「神の悲しみ」 エレミヤ書一二章一ー九節
ローマの信徒への手紙三章二一ー

 預言者エレミヤは、「正しいのはあなたです。それでも、わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は、安穏に過ごしているのですか」と訴えております。

 これはエレミヤが自分の故郷で迫害にあって、今苦難の中にあるなかでの神への訴えであります。なぜ正しい者が苦しみ、不幸な目に遭い、それに反して、悪人、神に逆らう者の道は栄え、幸福なのかという問いは、神を信じる者にとっては切実な問いであります。もし神がいなければ、またその神を信じていなければ、こんな問いはでて来ないのです。またその神が正しい神であると思わなければ、このような問いは出てこないのです。

 神が正しい神で、その神を信じている時に、このような問いがでてくるのであります。正しい神がおられるのに、どうして義人は、正しい人は苦しまなくてはならないのか。
 三節には、「主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対する私の心を究められた筈です」と訴えております。つまり、エレミヤは自分は間違ったことはしていない、神からいわれたとおりに神の裁きの言葉を述べているだけなのに、自分は今このような苦難に立たされているという訴えであります。
 
 義人は、正しい人がなぜ苦しまなくてならないのかという問いは、旧約聖書にはよく出てくる問いであります。ヨブの訴えがそうであります。たとえば、ヨブ記の二一章にはこう問うております。
「なぜ、神に逆らう者が生きながらえ、年を重ねてなお、力を増し加えられるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を自分の目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない」と不満を述べるのであります。この問いの背後には、自分は今まで神に仕え、神を信じてきたのに、そして隣人にも仕えてきたのに、自分にはこのような災難がふりかかり苦しんでいるのにという思いがあるのです。

 自分が苦しんでいる、自分は悪いことはしていないのに、自分は正しいことをしてきたのに、苦しまなくてはならないということだけならば、まだ耐えられるかもしれないのです。自分は正しいことをしているのにこんな不幸な目に遭っている、それなのに悪いことをしている人間は幸福で安穏に過ごしている、その現実を見ると耐えられないということなのです。

 同じような問いは、コヘレトの言葉にもあります。七章に「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに、滅びることがあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう」。あるいは八章には「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う」。

 ヨブやエレミヤと同じようなことを言っておりますが、このコヘレトの言葉と預言者エレミヤやヨブの言葉とは決定的に違ったものがあります。それはエレミヤやヨブは今迫害を受け、苦難を受けている当事者として、神にこの問いを突きつけているのに対して、コヘレトという知恵者は、自分がそのような迫害にあっているわけでもなく、苦しみの中にいるわけでもなく、恐らく自分は安全地帯にいて、この世の中を傍観者的にみて、ああ、世の中は不公平だ、だから空しいと慨嘆しているだけだということであります。その結果、コヘレトがいうには、だから「善人すぎるな、賢すぎるな」ということになるのです。

人生はそんなものだから、ほどほどに生きたほうがいいよ、ということになる。あるいは、八章では、この世の不公平な有様を見て、「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間に取って飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」ということになるのであります。彼は神の存在は認めていても、神を信じてはいない、神と生き生きとした交わりの状態にはいないのであります。

 それに対して、エレミヤやヨブは、今苦難の中にいるのです。ヨブはすべての財産を奪われ、子どもも死なれて、自分自身重い皮膚病にとりつかれている。エレミヤは神からこの言葉を告げよと命ぜられて、そのまま神に従って神の言葉を述べているのに、迫害にあっているのです。今彼らがおかれている状況は、空しいとか、だからほどほどに生きようとか、だからこの世に生きている限りは、おもしろおかしく適当に快楽に生きようなどと、暢気なことは言っておられない状況なのです。

 ヨブもまたエレミヤも、自分たちは今不当な目に遭っている、一体この世に正義はあるのかと嘆きならがら、そして神の正しさを問いながら、「正しいのは、主よ、あなたです」と、神の正しさはいささかも疑っていないのです。神の正しさを絶対的に信じているからこそ、神に訴え、その訴えは神に対する祈りになるのです。
 
ヨブもエレミヤも神と論じようとしていますが、それは必然的に神に対する祈りなっていくのであります。
 われわれの祈りというものが、「正しいのは、主よ、あなたです」という大前提をなくして、祈ろうとする時に、それはいつかは単なるつぶやきになってしまい、やがてあきらめに終わるのではないでしょうか。

 われわれの祈りが「正しいのは、主よ、あなたです」という信仰をもって祈り続けていないならば、われわれの信仰は御利益信仰になってしまうのではないでしょうか。 

 エレミヤは、「わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい」とは言ってはおりますが、しかし実際は神と議論しようとするのではなく、神に訴え、神に祈っているのであります。

 それに対する神の答えはエレミヤにとっては思いがけないものであったかもしれません。五節からみます。「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか」というのがその答えだったのです。

 つまり、こんな事ぐらいで弱音を吐いていては、これから起こるもっと厳しい迫害がきた時に、お前はどうするのかというのです。六節には、「あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる」というのです。お前の故郷の人々だけがお前を迫害するのではなく、お前の家族もまたお前を忌み嫌うことが起こる、その時にお前は預言者としてどう立てるのかというのであります。

