「破られた契約」 エレミヤ書十一章一ー ヘブル人への手紙一○章五ー一四節

 預言者エレミヤは、主なる神から「この契約の言葉を聞け」といわれ、そして「ユダの町々とエルサレムの通りで、これらの言葉をすべて呼ばわって言え、。この契約の言葉を聞き、これを行え。わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らを厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言って来た」と言われるのです。

 契約の言葉とは、律法の言葉であります。イスラエル民族がエジプトから出て、荒野をさまよっていた時に、モーセが主なる神から十戒を中心とした律法を与えられて、これから新しい約束の地カナンに住むようになったら、これらの律法を守れ、そうしたら、神はお前達を祝福する、守らなければ呪うと言われて、われわれはそれに従いますと、イスラエルの民が主なる神と契約をしたという律法であります。

 先週にもふれましたが、南ユダの王ヨシヤはこの律法の巻物を城壁から発見して、再び、この律法による宗教改革をして、人々を偶像礼拝から守ったのであります。預言者エレミヤも初めはそのヨシヤ王による律法による改革に賛同し、期待していたようであります。しかしヨシヤ王が死にますと、たちまちこの律法による改革はやはり上からの改革で、形骸化していくのをエレミヤは知って、律法というものにあまり信頼を置かなくなっていくのであります。

 あとで出てまいりますけれど、エレミヤは人々にこう言うときが来ます。
 「主なる神がこういわれる。わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、この新しい契約はかつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導きだした時に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った。しかし、来たるべき日にわたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というのであります。

 文字に書かれた律法は、どうしてもそれは形骸化して、ただの字ずらを守れれば事足りとして、律法主義に陥る、だから、主なる神はわれわれひとりひとりの心にその律法を記すといわれる、そういう時がくるというのです。

 それにしても、ここでエレミヤは契約の言葉を守れ、つまり律法を守れと言っておりますが、われわれはすでに八章八節で、律法などは、書記が偽りの筆をもって書いたものだ、そんなものをもって「われわれは主の律法をもっている」と威張るな、安心するなというエレミヤの言葉を聞いたばかりであります。それなのに、ここでは、律法を守れ、契約の言葉を守れ、とエレミヤが民にいうのはどうしたことかと疑問に思えます。これは時間的なずれ、ここに言われていることが時間的には先で、八章にいわれていることは、後なのだと考えれば、理屈は合いますが、それはその通りかもしれませんが、しかしそれにしても、ある時には、律法を守れ、といいながら、ある時には、そんな律法は偽りの書記が偽って書いたものだといわれてしまったら、支離滅裂になってしまい、預言者エレミヤについていけなくなるのではないかと思います。

 八章の時にもいいましたが、預言者エレミヤが批判している律法は、いわゆる倫理律法ではなく、祭儀律法、つまり供え物に関する細かい規定のことだと考えたらいいと思います。律法の中心は、主なる神を心をつくし、思いを尽くして愛するということですが、その律法は大別すると、倫理的な律法、つまり隣人を愛しなさいという戒め、もう少しエレミヤの言葉でいうと、七章でいわれている律法、「お前達の道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、」といわれている倫理の律法と、祭儀律法と二つに分けることができます。

 エレミヤが批判しているのは、その祭儀律法、つまりどのようなものを神に供えたらいいか、その供え方はどのようにしたらいいかということが細かく規定されている律法、それをエレミヤは批判したのではないかと考えたらいいと思います。
 七章の二一節ではエレミヤはこういうのであります。「イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。お前達の焼き尽くす捧げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。わたしはお前達の先祖をエジプトの地から導き出した時に、わたしは焼き尽くす捧げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」と大胆に述べているのであります。

 それは少し大胆すぎる発言であります。イスラエルにとって、神に犠牲の供え物を捧げるということは、大事なことだった筈であります。その時人々は自分の罪を心から悔い、自分の身代わりに傷のない子羊を捧げ、しかし、その時に、こんなことで自分の罪が赦されるとは到底思えません、しかしせめての悔い改めの徴としてこの犠牲の供え物を捧げますと捧げた筈であります。その動物の供え物を捧げるときに、自分の砕けた魂を捧げた筈なのです。「せめて」この傷のない子羊を自分の身代わりとして捧げますと、うち砕かれた魂を神に捧げた筈なのです。

