「真理に逆らっては」 コリントU 一三章五ー一三節

 パウロはコリント教会の人々に最後にこういいます。「わたしたちはあなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」

 パウロは今コリント教会の人々からあまり良く思われていないようなのです。それでパウロはこれまで懸命に自分はあなたがたのためを思って、あなたがたを傷つけるようなことも言ってきたかもしれない。しかしそれもこれも、みなあなたがたが真のクリスチャンになってもらいたいからだ、そのためにならば、自分がどんなに誤解され、悪く思われても、伝道者として失格者といわれようが、かまわないというのです。あなたがたが信仰者として悪を行わないで、善を行って欲しいというのです。

 そして「われわれは真理に逆らっては何もできない、真理のためにならばできる」というです。ここは口語訳では、「真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば、力がある」と意訳しております。

 真理に逆らっては何事もすることはできないが、真理に従えば力がある、何事もできる、ということは、われわれが日常的に経験することだと思います。これは信仰の上の話しだけでなく、一般的なこととしても真実の言葉だと思います。
 
 しかし、ここではもちろん、単に一般的な格言をいっているのでなはく、信仰上の問題でいっているわけで、ここでいう真理というのは、福音の真理、神の真理であります。つまり神に逆らっては何事もすることはできないが、神の真理に従って何かをしようとすれば、できる、何事でもできるということであります。
 
 神に逆らっては何事もすることがでない、ということでわたしがすぐ思いだした聖書の記事があります。それは旧約聖書の民数記の二二章にある記事なのですが、大変ユーモラスな記事であります。

 細かいことは全部省いて話しますが、モアブの王バラクがエジプトを出て荒野を彷徨しているイスラエルの民を非常に恐れて、なんとかこのイスラエルの民を抹殺したいと思って、有名な占い師バラムを招いてイスラエルの民を呪って貰おうとするのです。
 しかし占い師バラムはイスラエルの神、主からモアブの王のところに行ってはならいと告げられるのです。モアブの王は沢山の贈り物を用意して、招くのであります。しかし神からはモアブのところに行って、イスラエルを呪ってはならないと占い師バラムはいわれている。しかし再々の贈り物に惑わされたのかついにバラムは王のところにロバに乗って行くことにします。

 聖書では「立って彼らと行くがよい、しかしわたしが告げることだけを語れ」と、書かれて、神が行かせたとなっていますが、本当はバラムは金銭に目がくらんで、ロバに乗って行たんだと思います。

 途中、ロバの前に主の使いが抜き身の剣をもって立ちふさがった。それでバラムを乗せたロバは道をそれて畑に踏み込んだ。主人であるバラムはロバを杖で打って道にもどそうとするのです。そうしたことがさいさい起こります。ロバが行こうとするすと、その都度主の使いが立ちふさがる。とうとうロバは主人バラムを乗せたままうずくまってしまいます。主人は怒ってロバを杖で打った。

 するとロバは口をきいた。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしをうつとは」。面白いことにロバが口をきいたというのです。するとバラムは「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったなら、即座に殺していただろう。」といいます。するとロバがこういった。「わたしはあなたのロバです。あなたは今日までずっとわたしに乗ってこられたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか」といいますと、主人は「いやなかった」といいます。

 すると神はバラムの目を開かせた。そこに主の御使いが抜き身の剣を手にして立っていた。バラムは身をかがめてひれ伏した。
 そのとき、主の使いはこういった。「なぜお前は三度もロバを打ったのか。お前がわたしに逆らって王のところに行こうとしてるのを見て、危険だったから、わたしは妨げる者とし出てきたのだ。ロバはわたしを見たからわたしを避けようとしたのだ。もしロバがわたしを避けていなかったならば、きっと今はロバを生かしておいても、お前を殺していただろう」と言ったというのです。
 その後、バラムは王のとろこに行きますが、イスラエルを呪う預言をしなかったのであります。

 これはロバが口をきくという話で、おとぎ話みたいな記事です。それまで主人に忠実であったロバが神の御使いの姿をみて、どうしても主人の指示に従わないで、歩くことをやめて、道でうずくまってしまったというのです。主人から杖で打たれたとき、「わたしがあなたに何をしたというのてすか。三度もわたしをうつとは」と文句を言ったというのは、大変ユーモラスであります。これは大変ユーモラスなおとぎ話のような記事ですが、われわれは神に逆らっては何事もすることができないということをよく教えている大事な聖書の話しではないかと思います。

