「信仰の吟味」 コリントU 一三章五ー一○節

 「信仰をもって生きているかどうか自分で反省し、自分を吟味しなさい」と、パウロはコリント教会の人々に最後に語りかけます。

 「反省する」という言葉を聞くと、わたしはすぐ日記のことを思い浮かべます。わたしは中学生の時だったか、高校生の時だったか忘れましたが、ある時に日記をつけるのをやめようと思ったことがあります。それは日記というのは、その日の反省記録であって、反省ということは自分の今日したことをあれはいけなかった、これはいけなかったと反省することで、もう反省することばかりでうんざりして、もうこれからは日記をつけるのをやめようと思ったのです。反省したって何にもならない、なんにも新しいことは生まれないと思ったからであります。

 辞書をみますと、反省というのは、「自分の行いをかえりみること、自分の過去の行為について考察し、一定の評価を加えること」と出ておりました。

 ここは口語訳では、「あなたがたは果たして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」となっています。そのようにいわれると、たとえば、夜寝る時に、寝床に入って今日一日のことを反省し、今日自分はどれだけ神様のことを考えたか、神様にお祈りをしたかどうか、そのことを考えて反省する、それが信仰の反省だと思ってしまうのであります。
 つまり、信仰というものを自分の意識の問題として捉えてしまう、神様のこと、イエス・キリストのことをどれだけ意識して今日を生きてきたかという意識の問題として考えてしまうことになるのではないかと思います。

 しかしここでいわれていることは、そういう意識のこと、信仰の意識のことではないのです。そのあとでパウロはこういうからです。
「あなたがたは自分自身のことがわからないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」口語訳ではこうなっております。「それともイエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを悟らないのか」となっております。

 つまり、ここで言われている信仰の反省とか信仰の吟味というのは、今日一日を反省して、今日一日神様のことを思う時間が少なかった、イエス・キリストのことを意識するのが少なかったとかを反省することではなくて、われわれが神様のことを意識しようがしまいが、イエス・キリストのことを意識しようがしまいが、神様のほうでは、イエス・キリストのほうでは、われわれのうちに生きておられた、そのことをどれだけ自覚して、悟って行動したか、生きてきたかということなのです。

 ここでパウロはコリント教会の人々に対して「あなたがたのうちにイエス・キリストがおられるかどうかを考えてみよ、反省してみよ、吟味してみよ」といっているのではないのです。そうではなくて、「あなたがたのうちにすでにイエス・キリストがおられるのに、そのことを悟らないで行動していないかを反省し、吟味してみなさい」といっているのです。

 今まで学んできてわかりますように、コリント教会はいろいろな問題をかかえた教会であります。そこでは派閥争いがあり、権力争いが、この世にはみらないほどに性的な堕落がある、信仰的にも世俗的にも問題がたくさんある教会なのです。
 もう神様から見放されているかに見える教会なのです。しかしそこにちゃんと神様はおられ、イエス・キリストはおられるのだ、というのです。そのことをどうしてあなたがたは悟らないのか、というのです。

 竹森満佐一がここのところで、「信仰の反省というのは、自分の信仰の強さ弱さの状態を見ることではない」といっております。われわれはどうかすると、信仰の反省というと、さきほどにもいいましたように、信仰の強さ弱さ、つまり信仰を意識として考えてしまいがちですけれど、そういうことではないということであります。

 あるいは、信仰的ということを、どれだけ祈ることに時間をついやしたかということで測りがちですけれど、そういうことではないのです。竹森満佐一がいっておりましたが、「常に祈りなさいということは、一日中祈り三昧にひたることではない、どんな時にも常に祈る用意を持って生きることだ」といっております。
 
 もちろんわれわれは一日のうちに祈る時間と場所を常に確保していくという生活をしていくことは大事だと思います。それを習慣化するということは信仰生活に大事なことだと思います。しかしその形は人さまざまだと思います。それは人の性格にもよるだろうし、その人の生活環境にもよると思いますけれど、何も決まった形をもたなくても、歩きながらでも、あるいはトイレにはいりながらでも、常に祈ることはできる、常に祈りをもちながら行動することはできると思うのです。

 信仰ということを、ある時に、神様のこと、イエス・キリストのことを自分の意識のうちにもちだすことは必要だと思います。そのために毎週の日曜日の礼拝は大事だし、あるいは、教会の祈祷会は大切だと思います。一日に一度くらいは、夜寝る時とか、食前の前の祈りにおいてとか、神様のこと、イエス・キリストのことを意識することは大事なことだと思います。

