「弱さの故の十字架」 コリントU 一三章一ー四節

 パウロはコリント教会に対して、「今度そちらに行ったなら、容赦しません」といっています。その前のところは、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です」といっています。つまり、それまではある程度、容赦していたということであります。
 
 何を容赦しないのか、ということですが、それは一二章の二一節からみますと分かります。「再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのをわたしが嘆き悲しむことになるのではないか」といっておりますので、そうした行為をしておきながら、依然として悔い改めていない人々に対して容赦しないということのようであります。

 パウロはどうもコリント教会の人々からみすかされていたようなのです。彼は口では厳しいことをいいながら、実際には甘いところがあると見られていたようなのであります。一○章の一節からみましてもこうパウロはいっております。「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもってあなたがたにお願いします。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちにに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」と書いているのです。

 またすぐその後では、コリント教会の人々は、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言っていたらしいのです。

 パウロと言う人は、コリント教会の人々にはずいぶん弱気な伝道者とみられていたようなのです。それで、パウロは今度、三度目に行ったときには、「容赦しない」と啖呵を切っているのです。

 しかしコリント教会の人々は、パウロはそうはいっても実際にきてみれば、今度もそんなに厳しい態度はとらないだろうとみすかしているようであります。パウロの弱気をよく知っているようなのです。

 今回コリントの信徒の手紙をTとUを通して講解説教をしてきて、感じたことはパウロの人間的な面が手にとるように感じられたということであります。これは手紙ですので、パウロの気持ちとか感情が正直に吐露されていて、パウロという伝道者の人間的な面がよくわかったということなのです。

 説教の中でパウロの人間性に触れるということは、あまりいいことではないかもしれませんが、しかしイエスの人間性をとりあげることは、これは説教として邪道だし、あまり意味があるとは思えませんが、パウロの手紙を通して見えてくるパウロの人間性を見ることは信仰生活と言うことを考えるときに有益なのではないかと思います。

 イエスの人間性を考えることは、これはイエスご自身が書いたわけでもないし、語ったことが直接文章になったわけではありませんから、そしてそれはすべて神学的な意味をもって書かれているわけですから、そこからイエスの人間性を追求しても意味がないことですし、また危険だと思います。

 しかしパウロの場合には、パウロ自身が手紙として現に書いたものですし、そこからパウロの人間性をみるということは、福音というものがどういうものであるかをそこから探ることもできると思います。

 パウロの人間性とは一言でいうと、彼自身がいっておりますように、「弱い時にこそ強い」ということではないかと思います。あるいは、パウロは自分の弱さをよく知っていたし、そして事実、弱さをもっていたということであります。

 このパウロの弱さはどこから来たのか。それはキリストの弱さから来ているということであります。
 この一三章でも「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱いものですが」といっているのであります。

 パウロの弱気が出てくるのは、人の罪に対して実際に裁く時に現れてしまうのではないかと思います。口では容赦しない、手紙ではもう絶対に許さないといいながら、実際には口ほどでない、許してしまうところがあるということなのです。そしてそれはパウロの人間性ということもあると思いますが、それはやはり福音というものの本来もっている性格から来ているのではないかと思います。

 教会には戒規というものがあります。戒規というのは、戒め、処分ということであります。その中には陪餐停止、つまり聖餐式に預からせないという戒規があります。一番重い戒規は、除名、つまり教会追放であります。
 竹森満佐一がいっておりますが、この戒規という字は英語では訓練という字が使われているというのです。つまりこれは罰を与えることが目的ではなく、教会の秩序と訓練を保つ意味なのだといっております。

 教会は、罪に対して一番厳しく考えなくてはならないと思います。その点では決して曖昧であってはならないと思います。しかしその罪を裁くというときに、教会は本当に慎重でなくてはならないと思います。

 主イエスの言われた言葉にこういうのがあります。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。いうことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会のいうことも聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのです。ここで教会と言う言葉がでてきますが、イエスの時代にはまだ教会はできていないわけですから、これは当然、後の教会がイエスの意図をくんで、イエスならば、今日教会に対してこういうだろうと推測して書かれたものだろうと思いす。

