「弱い時にこそ強いーその二」 コリントU 一二章一ー一○節

 パウロは大変すばらしい神秘体験をした。それでそれを誇りかけ、そのために少し思い上がろうとした。その思い上がりをうちのめすために、神はサタンを通してパウロに病気という棘を与えた。彼はそれを何度も取り去ってくれるようにと、主に願ったが、それはかなえられないで、その代わりに主から言葉を受けた。それは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」という言葉でした。

 この時パウロが受けた恵みとはどういう恵みなのでしょうか。この時、彼の病気は治ったわけではないのです。病気のまま、主から「わたしの恵みはお前に対して十二分に発揮されているのだ」といわれるのです。病気が治らないまま、受ける恵みとはなんでしょうか。

 先日、わたし自身も、この聖句によって神の恵みがわかって、キリスト教が一気にわかって、救われたという経験をお話しましたが、それではその神の恵みとはなんなのか。

 わたしは自分はもっと立派にならないと神の愛とか神の恵みは受けられないのだと思いこんでいて、こんな自分では到底神の恵みは受けられないと思っていたのに、そうではない、このままの自分でいいのだ、とわかって、救われたのだと話しをいたしましたが、しかし、そのままでいい、あるがままでいいのだということならば、これはなにも神の恵みでも、またキリスト教独自の救いではなくて、いわばごく普通の、いってみれば、これはカウンセラーが使う常套用語ではないか、この言葉は精神療法の治療の言葉と同じではないか、と思われるのです。

 つまり、多くの心の病は、結局は自分で自分を受け入れられない、自分を肯定できない、そういう自己嫌悪、自己分裂から起こると考えられているからであります。

 問題は、自分のあるがままでいい、このままで自分はいいんだということを自分でいいきかせてもなんにもならないということなのです。それは自分が座っていながら、その自分が座っている椅子を、自分でもちあげることができないのと同じであります。誰かが自分の座っている椅子をもちあげてくれる人がいないと、自分はもちあがらないのであります。自分をもちあげてくれる誰かが必要なのです。

 そのままでいい、それを誰がいってくれるか、誰が認めてくれるかということなのです。大変包容力のあるすぐれたカウンセラーにそれをいってもらって、納得して、自分で自分を受け入れられるようになったと言う人もたくさんいるだろうと思います。

 われわれはそういうカウンセラーがいなくても、われわれが大人になるということは、みんな自分で自分を受け入れて生きれるようになっているということだと思います。別にカウンセラーにそんなことを言って貰わなくても、大人はみななんらかの意味で、まがりなりにも自分で自分を受け入れて生きているわけで、もちろん大抵の場合は一種の諦めをもって、あるいは開き直りをもって、そのように自分を受け入れて生きているのだと思います。

 そのことと、この「わたしの恵みは十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というパウロが受けた恵み、あるいは、少しおこがましいですが、わたしが受けた恵みとは同じなのでしょうか。違うのでしょうか。
問題は、人間はどうせ弱い存在なのだから、もう弱いままでいいのだという生き方なのか、ということなのです。

 パウロが主から受けた言葉はどういうことだったか。「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、それを受けて、「わたしは弱い時にこそ強いからです」という言葉であります。ここで「弱さの中でこそ」と、「こそ」という言葉がついております。ただ開き直って弱いままでいい、というのではなく、弱いときにこそ、言い換えれば、弱い時以外には強くないのだ、強くなれないのだということなのです。なぜならば、弱い時にこそ、それ以外のありかたでは、神の恵みは受けられない、神の力は発揮できないのだということだからであります。

 わたしはこの「こそ」が大事なのだと思って、それではと思って、原文のギリシャ語を見て見ましたら、困ったことに、原文には、この「こそ」という言葉はないのです。英訳でも、別に「こそ」に当たる字はないのです。ドイツ語の聖書の訳にもないのです。日本語訳だけに、「こそ」という字があるのです。

 口語訳は「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と、訳されていて、ここには「こそ」は入っていないのです。ただ一○節で「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」となっていて、ここには「こそ」を入れております。どうやらこれは日本語の聖書訳だけにあるのです。ちなみに、文語訳をみますと、「わが恵み汝に足れり。わが力は弱きうちに全うせらればなり」とあります、また「そは我よわき時に強ければなり」となっていて、「こそ」ははいっていないのです。

新共同訳も口語訳も「こそ」をつけて訳したのは、この前後の文脈から「こそ」をつけて訳したほうが、ここの意味がはっきりすると思って訳したに違いないと思います。そしてそれはここの意味を正しく受け止めて、そのように訳しているのだと思います。

 それはなにも神の力とか恵みというのは、われわれが弱くならないと発揮されない、つまりそれは神の恵みとか力とかは、あまり目立たないから、神の恵みとか力を際だたせるためには、どうしてもわれわれ人間のほうが弱くなってあげなければならない、そういうことではもちろんないのです。神の力は人間の弱さと対比しないと際だたないから、神の力はわれわれ人間の弱いところに現れるのだというのではないのです。そういう卑しいというか、姑息なことではないのです。