 しかし、信仰というのは、われわれの信仰の意識の強さ弱さのことではない、われわれが意識しようがしまいが、われわれのなかにイエス・キリストが生きて働いておられる、そのことを信じて行動しているかどうかなのです。

 イエスの話された話しに、終末の時に、羊にわけられる人と山羊に分けられる人の話があります。イエスはそこで大変わかりやすい、大衆向きのたとえ話をするわけです。羊に分けわれる人は終末のときにいわば天国に入れられる人、山羊のほうにわけられる人は地獄におとされる人だと話をするのです。

 どういう人が羊のほうにわけられかといえば、自分の目の前に飢えている人がいて食物をあげた人、自分の目の前にのどの渇いている人を見て、水をあげた人、旅をしている人に宿を貸してあげた人、裸の人に着物を着せてあげた人、病気の人を見舞い、牢に捕らわれている人を訪ねてあげた人だというのです。

 そのことをイエスはこういわれるのです。「お前たちはわたしが飢えていた時に食物を恵み、のどが渇いていたときに、水をのませてくれ、病気のときに見舞い、牢にいるときに尋ねてくれたのだ、だからお前達は天国に入りなさい」というのです。

 それをいわれたときに、みんな驚いてこういったというのです。「いつ自分達はあなたにそんなことをしたのでしょうか。いつあなたが飢えていたのですか。いつあなたが病気だったのすか」というのです。するとイエスは、「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのだ」。

 羊の方に分けられた人は、イエス・キリストのことなどひとつも意識していないのです。ただ自分の目の前にいるいと小さき者にいわば小さな親切をしただけであります。決して大げさなことではないのです。自分のできることをしただけであります。その時、神様のことを思ったわけでもないし、イエス・キリストのことを思ったわけではない。ただ自分の目の前にいる人が自分に助けを求めている、それに応えてあげただけです。神様のこと、イエスのことを意識して行動したわけではないのです。しかし彼らには、イエスによって教えられたイエスの生き方が彼らのうちに働いていたことは確かだろうと思います。

 それが新共同訳の訳で言いますと「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」ということであります。これは口語訳の「はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい」という訳よりもいい訳だと思います。「信仰があるかどうか」という訳になりますと、信仰をもっているかどうかという、信仰の意識の問題になりがちだからであります。

 羊のほうにわけられた人々は、信仰を意識してはいないのです。彼らは信仰を意識はしていないで、信仰に生きていたのであります。

 一方、山羊のほうにわけられた人はどういう人たちかといわれると、「お前達はわたしが飢えている時、喉が渇いているとき、病気の時、なにもしてくれなかった」とイエスからいわれると、「主よ、いつあなたが飢えていたのでか、あなたが裸で、病気で牢にいたのにお世話しなかったのですか」といって驚くのです。つまり、彼らはもしそれがイエスであったならば、自分の身を挺してイエスのお世話をするつもりだったというのです。彼らは絶えずイエス・キリストのことを意識して、イエスを助けようと待ちかまえていた人々であります。

 しかしイエスから「この最も小さい者の一人にしなかったのはわたしにしなかったことだ」といわれてしまうのです。「お前達は信仰をもって生きていなかった」とイエスから言われてしまうのであります。

 ですから、信仰の反省とか信仰の吟味というのは、われわれの信仰の意識の問題ではないのです。イエス・キリストはわれわれが意識しようがしまいが、われわれのなかに常に生きて働いておられる、その信仰に生きているかどうかということであります。

 ちなみに、この「反省」という字はもともとは試みるという字なのだということであります。英語で言いますと、テストという字であります。もう一つの日本語の聖書の訳ではここをこう訳しております。「あなたがたが信仰のうちにあるかどうかを、あなたがたは自分自身を検証しなさい」と訳していて、「検証」というように訳しています。

 ちなみに、リビングバイブルでは、こうなっております。「よくよく自分を吟味しなさい。ほんとうにクリスチャンだと言えますか。クリスチャンとしてのテストに合格していますか。自分のうちに住まわれるキリスト様と、そのあふれる力とを、いよいよ強く実感していますか」となっております。「実感」と訳されているところは問題を感じますが、実感というよりは、信じて、というほうがいいと思います。「自分のうちに住まわれるキリストと、そのあふれる力とをいよいよ強く信じて生きているか」ということだと思います。

 ここで竹森満佐一はこういっているのです。「ここにパウロは、イエス・キリストがあなたがたのうちにいるのを悟らないのか、といっている。それはあたかも自分が気がついていないのに、いつの間にか、キリストが、自分のうちにいて下さるような言い方である。まさにそのとおりではないか」。

