「 祝福 」 コリントU 一三章一一ー一三節

 パウロはこの手紙を終えるに当たって、こういいます。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」
最後に、というのですから、これは一番大切なこととしてどうしても言っておきたいことがあるということでもあります。パウロはその信仰生活において一番いっておきたいこととして、まず「喜びなさい」というのです。喜びなさいという限りは、現に喜んでいない人、喜べる状況にいない人に対する勧告だと思います。

 だいたい、喜びというのは、普通は自然にわき上がってくるものが喜びであり、喜びなさいというように、命令したり、勧告したりできるものではないと思いますが、パウロはときどきそのことを勧告します。フィリピの信徒への手紙では、「主にあって喜びなさい」といいます。

 これはいつもニコニコしていなさいというような勧告ではないと思います。人間の状況、なによりも自分のおかれている状況からすれば、決して喜べる状況ではない、しかしその中で「主にあって喜びなさい」ということであります。つまり、これは悲しみをふっきって、喜べということであります。そんなことがてきるかといわれそうですが、それが「主にあって」ということだろうと思います。

 主イエスが、「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人をみくだしている人々に対して」、話されたという話しがあります。ファリサイ派の人と徴税人が神殿の前で祈ったという話しであります。ファリサイ派の人は自分のしていることを列挙して堂々と神の前に顔をあげて祈った。しかし徴税人のほうは遠くにたち、目を天にあげようともしないで、胸をうちながら、言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と祈った。そういう話しをしてイエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ派の人ではない」といわれたのであります。

 われわれこの話しを聞いて、うっかりすると、真のクリスチャンの姿は、この徴税人のように自分の罪を知ってうなだれている姿が一番正しい姿だと思いがちですけれど、決してそうではないと思います。大事なことは、「義とされて」つまり、「罪赦されて」家に帰っていく徴税人の姿こそ、真のクリスチャンの姿であります。もうこの時には、うなだれているのではなく、頭を神にあげて、喜びにみちて家路につく徴税人であります。そうでなければ、それはクリスチャンとは言えないと思います。

 主イエスによって「あなたの罪は赦された」、そう宣言されながら、いやいや、わたしの罪はあまりにも大きいので、といって、依然としてうなだれているのでは、神の恵み、イエスの十字架による罪の赦しを信じていないということで、どんなに自分の罪に深刻ぶったところで、それは信仰者の姿ではないということであります。
 パウロが「喜びなさい」という時、それは「主にあって喜びなさい」ということであります。

 そしてそれは最後の祝祷の言葉につながっていくのであります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同にあるように」という祝福の祈りであります。

 これがわれわれが行う礼拝の一番最後に行う祝祷の祈りであります。礼拝はこの祝祷がないと、本当は礼拝にならないのです、礼拝は終われないのです。

 ときどき葬儀のときに、葬儀の式文の式次第で、これを「祝祷」と印刷されないで、「終祷」と印刷される場合があります。それは恐らく、葬儀の場合にはクリスチャンでない人が大勢出席しますから、特に遺族がクリスチャンでない場合には、人が死んでおいて、祝祷というのはおかしいではないか、なにか死んだことがおめだいことだと誤解されるのを避けて、「終祷」にしたのだと思いますけれど
、確かにその配慮はよくわかりますけれど、ここはやはり「祝祷」でなくてはならないと思います。葬儀という悲しい状況の中でこそ、神からの祝祷を必要とするのだと思います。

 われわれはそういう意味で、この神からの祝福ということを一番大切なこととして、信仰生活の一番大事なこととして考えているだろうか。日曜日の礼拝でも、いろいろな事情があって、説教に間に合わない、だからもう礼拝にでるのは諦めようという人が普通だと思いますけれど、しかし礼拝というのは、大事なのは、最後の祝祷なのであって、説教には間に合わなくても、最後の祝祷に間に合うのならば、どんなに遅れても礼拝に出ようという姿勢が大事なのだ、それが普通の集会と聖日礼拝の違いであると、ある人が言っておりますが、われわれはそれほどにこの祝祷ということを自分達の信仰生活の大事なこととして受け止めているだろうか。

