教会の心配事にも心から対応してること、だれかが弱っている時に自分も弱らざるをえないというパウロの愛、これは考えてみれば、みなパウロの強さであります。

 それがもちろん、いけないというのではないのです。われわれはそういう強さを信仰をもって、聖霊の導きを受けて、そういう強さを神から与えられているのです。だからわれわれは迫害にも、苦難にも、耐える力は前よりはずっとできるようになったと思います。人を愛すると言う点でも、前よりはずっと人を愛せるようになったと思います。そうしてわれわれは前よりは強くなっているのかもしれないのです。

 しかし、そこにわれわれの落とし穴があるかもしれない。それをわれわれが誇りだすときに、それはいつのまにか、人間的な肉的な誇りになってしまうのだということであります。いつのまにか、主を誇るのではなく、自分を誇るようになってしまうということなのであります。

 すでに学んだところですが、パウロは四章では、やはり自分が迫害にあっても滅びなかったことを述べているところがありました。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と、述べているのです。その時パウロはそのことを述べる時に、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めている。この並外れて偉大な力が神から出たのであって、わたしたちから出たものでないことを明らかにするために」といって、この一連の迫害に耐えたことを述べているのであります。

 これは自分の強さを誇ることではなく、自分の弱さ、脆い土の器のなかにある神の測り知ることのできない力を誇っているのであります。