 そしてそのあと、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と、イエスは言われたとなっていて、教会には罪を赦す権威と罪を処罰する権限を神から与えられていると述べられております。
 しかし、そのあと、大変不思議な記事が続くのであります。そのあと、ペテロがイエスのところにの来て「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきですか。七回までですか」と聞くのです。七回ぐらいが限度でしょうというつもりでペテロはイエスに聞いたわけです。

 それに対して、イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と、とんでもないことを言われたというです。まるで前の戒規の箇所を無視するようなことをイエスが言われたのだと福音書は平気でそのあとにもってくるのであります。

 そしてもっと面白いことに、イエスはここで七の七十倍まで赦しなさい、つまりなにがなんでも赦しなさいといっておきながら、最後には、しかしどうしてもイエスにも赦せないことがあるといって、一つのたとえ話をするのであります。それは一万タラトンの借金を王様から赦された家来が、その帰り道に自分がたった百デナリを貸している仲間に出会って、その返済を求めたところ、彼はその百デナリを返せないで、どうかもう少し待ってくれと懇願しますが、自分は一万タラトンを赦されておりながら、彼は百デナリの借財を赦すことができないで、仲間を牢獄に入れてしまったというのです。そのことを伝え聞いた王は怒って、その一万タラトンの借金を赦したことを取り消して、彼を牢獄に入れてしまったという話しをするのです。そうして、「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もあなたがたに同じようにする」というのであります。
  
 人の罪をを徹底的に赦しなさいとイエスはいいながら、しかしただひとつ天の父も赦せない罪がある、それは自分は神から罪の赦しを受けておりながら、人の罪を赦せないという罪だというのです。
 こんなことを言われたら、教会に戒規などというものがあるのがおかしいというということになると思いますが、しかし聖書はそのことを論理的には矛盾であっても、平気でその二つの矛盾していることを主イエスの言葉としてそのまま載せているのであります。

 ですからパウロが懸命に「容赦しない」といっても、それを聞いているコリント教会の人々がパウロは結局は容赦してしまうだろうと見透かしてしまうのは、面白いところだし、ここにむしろ福音というものの本当の姿があるとおもうのです。

 われわれは罪を裁くということに関しては、パウロと同じように、口では容赦しないといいながら、実際にはそれを実行できないでいる、そういう曖昧さ優柔不断な姿勢というのは、むしろ大切だと思うし、福音的だと思います。

 首尾一貫性をもって処すということは、男性の美学かもしれません、あるいは、今日ではもうこんなことはいわれないかもしれませんが、しかし昔はこれは父親の子に対する姿勢でなければならないといわれたものであります。
 それに対して母親は子供の教育に関して、首尾一貫しないで、すぐ心変わりしてしまう、それがいけないといわれたものであります。

 しかし、首尾一貫性を貫く父親に対して、子は尊敬はするかもしれませんが、果たして子は正しく成長するだろうか、やはり子に対していつもおろおろしながら心変わりして対処していく母親の愛によって子は救われていき、人間として成長していくのではないか。

 神の愛と義もまたそのように相手に対して、心変わりするのではないでしょうか。さいさい引用しますけれど、ホセア書に出てくる神の姿です。口語訳で読みますが、神は背けるイスラエル民族に対してこういうのです。「エフライムよ、どうしてあなたを捨てることができようか。わたしの心はわたしのうちに変わり、わたしのあわれみはことごとく燃え起こっている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことはしない。」というのです。

 神は心変わりするというのです。新共同訳では、残念ながら、ここのところを「わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる」となっていて、心が変わるとは訳していないのです。しかし英語訳でもここはchangeという字が使われているのです。

 新共同訳は、神様が心変わりするというのでは困ると思って、そう訳したのかもしれませんが、しかし愛というのは、変わるのではないでしょうか。相手を思うために、自分の沽券を捨て、自分の意地を捨ててまでして、前言を翻したりする、変化する、心変わりすることこそ、愛の本質ではないかと思います。

 パウロは「容赦しない」とは言っているが、結局は今度も容赦するのではないかとコリント教会の人々から見透かされているというところに、パウロの愛がほんものであるという証拠としてみてもいいのではないか。