 ある教会のことですけれど、それまで牧会してきた牧師が年をとったために隠退した、礼拝の最後の祝祷は、その隠退した老牧師がすることになったら、みんなは若い牧師の説教よりもその老牧師の祝祷のほうをありがたがったということであります。この話しはそんなふうに牧師を崇拝しだすと弊害が起こると思いますが、しかしなんとなくわかる気持も致します。
 ある意味では、若い牧師の難しい説教よりも、長い間その教会に仕えてきた老牧師の祝祷のほうが有難味があるというのは、信徒の正しい心情かもしれません。

 聖書には、特に旧約聖書をみますと、祝福というものがどんなに大事なものとして考えられているかということがわかります。たとえば、申命記の最後は、お前達の前に、祝福と呪いをおく、この神が与える律法を守るものは祝福され、守らない者は呪われる、お前達はどちらを選ぶかと迫っております。

 あのエサウとヤコブの話も長子の祝福をめぐっての話であります。エサウは長子でありましたが、ある時狩りに出てお腹を空かして帰ってきたときに、弟のヤコブがおいしそうな赤い豆を煮ているのみて、その豆をくれと弟にいいますと、弟のヤコブは「お兄さんの長子の権利を譲ってくれたら、あげる」というのです。そうしたら、エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」といって、一腕の豆と長子の権利、つまりこれは長子の遺産です、財産です、それを交換してしまうのであります。

 後にヤコブは母にそそのかされて、もう痴呆が進んでいる父イサクを騙して、兄になりすまして、父から長子の祝福を奪いとってしまいます。そのあと、狩りから帰ってきたエサウがご馳走を作って父のところにもってきて、「長子の祝福をしてください」といいますと、父イサクはその時に始めて、ヤコブにだまされたことを知るのです。ことの成り行きを知ったエサウは、悲痛な叫びをあげ、激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん、わたしも、このわたしも祝福してください」と訴えます。しかし父イサクは耄碌しているとは、「だめだ、たとえだまされたとはいえ、一度祝福したものを取り消すことはできない」というのです。祝福というのは、神の前で、神の名前でするものだからであります。イサクはさらに悲痛な叫びをあげて、「お父さん、祝福はただ一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん」とエサウは声をあげて泣いたというのです。

 とうとうエサウは長子としての祝福を失ってしまったという物語です。そのために彼は弟ヤコブを殺そうと決意するのです。

 エサウは長子の権利、つまりこれは遺産相続ですね、この遺産なんか今のお腹を満たすためならば、平気で売り渡すことをしたのです。しかし長子の祝福だけはどうしても欲しかった。泣いて叫んで、父に訴えた。「祝福はただ一つなのですか」。そして自分から長子の祝福を奪った弟ヤコブを殺そうと決意するのです。
それほどに、祝福というものは彼にとっては重みのあるものだったのです。

 しかしわれわれはどうでしょうか。神の祝福というものをそれほど重大なものとして考えているでしょうか。長子の祝福よりも、長子の権利、長子としての遺産相続財産のほうがよほど大事だと思っていないか。われわれはあの世俗の代表としてしばしばあげられるエサウよりも、実はもっと世俗的な人間だということなのではないか。

 われわれが神様に求めているものは、神様の祝福なんかよりは、神がどれだけ具体的に恵みを与えてくれるかということ、いきなり金銭的なことではないかもしれません、健康であるとか、あるいは、自分の性格が強くなるとか、家庭の平和とか、われわれが本当に求めなくてならないものは、神の祝福なのに、そんなものは本当はどうでもいいのだと考えてしまっていないか。

 あのヤコブ物語の不思議なところは、ヤコブは果たして長子の権利、遺産相続を得たのかということなんかは、その後一つも記されていないのです。しかしヤコブが神の祝福を得たということは、そのことについては最後まで述べるのであります。それはどういう祝福だったか。

 ヤコブが兄エサウから憎まれて殺されそうになって、故郷を逃亡して、ひとり寂しく荒野をさまよっていったとき、日が暮れて石を枕にして眠っていたときに、夢を見た。天からはしごで下りてきて、そこを天の使いが登ったり降りたりしている夢をみた。そして主なる神がヤコブの傍らに立つのであります。わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地をあなたとあなたの子孫に与える。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行こうともわたしはあなたを守る。必ずこの土地に連れて帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで、決して見捨てない」というのであります。