 それは、われわれが自分が弱くなった時というよりは、われわれが、自分の弱さ、人間の弱さを真に自覚した時に、自覚した時にということであります。自分の弱さを自覚したときに、神の力と神の恵みがわかるということであります。
つまり、われわれは弱くなるというようなことではなく、われわれ人間はもともと弱い存在なのです、弱くなる必要なんかなくて、弱くなろうがなりまいが、もともと弱い存在なのです、そのことを自覚することなのです。

 われわれ人間はもともと土の器に過ぎない存在なのです。造られたものなのです。そのことを忘れて、あるいはそのことを拒否して、そんなことではいやだといって、神のようになろうとして善悪の木の実を食べたところから人間の罪が始まり、人間の悲劇が始まったのであります。

 「神の恵みはわれわれ人間の弱さの中にこそ十二分に発揮される」ということは、あなたは弱いままでいいんだ、あるがままでいいんですよ、というカウンセラーの甘い肯定の声ではないのです。むしろ、これはあのヨブに嵐の中から現れた神の激しい叱責の言葉と同じです。神はヨブに激しい嵐の中でこういわれるのです。「お前は何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯びをせよ。わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」。
 それはつまり、「お前は神か、この天地を造った神なのか」という叱責の言葉であります。
 
 「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中でこそ発揮される」という言葉は、もともとパウロの高慢になろうとする思いを叱責する言葉であります。それはただ慰めの言葉ではなく、「思い上がるな」「高慢になるな」という神の叱責の言葉であります。「お前は弱いままでいいのだ」という優しい言葉ではなく、「お前は弱さの中にいなくてはならないのだ、そのことをしっかりと自覚せよ、思い上がるな、高慢になるな」という叱責の言葉であります。それが「弱い時にこそ強い」という「こそ」の意味であります。

 それがそのあとに続く言葉、「だからキリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」という言葉になるのであります。
 
 立派な人間になること、高潔な人間になることを目指してはいけないということではないのです。神秘的体験など必要ないということではないのです。ただ神のようになろうとして、立派な人間になろうとしたりしてはいけないということであります。神秘的な体験をするということも、人によってはあると思います。われわれは神と交わるのですから、あるいは、そういう神秘的体験をするということもあると思います。しかしその体験がわれわれを高慢にし、思い上がらせとする危険があると思います。そのときに、神は高慢にならないようにわれわれを打ち砕くのであります。

 われわれの弱さの中にこそ、神の恵みと神の力は現れる、この「こそ」という事実、われわれの弱さの中にこそ、という「こそ」を忘れたり、それを見ようとしないときに、われわれはどんなに高慢になっていくか、あるいは、神のように立派になることを目指したり、神のように高潔な人格をみがこうとしたりして、高慢になっていくか、そういう道を歩み出すかということであります。

 パウロは病気になった。それは激しい痛みが伴う病気だったようであります。パウロはそれはサタンから送られた使いだといっております。これがサタンの使いだとどうしてわかったのでしょうか。

 これは恐らく人々の考えでは、神はわれわれ人間に苦痛とか、病気とか、不幸を与える筈はない、神はなにしろ愛のかたなのだから、そんなわれわれを悲しませるようなことはするはずはない、だからそれはサタンの仕業だ、という考えから、病気はサタンの使いだと思ったのではないかと思います。
 それはヨブ記などでも同じです。ヨブのあの悲惨な不幸はサタンの仕業なのだ、サタンが神様に許しを得ておこなったしわざと書かれております。

 しかし、それはわれわれ人間の神に対する身勝手な思いこみかもしれません。神は愛のかただから、われわれに不条理な不幸や痛みを与える筈はないというのは、だからそれはサタンにしわざと考えるのは、われわれの神の愛に対する誤解であるかもしれないと思います。

 神はわれわれが考えるようなただ優しい優しい愛のかたではなくて、ある時には、アブラハムに対して、たったひとりの子供、ようやく授けられた子供イサクを焼き尽くす捧げものとして、殺せと命じられるかたなのであります。神はわれわれの信仰を試すためには
、試すというと誤解されるかもしれませんが、われわれの信仰を本物の信仰に正すために、あるときには、我が子を殺せ、本当にお前が神に恐れおののいて従うかを訓練させるために、そのように命じられるかたなのであります。

 神はイエスを試みるために、聖霊の導きで、荒れ野に追いやり、サタンの試みに会わせるかたなのであります。神の愛はただ優しい優しい甘いかたではないのがです。

 パウロはこの自分の病気はサンタの使いだと思ったのです。パウロがそのように思い、そしてわれわれもまた不幸なことに出会ったときに、そのように思うことは当然のことかもしれません。しかし大事なことは、それをサタンの仕業と思うにせよ、その背後で、もしかしたら、神の御手が働いているかもしれない、神がサタンを用いてわれわれになにかをさせているのかもしれない、そしてそれは決して神の意地悪ではなく、そこに深い神の愛があって、神はそうなさっているのかも知れない、そのことに気付かなくてならないということであります。