 わたしはこのパウロの言葉、「真理に逆らっては何事もすることができない」という言葉を読むときに、いつもこのロバの話しを思いだすのです。

 真理に逆らっては、神に逆らっては、どんなに今まで忠実に主人に仕え、主人のいうとおりに主人を乗せて歩いてきたロバですら、道を歩むことができなかったということであります。

 真理に逆らっては何事もすることはできない、その真理というのは自分が信じる信念とか、自分の真理なんかではないのです。自分が信じようが信じまいが、自分が受け入れようが受け入れまいが、そこに頑として横たわる真理、客観的な真理といいますか、そういう真理です。

 たとえば、ガリレオがコペルニコスの唱える地動説を立証し、それが当時のカトリック教会の逆鱗にふれて、それを撤回せよ、いわれる、地動説は教会からみれば、異端にあたるわけで、彼は異端裁判にかけられるわけです。彼は頑として自説を主張しますが、最後に地動説を撤回させられ、その誓約を書かされた。そのときに、ガリレオは小声で、「それでも地球は動く」とつぶやいたという伝説が残っております。これは恐らく作られた伝説だろうということですけれど、もし彼がそんなことをいったら、火あぶりの刑に処せられたからであります。彼は終身刑を受け、死んでも教会の墓地には埋葬してもらえなかったそうであります。

 教会から圧力をかけられて、自分で自分の説を抹消することになるわけですが、自分が自分の説を撤回しようが、「それでも地球は動いている」、真理とはそういうものであります。そういう真理で、自分の信念とか自分の信じている真理なんかではないのです。

 われわれが信じようが信じまいが、われわれが受け入れようが受け入れまいが、頑として動くことのない真理というものがある、その真理に逆らっては何事もできないということであります。
 一九九二年になって、ローマ法王ヨハネス、パウロ二世がそのカトリック教会の裁判の過ちを公式に認めたのであります。ガリレオは復権したのであります。

 テモテの手紙には、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないからである」とあります。
 彼は、というのは、「キリストは」ということであります。
 その前の箇所には、パウロの言葉として「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のためにわたしは、苦しみを受け、犯罪人のように鎖につながれている。しかし、神の言葉はつながれていない」とあります。

 神の言葉は鎖につながれていないのです。われわれ人間がどんなにそれを升の下に隠そうが、隠し通すことはできない、神の言葉、神の真理は人間の鎖によってつなげておくことはできないのです。

 そうであるならば、もしわれわれが自分の弱さのために過ちを犯しても、最後は神の真理が勝利してくれる、最後には神の真実が勝利し、われわれ人間のほうが打ち負かされる、それを信じることができるならば、われわれどんなに心強いかわからないと思います。
 自分の誠実さとか不誠実とか、そんなことにあまり神経質にならないで、最後には必ず神の真実が明らかになる。もし自分の考えが間違っているならば、神が必ず裁いてくださる、そのことを信じて、われわれはあまり神経質な信仰生活にならないで、もっと大胆に生きることができるのではないかと思います。

パウロはさらにこう続けます。九節からですけれど、「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」
自分たちはどんなに悪く言われたり、悪く思われてもいい、あなたがたが完全になって欲しいのだというのです。

 ここにわれわれにとってまありききたくはない「完全」という言葉がでてまいります。今婦人部の集会で「聖化」というテキストをとりあげておりますけれど、そのテキストには「完全に向かっての前進」という項目があって、どうして山田牧師はふだんの説教でいっていることとは違うテキストを持ち出すかと言われております。「聖化」とか「完全に向かっての前進」ということを今になっていうのかと言われておりますが、しかし、現に今日の聖書の箇所にも、聖化とか、あるいは完全になりなさいという勧めの言葉があるので、それを避けてとおるわけにはいかないのです。

 完全な者になる、ということはどういうことなのでしょうか。完全という字は「骨を組み合わせる」という字だそうです。欠けの多いものが、つくろわれて、完全になるということなのだそうです。

 われわれは完全というと、すぐ完璧という言葉を思い浮かべると思います。それは傷のないまん丸い玉という意味、全く欠点が無いこと、完全無欠ということだと辞書をひくと出てまいります。われわれは完全というと、完璧ということ、つまり百点満点、それ以外はゼロということだと思いがちなのです。

 しかし聖書でいっている「完全」というのは、そういう意味ではなく、欠けの多いものがつくろわれていく、そのように骨を組み合わされるようにして、欠けが直されていくという意味のようであります。