 今ヤコブが横たわっている土地をヤコブとその子孫に与える、という約束、これが長子の権利を与えられることであるかもしれませんが、しかし聖書は具体的にはそのことにふれないのです。ヤコブは最後は息子がいるヨセフのエジプトで死ぬのです。ただヤコブは死ぬ前にヨセフにこういいます。「わたしが死んだら、エジプトで葬らないでくれ、必ず、先祖たちの墓に葬ってくれ」と頼むのであります。

 ヤコブの得た長子の権利としての財産は、結局は自分の死体を葬る墓だけだったのかもしれません。それはちょうどアブラハムが生きている時に所有した土地が、自分の妻サラを葬るためにお金を出して購入したマクペラの洞穴のお墓だけだったということと似ています。

 しかしヤコブは、「お前ががどこにいこうが、決してわたしは、神はお前を見捨てない」という約束で最後まで守られるのであります。
 ヤコブが長い逃亡生活を終えてもう仕方なく自分を殺そうと待ちかまえているかもしれない兄エサウのところに帰ろうとしますけれど、その途中のヤボクの渡しのところで、やはりひとり眠ろうとしているときに、神の使いがあらわれて、ヤコブと格闘した。その神の使いはヤコブに負けそうになったので、ヤコブの腿の関節をはずして、夜が明ける前に去ろうとするのです。するとヤコブは「あなたがわたしを祝福してくださるまでは、あなたを去らせません。どうかわたしを祝福してください」といって離そうとしなかったというのです。それで神の使いは、「お前はなんとい名前か」と聞きます。すると彼は「わたしはヤコブです」と答えます。ヤコブという名前には、「押しのける者」という意味があるといわれております。今までヤコブは人を押しのけて自分の人生を歩んできたのです。

 すると神の使いは、「お前はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと名前を付けなさい。お前は神と人と闘って勝ったからだ」といいます。イスラエルというのは、「神が支配したもう」という意味であります。

 そしてヤコブは「あなたお名前はなんですか」と聞きますと、天の使いは「なぜ名前を聞こうとするのか」と言って、それをしりぞけて、ヤコブをその場で祝福したというのです。ヤコブは「わたしは顔と顔を合わせて神を見たが、なお生きている」といって、その場所をペヌエル、神の顔という名付けたというのであります。

 ヤコブが最後まで執拗に求めたのは、神の祝福だったということであります。そして彼はそれを与えられた。そしてイスラエル、神が支配しておられる、そういう名前に変えられて、あの自己主張の激しい名前をもったヤコブから、神が支配しておられる、そういう名前に変えられて、祝福を受けるのであります。

 神の祝福を受けるということは、神がどんなときにもこの私をお見捨てにならないという約束を受けるということであります。どこに行こうが、どんなに罪を犯してしまおうが、神はわたしを見捨てないという約束を信じることができるということであります。なぜなら、わたしの人生は神が支配しておられるということを信じていく人生に変えられるということだからでりあます。

 パウロの祝福の言葉に帰りますと、まず「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同にあるように」と祝福します。

 なぜ、神の愛がはじめにこないで、主イエス・キリストの恵みがはじめにくるのかということであります。それは神の愛というのは、なによりも、主イエス・キリストがわれわれに示してくださった、あの十字架の恵み、罪の赦しにおいて示された十字架の恵みから、知ろうとしないと、ただ自分にとって都合のいい神の愛になってしまうということから来ていると思います。

 このことでわたしがいつも考えることは、自分の牧師としての姿勢を正されるのは、ヨシュアが神から与えられた祝福であります。エジプトを出て、いよいよ約束の地、カナンに入るにあたって、それまでの強力な指導者であったモーセは死んでしまい、若いヨセフに指導者が交代するのであります。

 そのとき、神はヨセフを祝福した。「一生の間、あなたの行く手に立ちふさがる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ」といって祝福するのであります。

 そのように祝福されたヨシュアがいよいよヨルダン川を渡ってこれからカナンに入るに当たって、これからそこに住んでいる住民と闘わなくてはならないと緊張していたときに、突然抜き身の剣を手にした一人の男が立ちふさがった。ヨシュアが歩み寄って「あなたはわたしの味方か、敵か」と問うのです。すると彼は「いや、わたしは主の軍の将軍である」と答えます。それでヨシュアは「わが主は、このしもべに何を告げられるのですか」と尋ねますと、主の軍の将軍は「お前の足から靴を脱げ。お前の立っている場所は聖なる所である」と告げるのであります。