 パウロは八節をみますと、この使いについて離れ去らせてくれるようにと主に何度も何度も祈ったというのです。神はそのサタンの使いをパウロから離れ去らせたのか、パウロはこのサタンに打ち勝ったのか、ここにはそのことは記されていないのです。

 ただ病気、あるいはパウロを痛めつけている痛みは、過ぎ去らなかったようであります。病気は治っていないのです。恐らくパウロは生涯この病気を背負ったまま伝道者として歩みを続けたと思われます。それでサタンは去ったことになるのか。

 しかし、パウロは明らかに神はこのサタンを離れ去られてくれたと確信した筈であります。なぜなら、この病気そのものはいやされなくても、パウロはこの病気をサンタの手からではなく、神の御手から受け取り直しているからであります。これはもはやサタンのしわざではなく、神が自分の思い上がりを打ちのめすためのものだと思い、これを神の御手から受け止め直しているからであります。その時パウロからサタンはもう離れているのです。いや、離れているといっても、完全に離れているというわけではないかもしれません。パウロはこの肉体の痛みを受けるたびに、その都度やはり主に祈りながら、この痛みを取り除いてくださいと必死に祈ったと思います、そのようにして、サタンと闘ったと思います。

 サタンの仕業とはなにか、サタンの試みとは何か、それはわれわれを神の愛から離れさせるところにあります、神を信頼する信仰を危うくさせることでりあます。

 われわれは病気になると、一番そのサタンの試みに陥りやすいのです。病気になると、われわれは神も仏もあるものかと、神を呪うようになる、あるいは神の愛を信頼できなくなる、それがサタンの試みであります。あるいは、病気になると、ただ医者のいうことだけを信じて、医者や医学の知識だけを信じて、医者が治りますというと有頂天になってみたり、医者からもう駄目ですといわれたら、もうすべての望みを失ったしまう、サタンはそのようにして、神よりは医者の言葉を頼りにさせようとするかもしれません。
 
 それはもちろん医者とか科学の力なんか信じるなということではないのです。
医者もまた神様からお造りになり、医学の知恵も神がわれわれにあたえてくださった知恵であります。ですから、病気はサタンの使いなのだから、なにがなんでも信仰一筋で、医者なんかにかからないで、祈りだけで直すだと歯を食いしばったりして、我慢して病気に対処しなくてはならないということではないのです。 神が与えてくださるお医者さんを信用し、そして医学の力を信じながら、しかしただそれだけを全面的に信じる、つまり神よりも医者を信じるのではなく、神を信頼しながら、具体的にいえば、パウロのように、三度も主に祈りながら、この痛みを取り去ったくださるようになんども何度も神様に祈りながら、その痛みに対処していく、ある時には、医者にモルヒネをうってもらう必要もあるでしょう、そうでないとわれわれは気が狂ってしまってやがては、神を呪うようになるかもしれないからです。

 神に信頼しながら、神に祈りながら、その病気と闘う、痛みと闘うということであります。つまり、神に信頼する、それが一番サタンが嫌がることであるし、サタンに打ち勝つことなのであるということであります。

 病気になったときに、われわれが一番弱くなったとき、一番弱さを自覚したとき、その時に、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力はあなたの弱い時にこそ発揮される」という神の言葉を聞くことができる時であります。そしてキリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろうという気持になれる時であります。弱い時にこそ強いという信仰を与えられる時であります。

 われわれはサタンと闘わなくてはならないのです。しかしそれは科学の力で闘ったり、自分の意志の力とか、あるいは信仰の力とかというものによってではなく、ただただ弱さの中に働く神の力と神の恵みを祈り求める、神を信頼しながら、サタンと闘っていかなくてはらないのであります。
 
 この一三章の四節には、「キリストは弱さのゆえに十字架につけられた、神の力によって生きておられる」という大変不思議な言葉があります。

 キリストはあの十字架のうえで、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、弱さをさらけ出したのです。ご自分の弱さをあらわにしたのです。しかしその時にキリストは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになつたのですか」と、「わが神、わが神」と神に対して、訴え、祈りつつ、自分の弱さをさらけ出し、神に委ねていったのです。それがサタンとの一番正しい、そして強力な戦いなのであります。それがキリストは弱さのゆえに十字架につけたられた、しかし神の力よって生きておられる」と言うことであります。

 パウロは信仰義認の教えといて、最後に記した言葉は「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できようか」といったのであります。そして「とんなものも、つまりサタンも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から私達を引き離すことはできない」といって、凱歌の声をあげたのであります。

 弱い時にこそ強い、この信仰を与えられたら、どんなものもわたしを神の愛から引き離すことはできないというこの信仰をもつことができるのではないかと思います。