 こういうことをいうのは、差し障りがあることかもしれませんが、しかしもう最後の一年ですから、いいますけれど、夜の祈祷会で、「せめてこういたします、少しでもこうしたい」と、口癖のように祈るかたがいて、わたしはその祈りの言葉を聞く度に、この人からこの「せめて」という言葉がなくなったら、信仰生活がもっと自由になるのになあ、といつも思ったものであります。

 つまり、「せめてこうしたい、せめてこうします」という言葉には、できるかぎり努力します、という姿勢が感じられて、これはうっかりすると、努力義認主義につながらないかということを心配するのです。

 われわれは自分の行いによって救われると思うほどには、誰しも思わないし、ユダヤ人ほどわれわれ日本人は傲慢でありませんから、そのようなことはだれも思わないと思うのです。しかしわれわれ日本人は、特に日本人のクリスチャンは大変真面目な人が多いのです、それで行為義認主義にはならなくても、立派な行いはできなくても、せめて立派な行いをするように努力しなくては救われないのではないか、と思っている人が多いのではないか。つまり、行為義認主義ではなく、努力義認主義に陥っているクリスチャンは多いのではないかと思うのです。努力しなくては救われないというのは、結局は行為義認主義で、これは律法主義になります。

 私自身は元来非常に律法主義的な人間なのです。そのために、本当に苦しんで苦しんで、その自分の中にある律法主義的傾向と闘ってきているのです。だから人が律法主義的なっていくことに大変敏感なのです。律法主義をいつも批判するのは、自分自身の中にある律法主義に対する批判なのであって、人を裁くのではなく、自分自身を裁いているのです。

 そんなわけで、そのかたが「せめて」と祈って生きているのと同じように、私自身も、口ではただ神の恵みのみを信じて救われるのだといってはいますけれど、実際はこの「せめて」という努力というものに促されて今日まで来ているのです。
 そして最近になって、このかたのその祈りの言葉、この「せめて」という姿勢はとても大事な祈りの言葉なのでないかと思うようになったのです。

 どうしてそのように思うようになったかといいますと、旧約聖書にあります、詩編の五一篇などにある言葉、「あなたははん祭を好まれない。神の受け入れられるいけには砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽しめられない」という言葉からなのです。

 イスラエルの人々は、罪を犯したときに、動物を屠り、それを生け贄として火で焼くわけです。煙は上に上っていきますから、それが神に届くと考えられたわけです。罪を犯した者は、本当は殺されなくてはならない、しかし自分が殺されのはどうしても困る、だから自分の代わりに小羊などを屠って、それを焼いて神に捧げる、そういう儀式をして自分達の罪の悔い改めをしたのです。

 罪を犯した者は「ただ」で赦されるなんて到底思えないのです。罪に対する償いがどうしても必要だと思ったわけです。それほどに自分の罪は大きいと思ったわけです。ただで罪が赦されるほど自分の罪は小さいものではないかと思ったわけです。それでその小羊を神にささげながら、本当は自分が死ななければならないのだけれど、せめて自分の身代わりにこの小羊を捧げますと言う、気持をもってそういう儀式が行われた筈なのです。つまり、その儀式と共に砕けた魂、悔いた心を捧げていた筈なのです。

 しかしいつのまにか、儀式は形骸化されてしまって、そういう砕けた魂はどこかにいってしまって、この儀式さえしておけば自分達の罪は赦される、これからもまた大手をふって罪を犯せるんだと思い始めてしまった。そこには「せめて、わたしの代わりに、せめてこの小羊を」という砕けた魂はなくなってしまっていたということなのです。

 そう考えていきますと、この「せめて」という思いは、砕けた魂のあらわれで大変大切なことだとわたしは思うようになったのです。自分は完全な行いなんかできない、それはもう十分わかっている、そうした上で、「せめて、少しでも、自分のできることをしたい」という思いは、砕けた魂がそこにある祈りだということに、わたしは気が付いたのです。

 もしわれわれ信仰者が、この「せめて」という思いを失ってしまったら、もうとめどもなく転落していくのではないか。ただ開き直ってしまって、何も善い行いをしようとしなくなるのではないか。この「せめて」を失ってしまうと、信仰者の転落が始まるということなのです。

 「完全に向かっての前進」とか「完全な者になってほしい」というパウロの祈りは、そういう「せめて」という思いをもち、自分は完璧な事なんか到底できない、だから「せめて」、それに向かって努力していこうという謙遜な砕けた魂をもって歩むんで欲しいという要請なのではないかと思うのであります。