 旧約聖書のヤコブの物語を思い出します。ヤコブが父親をだまして、長子の特権と祝福を奪い取ってしまって、兄に恨まれて、その兄から逃れるために、自分の故郷を離れて、ひとりで旅に出た時であります。ある所に来た時に、日が沈んだので、そこでひとりで一夜を過ごした。石をひとつとって、それを枕にして横たわったというのです。すると彼は夢を見た。先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、そこを神の御使いが上ったり下ったりしていた。そしてそこに主なる神が傍らに立っていた。そして言われた。「わたしはお前と共にいる。お前がどこに行っても、わたしはお前を守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはお前を決して見捨てない」といわれるのです。ヤコブは眠りから目を覚ました。そしてヤコブはこういうのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家だ。ここは天の門だ」そういって、その場所をベテル、神の家と名付けたというのです。

 この時ヤコブは大変卑劣なことをして、兄に憎まれ、殺されそうになって故郷を逃げ出しているときなのです。彼はまだこのとき自分のしたことについて反省も悔い改めもしていないのです。反省はしてはいなかったかもしれませんが、自分のしたことはまずかったとは思ったかもしれない。そしてこれも自分の蒔いた種で、自業自得と思っただろうと思います。もうこれからは自分ひとりで生きていかなくてはならないと思っただろうと思います。

 そういう時に、いつの間にか神がおられたというのであります。まだ悔い改めてもいないヤコブに対して、「どんなことがあっても、わたしはお前を見捨てない、お前がどこにいこうが、お前と共にいる」という神の言葉を聞くのであります。

 それはまさにあの問題の多いコリント教会の中に、イエス・キリストがおられるのに、それをどうして悟らないのか、ということであります。

 イエス・キリストはわれわれの信仰の意識の中に現れてくるのではないのです。われわれが意識しようがしまいが、われわれが祈ろうが祈るまいが、イエス・キリストはわれわれの中に生きて働いておられるのです。それを悟るということがわれわれの信仰の反省であり、信仰の自己吟味なのであります。

 われわれの態度いかんにによって、キリストがあらわれたり、消えてしまったりするのではないのです。われわれの意識とか態度とかに拘わらず、キリストはわれわれの中におられるのです。そのことに気付いたら、われわれはもっと大胆に生きられたのではないか。もう一歩、沖にこぎ出して、網を降ろすことができたのではないか。もっともっと謙遜になって行動ができたのではないか。

 信仰というのは、われわれが神を意識したり、われわれが神を知ることではないのです。パウロがガラテヤの信徒の手紙で言っておりますように、「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」、口語訳でいいますと「今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに」ということであります。信仰とはわれわれが神を知ることではなく、われわれが神に知られているということであります。そのことを自覚し、そのことを知ること、そのことを信じることが信仰であります。

 エマオの途上で、イエスの弟子のふたりが葬られたイエスの死体が見あたらないということで不安を感じながら、道を歩いていたときに、そのかたわらに復活の主イエスが一緒に歩き始めたというのです。彼らはそれが主イエスだと気が付かなかった。イエスが何を話しているのかと尋ねると彼らは自分たちの不安について語った。するとイエスは「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちのいったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入る筈ではなかったか」といわれ、そしてモーセから始めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明されたというのです。

 この時、この弟子達はそれがイエスだとは分からなかった。そのあと、宿で食事の席についたとき、イエスがパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いたとき、彼らの目が開かれ、イエスだと分かったというのです。そのとき、イエスの姿は見えなくなっていたというのです。

 彼らはイエスが共におられるのに、気がつかなかった。意識できなかったのです。しかしイエスのほうでは彼らと共におられたのです。
 ふたりはあとでそれがイエスだったと気がついた時にこういうのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。

 彼らはイエスが共におられたのに、そのイエスを意識できないでいた。それなのにイエスは彼らの傍らにおられたのであります。そして彼らはあとで、「ああ、あのとき、イエスが聖書の御言葉の解き明かしをしてくれた時に、自分たちの心が燃えていた、熱くなっていたではないか」というのです。

 われわれが神を意識し、イエス・キリストを意識できないでいるときにも、そこに神が共にいてくださる、そしてそのときに、われわれの心がもえる時があるかもしれない、心があつくなる時があるかもしれないのであります。

 われわれのほうで意識しなくても、神のほうでわれわれの心を燃やしてくださって、われわれに勇気を与え、われわれを謙遜にさせ、われわれを大胆に生きる力を与えてくださるのであります。始終ではないかも知れませんが、必ず、どうしても必要な時には、神はそのような熱い心をわれわれに神様のほうから与えてくださるのであります。