 コリント教会の人々は、そういうパウロの態度を弱さとして見ているようであります。

それに対して、パウロはコリント教会の人々から弱さとして見られる弱さは、自分の弱さはキリストの弱さに由来しているのだと述べるのであります。

 「キリストは弱さの故に十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」とパウロはいいます。
 イエス・キリストは弱さの故に十字架につけられたというのはどういう意味なのでしょうか。

これは一つはイエスの十字架は後に現れる殉教者のはりつけとか火あぶりの刑に処せられて死んでいったあの殉教者の立派さ、強さをもって死んでいったものとは違うということであります。また弱い人間だったならば、あのペテロたちのように十字架を逃れようとして逃げ出してしまった筈であります。

 そうすると、ここで言われている「弱さの故に十字架につけられた」というのは、弱さをさらけだしながら、弱さを隠そうとしないで、十字架につけられたということではないかと思います。

 イエスの十字架での弱さが一番よく示されたのが、あのゲッセマネの園でのイエスの祈りではないかと思います。それまでは自ら自分は十字架で死ぬだと大変強い意志を弟子達に示しておられたイエスが、捕らえられる前の夜に突然、自分は死ぬほどに悲しいといい、思い悩み、十字架につくことをためらい、これが本当にあなたのみこころなのですか、わたしを十字架につけないでくださいと父なる神に祈っておられるのです。

 そういうイエスに対して、父なる神はひとこともお答えにならないで、ただ沈黙しておられるのです。イエスはその父なる神の沈黙のなかに神の強い意志をくみとって、十字架の道を歩むのであります。
 
 しかしそれでもイエスはのあの十字架の上で九時から午後の三時まで祈りつづけ、最後に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と、「わが神、わが神」と、すがりつくようにして、父なる神に自分の弱さをさらけだしつつ死んでいくのであります。

 それは、わたしは十字架につくのだ、十字架を担うのだ、どんなことがあってもそうするのだという強い意志で神に従っていくイエスの姿ではなく、ためらいながら、悲しみながら、悩みながら、そうした弱さを示しながら、それでも父なる神に従っていくイエスの姿を、聖書はわれわれに示しているのであります。

 われわれは強いままのイエスだったならば、救われなかったかもしれません。意志強固な人ならば、そうしたイエスの姿に感動して、意気を感じて自分を鼓舞しながら神に従っていくかもしれませんが、われわれにはそれはできないのではないかと思います。
 イエスはわれわれ人間の罪を洞察していくなかで、人間の罪はただ上から裁くだけでは、どうにも救うことはできない、悔い改めに導くことはできないということを知って、ご自分が罪人の一人になりきって、弱い罪人が神に救いを求めるにはどうしたらよいかを身をもって示してくださった、それが「弱さの故に十字架につけられたが」ということではないかと思います。

 われわれ罪に対して確かに、強い態度で臨まなければならないと思います。罪を犯した人に対し、また自分自身に対してもです。しかし同時にそれだけではどうしても罪を克服し、罪を解決できないこともわれわれはよく知っているのではないか。ある時には、罪を犯した人になりきって、そのところまで自分を低くして、罪人の立場になって、なぜならもともとわれわれ自身がそうした罪人の一人だったからであります、罪人の一人になりきって、共に悲しみ、共に苦しみ、そして共に神に祈ろうとしなければ、罪を解決することはできないということなのであります。
 罪に対しては毅然とした父親の姿勢も必要でしょうが、おろおろとしてしまう母親の弱さもどうしても必要なのではいでしょうか。

 パウロは「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」というのであります。ここでパウロは慎重に言葉を選んで、「あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に強いものだ」と、「強いものだ」とはいわないで、「キリスト共に生きている」といっているのです。それは神の憐れみによってキリストと共に生きているということであります。あなたがたに対してもそうするといっているのであります。

 パウロはあくまで神の憐れみによって生きているのです。特に人の罪に対するときに、人の罪を裁くときに、神の憐れみに立とう、キリストと共に神の力と神のあわれみの下に立とうしているのであります。そのためにどんなにパウロ自身が悪口をいわれようが、あいつは弱い者だと軽蔑されようがかまわないということであります。