 しかしひとたび、それが儀式になってしまいますと、逆転してしまうのです。この供え物さえ捧げておけば、どんなに罪を犯しても赦されるのだ思うようになってしまったのであります。

 そういうことを受けて、預言者エレミヤは、主なる神はそんな供え物を欲しいと言ったことは一度もない、そんな供え物をしろと命じたこともないという発言になったのであります。

供え物を捧げてさえいれば、それさえすれば、われわれの罪は赦される、救われるという祭儀律法が律法の中で重要度をましてきますと、いつのまにか、律法のなかでの倫理的な律法というのは、ないがしろになっていくのであります。倫理的な律法というのは、われわれの心の姿勢が問われます、そしてそれに伴う行動が問われます。
 それに対して祭儀的なものは、形さえ整っていれば、もうそれで義務は果たせるようになるのであります。安心してましうのであります。

 そしてその祭儀律法は異教の偶像礼拝とすぐ結びつくのであります。異教の偶像礼拝もすべて供え物の礼拝であります。十一章の一三節からみますと、「ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らか香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。ユダよ、お前の町々の数ほど神々があり、お前達はエルサレムの通りの数ほど、恥ずべきものへの祭壇とバアルに香をたくための祭壇を授けた」とありますように、異教の宗教、礼拝は、香をたくということが中心なのであります。

 ですから、律法の中で祭儀律法、動物を屠って捧げものをするということが重要視されますと、それは容易に異教の礼拝を取り入れることができるようになりまます。

 十一章の一五節をみますと、「わたしの家で、わたしの愛する者はどうなかったのか。多くの者が悪巧みを行い、捧げものの肉を彼女から取り上げている」と言われております。祭司達が人々の供える捧げ物の肉を喜んで受け取っているというのであります。

 儀式というものの危うさであります。われわれのプロテスタント教会は、当時の教会の儀式中心の礼拝から、説教を中心とする礼拝へと改革をしたのであります。そして儀式のなかでは、主イエスが命じられた洗礼式と、主の晩餐の儀式、聖餐式だけを残しました。この二つだけは、主イエスがそうしなさいと命じられたことなので、われわれプロテスタントは、この二つだけをサクラメント、さまり聖礼典として残したのであります。

 しかし、聖餐式もまた一つの儀式ですから、これはうっかりすると、一種のおまじない、迷信的なものになる危険というのはいつでもあることをわれわれは知っておかなくてはならないことであります。この聖餐式について宗教改革者が強調したことは、聖餐式はいつでも説教が語られるところでなされなければならないということでした。つまり説教は見えない言葉であるのに対して、聖餐式は見える言葉なのだ、この見える言葉としての聖餐式はいつも見えない言葉に支えられて始めて見える言葉の意味をもつのだと言っているのであります。

ですから聖餐式というのは、いつも教会の礼拝のなかで、み言葉と共に、み言葉が語られるなかで行われなければならない、そうでないと聖餐式もまたおまじないにようになり、迷信化し、偶像化されてしまうということであります。最近、われわれプロテスタントの教会でも、聖餐式を重視しようという動きがあります。西南支区の元旦礼拝に参加しますと、それぞれの教会の聖餐式にあずかる経験をいたしますが、ある教会の礼拝では、聖餐式の配餐をする人がみな白い手袋をはめてうやうやしくやるのを見て驚きました。そうしたことはなにかカトリック的なものへの逆行ではないかとわたしは危惧いたしました。聖餐式というものをあまり儀式化する、神々しくやるというのはどうだろうかと思います。そうした事が聖餐式を重んじたということになるのか。

 確かに説教というものも限界があります。限界というよりは、あまり説教だけが強調されますと、説教というのは、どうしても牧師の主観といものが入り込む危険があります、人間の理屈とか、人間の論理とか人間の理性だけが重要視されるという危険があります。説教で人を救うなんてことはできないのです。人を救うのは、イエス・キリストの十字架によるあがないだけであります。説教だけを重視しますと、頭だけの信仰になりかねないし、人間の思想によって救われるんだという誤解を与えかねないのです。人間の思想を超えた、もっと確かなもの、もっと客観的なもの、それが聖餐式であります。聖餐式という見える言葉、牧師の思想とか人格とか主観というものに左右されない客観的な儀式というものによって、主イエスの十字架のあがないによってわれわれ救われのだということが指し示されるのであります。
 
