「土台はイエス・キリスト」 コリントT 三章一○ー一七節

 パウロはコリントの教会の信徒に堂々といいます。「わたしは神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えた」というのです。そしてその土台はイエス・キリストであるというのです。「他の人はその上に家を建てるのだ」といいます。そしてその人々はパウロが据えた土台を無視して、それ以外の土台を据えることはできないというのです。つまり、自分のあとに来たアポロという伝道者といえども、この自分が土台として据えたイエス・キリストという土台の上に家を建てるだけなのだというのです。

 ここには、パウロの自負のようなものが感じられるのかもしれません。パウロという人は、人間的な見方をすれば、非常に誇り高い人、プライドの高い人だったと思うのです、それだけにまたそうした自分の誇りを過激に否定した人でもあったようです。ですから、パウロの書いた手紙を読んでいますと、そのパウロの過激なプライドが顔を出すことがあります。ガラテヤの信徒への手紙などでは、自分が宣教した福音に反する福音を宣べ伝える者は、呪われるがよいとまで言っているところがあります。

 またパウロはそれだけ、イエス・キリスト、十字架につけられたイエス・キリストに救われたことを誇りにしていたということであります。そのイエス・キリストを誇る喜びに満ちていた、その誇りに自分も預かることができる喜びをもっていたということであります。

 パウロは今コリントの教会のことを大変心配しているのです。わたしはパウロにつくとか、アポロにつくとかといって分裂騒ぎを起こしてしている。大変心配しているのです。そのほかにも、これから読んでいくとわかりますけれど、コリントの教会にはパウロを心配させるものがいろいろあったようであります。

 しかし、パウロは、自分はイエス・キリストという土台を据えたのだ、だから最終的にはどんなこがあっても、この教会は崩れることはないという安心があったのであります。

 この自分が据えた土台以外の土台を据えることができないからだというのです。そして自分のあとに来た伝道者は、この土台の上に、金や銀、宝石、、木や、草、わらで教会という家を建てるかもしれない。そしていつか、かの日に、ということは終末の時の裁きの時に、神の裁きの火によって、その仕事がどんな仕事であったかが明らかにされるだろう、その仕事がつまらない仕事であったならば、もえつきてしまうだろう、あるいは、その仕事が立派な仕事であれば、残るかも知れないというのです。

 パウロはここで、金や銀や宝石、木、草、わらで家を建てるが、といっております、そして確かに、火が来てもえつきてしまうのは、わらで建てた家でしょうし、あるいは、草、木で建てた家は燃えてしまうだろうとパウロはいいたいのかもしれません。しかし、本当はパウロはそんなことはたいしたことではないのだといいたいのではないか、つまり土台さえしっかりと建てられていさえすれば、どんなに建物が焼けても修復できるのだということをパウロは思っているのではないか。そういうニュアンスがここで感じられるのであります。

 それは一○節で、わたしが据えたイエス・キリストという土台の上に、他の人が家を建てる、おのおのどのように建てるか注意すべきだといったあと、パウロはすぐそのあと、十一節で、「イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできないからだというからであります。
大事なのは土台だといっているからであります。

 ガリラヤという田舎から出てきたイエスの弟子達は、エルサレムにはじめて来てその神殿を見て、びっくりしてイエスに向かって「先生ごらんください、なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感心していますと、イエスは「お前達はこんな大きな建物に感心しているのか。この建物の一つの石も崩されずに他の石の上に残る事はない日がくる」といわれたのであります。
 ソロモンがたくさんの宝石を使って建てた神殿もバビロンによって徹底的に破壊されたのであります。

 もちろんここで言われている建物は、教会堂という建築物のことではないでしょう。教会形成という教会というものの中身でしょう。しかし、それだって、教会にはおおきな教会もあれば、一見わらでできているような教会もあると思います。金でできているようなきらびやかな教会もあるかもしれない。しかしそれは所詮人間が建てた教会という組織であります。有能な牧師が牧会している教会が金で建てられた教会であるとは限らない、そうした教会はしばしばイエス・キリストを証する教会ではなく、ただその牧師を崇める教会でしかないこともあり得るし、あまり能力のない牧師が牧会している教会は、それだけにただイエス・キリストだけを指さす教会形成をしているかもしれない。

 どちらにせよ、最後の日にそのことは明らかにされる、そして、だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けるが、燃え尽きてしまえば、損害を受けるといいます。つまり、それだけのことだとパウロは言っているようなのです。所詮大事なのは土台だからだ、イエス・キリストという土台だからだといっているからであります。

 この土台さえあれば、これが絶対的なもので、金や銀で建てようが、わらや草で建てようが、あとは相対的なものだということではないかと思うのです。

 一○節で、「他の人がその上に家を建てる。ただおのおのどのように建てるかに注意すべきです」という言葉がありますが、これは金で建てるか、わらで建てるかに注意すべきだということではないのです。これは、すぐ続いていわれていること、「おのおのどのように建てるかに注意すべきだ」といったあと、「イエス・キリストといういうすでに据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」、このことに注意しなさいということであります。

 そして、パウロは一四節で、「だれかがその土台の上に立てた仕事が残れば、その人は報いを受けるが、燃え尽きてしまえば、損害を受ける」と淡々と語り、そのあと「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます」と断言するのであります。この一句があるために、その人が一所懸命にして来た
ことは、それほどたいしたことではいないのだという印象を与えるのです。