 この記事は、神がわれわれと共にいる、神がわれわれの味方である、ということよく示している記事だと思うのです。神がわたしと共にいるということ、神がわたしの味方であるということは、神が決してわたしのいいなりになってくれることではないということです。

 神はヨシュアに「どんなことがあってもわたしはお前を見捨てない、お前の味方だ」と告げているのです。それならば、抜き身をもった神の使いがヨシュアから「あなたはわたしの味方か、わたしの敵か」と問われたときに、ただちに「わたしはお前の味方として来たのだ」といってもよさそうなのに、そうはいわないで、「いや」というのです。「そうではない」と答えるのです。「わたしはお前の味方でも敵でもない。わたしは主の将軍として来たのだ。お前はまず聖なる神の前にひれ伏せ」といわれるのです。

 神がわれわれの味方である、神がわれわれと共にいる、ということは、神がわれわれの前に聖なるかたとして立ってくださり、そのようにわれわれの罪を明らかにし、そしてわれわれの罪を赦し、われわれの味方になってくだるというかたなのであるということなのです。

 ちょうどあのヤコブが神と格闘したあと、腿のつがいがはずされ、足を引きずっていたということであります。
 神の愛は決してわれわれのいいなりなるような甘い愛ではないということであります。

 まず主イエス・キリストのあの十字架の恵みから、神の愛をうけとらないと、それは神の祝福にはならないのであります。そしてその神の愛が聖霊として弱いわたしたちを絶えずとりなしてくださるというのが、「聖霊の交わり」という祝福であります。

 最後にいっておきたいことがあります。それはこの祝祷の言葉は「あなたがた一同と共にありますように」となっている、というのに、わたしが祝祷するときには、「われらと共にあるように」といって祝祷しているということなのです。今度わたしのあとに来る牧師は恐らく、「あたなかだ一同にあるように」と祝祷すると思うので、あえて、このことで述べておきたいのですが、この手紙にありますように、「あなたがた一同と共にありますように」という祝祷のほうが正しと思います。ここでは神に代わって祝祷しているからであります。

 なぜわたしは「われら共にあるように」と言う言葉で祝祷しているかということなのですが、どうしてかなと自分でも不思議に思って先日このことを考えて、もしかすると、これは自分の母教会の牧師がそのように祝祷していたので、自分もそれを踏襲しているのではないかと思って、問い合わせてみたのです。そうしたらやはりそうでした。

 わたしの母教会は用賀教会で、橋本ナホという婦人牧師が開拓した教会です。今でも婦人牧師というのは少ないですが、当時はもっと少なかったと思います。そしてその婦人牧師を育てのが渡辺善太という大変偉い神学者です。日本基督教女子専門学校の校長をなさって、婦人教職を育てたのです。

 渡辺善太がその神学校の卒業式の時だったか、卒業のときに、婦人教職になる人を集めてこういったというのです。まだ日本の教会の現状では婦人牧師の地位は低い、だから最後の祝祷をするときには、「汝ら一同と共にあるように」と言ったら、きっと反発されるだろう、だから「われら一同と共にあるように」と祝祷したほうがいいといわれたというのです。それを聞いて橋本先生は、しばらく考えてから、それを受け入れて、「われらと共にあるように」と祝祷したということであります。

 「しばらく考えて」と言うところが橋本先生らしいところなのですが、それは婦人の地位が低いといわれたので、それに反発して、だからこうしろといわれるのがしゃくだったからだと思うのですが、しばらく考えて、そうした自分が女だからというのではなく、やはり自分は教会員、信徒と同じ位置に立とう、牧師として上から祝福するのではなく、同じ位置に立とうとして、「われらと共に」と祝福するようになったということであります。

 わたしもそれを受け入れて、「われらと共にあるように」と祝祷しているのであります。神の祝福が自分自身の体を通して、まず牧師である自分が神の祝福を受けて、それを皆様におわけする、そういう感覚でこの祝祷をしてきたのだということを分かっていただきたいと思うです。