そして主なる神はさらにエレミヤの問いに答えようとします。それは七節からであります。
 「わたしはわたしの家を捨てわたしの嗣業を見放し、わたしの愛するものを敵の手に渡した。わたしの嗣業はわたしに対して森の中の獅子となり、わたしに向かってうなり声をあげる。わたしそれを憎む」。
 「わたしの嗣業」というのは、神が自ら神の民として選んだイスラエル民族のことであります。その自分が選んだ民、イスラエルの民が、ここでは具体的には南ユダのことですが、自分を捨てて、バアルという偶像礼拝に走っている。そのために今諸国から侵略を受けようとしている。自分が今愛する民から裏切られれている。こんな不条理なことがあるか、こんな理屈にあわないことがあるかと主なる神はエレミヤにいうのであります。それは今エレミヤが、お前が嘆いている不条理、正しい人が苦しみ、悪人が栄えているという不条理よりももっと理屈に合わないことではないかと主なる神はいうのであります。

 その自分を裏切っていくイスラエルの民を自分は今見捨てようとしている、裁かざるを得ないのだというのです。
 九節はその神ご自身の気持ちをあらわしております。「わたしの嗣業はわたしにとって、猛禽がその上を舞っているハイエナのねぐらなのだろうか。野の獣よ、集まって餌を襲え」。選民イスラエルが今諸国から襲われようとしている。なんと情けないことかと嘆きながら、一転して、野の獣よ、諸国民よ、イスラエルを襲ってしまえと、何かやけのように神がいうのであります。

 一四節から、主なる神はこういわれます。「わたしがわたしの民イスラエルに嗣がせる嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて彼らの地から抜き捨てる。また、ユダの家を彼らの間から抜き取る」といいます。この箇所はよくわかりにくいところであります。イスラエルの民を侵略する近隣の諸国を神は罰するといいながら、ユダの民も彼らの間から抜き取るということは何を言おうとしてるのか。「彼らの間から抜き取る」というのは、南ユダがバビロンによって自分の嗣業の地から抜き取られて、バビロンに捕囚されるということを意味しているように読めます。そうすると、神はイスラエルの民を侵略する近隣の諸国を最後には罰するとともに、またイスラエルの民であるユダも罰するということなのか。

 そしてそのあと、一五節からは、「わたしは彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」と約束するのであります。しかしその時、一七節をみますと、民が「もし彼らが従わなければ、わたしはその民を必ず抜き捨てて、滅ぼす」ともいいます。

 ここで主なる神が預言者エレミヤを通して言おうとしていることは、神はご自分の民、自分を裏切っていく選民を一度は裁く、具体的には、バビロンという国によって滅ぼされ、捕囚されるだろう、しかし、最後にはその選民を赦し、その選民性を回復するのということであります。

 神が最後に言おうとしていることは、赦すということなのです。ここでは、条件をつけて、「もし彼らが従わなければ滅ぼす、しかし、悔い改めたら赦す」と言っていて、悔い改めたらという条件をつけて、赦すとは言っておりますが、しかし、その最後的な響きはどんなことがあっても、主なる神は選民イスラエルを赦すということであります。

 それがパウロの言葉になると、こうなるのであります。ローマの信徒への手紙三章二五節からみます。「神はこのキリストを立てて、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しいかたであることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」ということになります。

 つまり、神は選民イスラエルの罪、それとりもなおさず、われわれの罪でありますが、神を裏切り続けるわれわれの罪であります。神はそのわれわれの罪に対して忍耐して忍耐して、今まで耐えてきた。その忍耐の堪忍袋の緒が切れて、神がなさることは何か。それはわれわれの罪を罰することにおいてではなく、なんとその忍耐の堪忍袋の緒が切れてほとばしるように流れてきたものが、赦しであったというのです。神はわれわれを罰する代わりに、ご自分のひとり子、イエス・キリストにすべての罪をあがなわせて、われわれの罪を赦すという愛において、神の正しさを示されたのだというのです。

 あのホセアという預言者が「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前達のうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」と言われたことが、ここで実現するのであります。わたしは人間ではなくて、神だから、聖なるものであるから、憐れむというのです、赦すといわれるのであります。

 七度を七十倍にするまで赦しなさいというイエス・キリストの言葉は全くわれわれの理屈にあわない論理であります。赦すということにおいて示される愛というものは、理屈とか人間の合理主義とか、理性とかを超えたところから生まれるものであります。

 正しい人がなぜ苦しまなくてはならないのかというエレミヤの問い、ヨブの問いは、結局は正しい神が苦しみ、悲しみを超えて、赦そうとしているという事実にぶつかるときに、キリストの十字架という事実にぶつかるときに、その問いはもう放棄せざるを得なくなるのではないでしょうか。

 この神の愛には、神の悲しみがあります。「わたしの嗣業はわたしに対して森の中の獅子となり、わたしに向かってうなり声をあげる、わたはそれを憎む」という神の思いのなかには、神の悲しみがあります。好きな人を愛するということにはただ喜びだけしかないかもしれませんが、しかし自分を裏切り、自分を傷つける者を赦すという愛には、悲しみがあります。この悲しみのない愛は本当は愛とはいえないのではないか。

 十字架につこうとしているイエス・キリストがゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と言われて、祈られことを思いだしたいのであります。それは人間の罪のために今父なる神から切り離されて、捨てられていく悲しみであります。それは神ご自身の悲しみでもあったのであります。