 どうしてかといいますと、つまり、わらで建てた人のしてきたことは、その建物が燃え尽きてしまうと共に、その人も責任を問われて裁かれてしまうというのであれば、その人のして来たこと、その人の残してきた仕事の大きさ、重要さがわかるというものですが、「その人自身は救われる」というこの一句があるために、それまでしたきたわれわれのわざのことは全部相対化させてくれるからであります。
 
 ある人がいっておりますが、「ここで知っておかなくてならないことは、これらの業は、われわれのしたことであって、われわれ自身ではないということだ。御心にかなわないことがあったからといって、われわれ自身が滅ぼされるのではないということだ。御心にかなわないことは滅ぼされ、御心にかなうことは残る。しかし、神は裁きの神ではなく、救いの神なのだ。従ってわれわれ自身は救われのだ」といっております。そしてこういうのです。「われわれの仕えることはいつも不十分であるとひねくれる必要はない。神の御心にかなうことだってある筈だ」というのであります。

 確かにわれわれのすることは、不十分であります、御心にかなうこともあるかもしれませんが、御心にかなわないことのほうがたくさんあると思います。それは何も教会形成のことだけでなく、われわれの信仰者としての歩みのことでも、われわれのしているわざは本当に不十分であります。わらで、草でしか仕事をしていないかもしれない、しかし時には思いがけず金とまでいかなくても、銀ぐらいのことはできているかもしれない、しかしいずれにせよ、最後には神さまが判決をくだしてくださる、神が裁いてくださる、われわれ人間の裁きではなく、われわれ人間の評価ではなく、そしてわれわれ自身の自分に対する自己評価でもなく、神が公平に裁いてくださるということは、本当にありがたいことであります。

 そうした上で、われわれを救ってくださるというのです。ただし、「火の中をくぐり抜けたように」というのです。火の中をくぐり抜けてくるのですから、無傷ではないのです、あるいは全身やけどだらけかもしれない、顔はすすでまっくろであるかもしれない、しかし救われるのだというのです。

 主イエスは、「もし右の目がお前をつまずかせるならば、えぐり出して捨ててしまえ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである。もし、右の手がお前をつまずかせるならば、切り取ってすててしまいなさい、体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである」といわれました。
 そうしますと、救われて天国にわれわれがいったときに、そこは全身やけどだらけの人、すすでまっくらになった人、自分の罪と悪戦苦闘して片目をえぐりだし、片手を切り捨てた人ばかりが集まっているところかもしれないと、変な想像をして楽しくなるのであります。

 そしてそのあと、パウロは大変厳しいことをいうのであります。一八節からです。「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。神の神殿を破壊する者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」といいます。
 ここでは、「神の神殿を破壊する者は、滅ぼされる」とはっきりといわれているのであります。この句と、前の句「火のなかをくぐり抜けてきた者のように救われる」ということと、どう違うのでしょうか。

 火の中をくぐり抜けてきて救われるといわれている人は、まがりなりにも一生懸命キリストに仕えようとして生きたひとであります。イエス・キリストという土台の上に、教会を建てようとした人であります。イエス・キリストを信じて懸命に生きようとした人であります。しかしそうしながらも、自我がでてきて、正しくキリストを証できなかったかもしれない、自分の欲に負けて失敗をしたかもしれない。しかしいずれにせよ、なんとかしてキリストを信じて、キリストに仕えようとしたひとであります。そして失敗をした、自分の弱さに負けて失敗をした、そのために最後の日に公平な神の裁きの前に立たされるのです。しかしその時、火の中をくぐり抜けてきたようにして救われるのです、赦されるのです。

 それに対して、神の神殿を破壊する者は、真っ向から神の救いのわざをあざ笑い、神の恵みを信じようとしないで、それを無視し、それに挑戦する人であります。そういう人に対しては、神はその人を滅ぼすというのであります。

 主イエスが、「すべての罪は赦される、しかし聖霊を汚す罪は赦されることはない」といわれた言葉を思い出します。聖霊とは神の恵みの霊であります、罪の赦しの霊であります、われわれを救おうとする神の霊であります、その神のみこころをあざ笑い、その神の愛に挑戦するものを神も赦すことはできないということであります。
 
 あれほど、無条件の神の救いについて述べるパウロは、しばしばこのようにして神の裁きについて述べるのは、矛盾でしょうか。それは決して矛盾ではないと思います。神はわれわれの罪に対して本気になって叱り、いや、真っ向から怒る、そういう神だからこそ、われわれはその救いの確かさとありがさがわかるというものではいないでしょうか。神が本気になって裁いてくださるからこそ、われわれは自分で先取りして自分で自分を裁く必要もないし、また他人の裁きにも恐れないでいることができるし、罪を犯すのではないかと戦々恐々として生きる必要もないということであります。

 あやまちを犯したら、いや罪を犯したら、神が公平に正しく裁いてくださる、だからわれわれは安心して、大胆に生きることができるのであります。

われわれは神の裁きにすべてを委ねることができる、そうして火の中をくぐってきた者のようにして救われるのだと信じることができるのはなんとありがたいことか。