ですから、死の床にある人にとっては、もう説教も聞けない状態にいる、そういう病人にとっては、どんな説教よりも聖餐式にあずか ることのほうがありがたい、十字架のあがないによる救いにあずかれるということはあると思います。しかしそれはその人がそれまでに説教を通して、聖書の言葉にふれているからであります。聖餐式はおまじないではないのです。

 ヘブル人への手紙では、キリストという大祭司がただ一度だけ、ご自分を十字架の上であがないの供え物として捧げてくださって、われわれを完全に救ってくださったのだ、だからこの地上のすべの祭儀は廃止されたのだというのであります。

 預言者エレミヤは、このことを預言したのであります。そのためにエレミヤは自分の故郷であるアナトトの人々から迫害を受けました。十一章二一節。
アナトトの人々はエレミヤの命をねらい、「主の名によって預言するな、われわれの手にかかって死にたくなければ」と言われたというのです。エレミヤはアナトトの祭司の子供として成長したのです。エレミヤ書の冒頭の言葉は、「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった」と記されております。祭司の子として生まれ、育てられたエレミヤが祭司の仕事を根底から批判し出したのですから、彼は故郷の人々の怒りをかい、その命までもねらわれたのであります。
 
 そのために、エレミヤは弱音を吐きます。十一章一八節からみます。
「主が知らせてくださったので、わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。わたしは飼い慣らされた小羊が屠り場に引かれていくように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪巧みをしていた。『木をその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。彼の名が、再び口にされることはない。』」、故郷のアナトトの人々が自分の命を絶とうとしている事を知ったというのです。
 
そのとき、エレミヤはどうしたか。イエスのように、どうぞ彼らを赦してくださいと神に祈ったのか。神に遣わされた預言者なら、そのくらいの祈りをするだろうとわれわれは思うかもしれませんが、彼はこう神に訴えたのであります。「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め、正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたにうち明け、お任せします」。
 
エレミヤという人がどんなに正直な人だったか。神はわれわれの心だけでなく、われわれのはらわたまで究められるかたなのですから、われわれの心の中に思っていることはすべてお見通しなのですから、口先でどうか「彼らをお許しください」と祈ってもなんにもならないのです。無実の罪で迫害にあったならば、彼らを殺してくれと祈りたくなるのがわれわれ人間であります。
 
こうした復讐を求める祈りは、詩篇を読んでいけば、いくらでも出てまいります。
 そういう弱音を吐くエレミヤに対して、神もまたこう答えます。二二節です。「見よ、私は彼らに罰をくだす。若者らは剣の餌食になり、息子、娘らは、飢えて死ぬ。ひりも生きる者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ」。
 
神は弱音を吐いて復讐を求めるエレミヤをここでは叱らないのです。もう弱り切っているエレミヤに、わたしが復讐してあげるから、と言って慰めるのであります。慰めるという言葉がおかしければ、少なくも励ましている。しかしこの後、そういう弱音を吐くエレミヤを神が厳しく叱りつけるところも出てきます。たとえば、この次学ぶところですが、一二章の五節をみますと、こうエレミヤは神から言われます。「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるならば、どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか」といわれてしまいます。お前はこれからもっともっともっと厳しい迫害に会うのに、こんなことで弱音を吐いていいのかといわれて、叱られているのであります。
 
神はわれわれ人間の状況に応じて、ある時はそのままわれわれの訴えを、われわれぐちを聞いてくださり、それに答えてくださり、またある時にはわれわれの弱さをしかりつけてくださるのです。だからわれわれは安心して正直に神に祈り、訴えることができるのであります。
 
大切なことは、復讐を直接、自分の敵に、敵と思われる相手にするのではなく、復讐したいという思いを神に訴えるということです。神に訴えることができるということです。
 
パウロもフィリピの手紙でこう言っております。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神にうち明けなさい」と言っております。時には、「感謝を込めて」ではなく、「恨みを込めて」になるかもしれませんが、それでも「求めているものを神にうち明ける」ことが大切であります。
 
われわれにとって、復讐の祈りを捧げるかたがおられるということはどんなに心強いかということであります。
 エレミヤは「わたしに見せてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたにうち明け、お任せします」と、いうのです。神に正直にうちあけ、そして最後には神にお任せしたのであります。そうしてその時に、パウロがいうように、「あらゆる人知を超える神の平安があなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守って」いただけるのではないでしょうか。