「その傲慢に泣く」エレミヤ書一三章 フィリピ書二章一ー十一節

 今日もエレミヤ書の説教をしたいと思います。エレミヤ書の説教に入る前に、今日はわれわれが今なぜエレミヤ書学ぶのかということ、それはつまりわれわれはなぜ旧約聖書を学ばなければならないのかということを考えたいと思います。われわれはイエス・キリストによって救われたのに、なぜ旧約聖書の説教を聞かなくてはならないのかという問題であります。

 旧約聖書を説教するときに、ときどきその問題にふれておかなくてはならないなと思いながら、今日はエレミヤ書の説教に入る前にその問題にふれておこうと思っておりましたときに、先日、ある新聞の夕刊の宗教欄に、カトリックの神父井上洋治という人が「キリスト教は旧約聖書から脱皮すべきだ」ということを書いている書物を出しているという記事が載っておりました。それは今行われているイラクにおける戦争がお互いにこれは聖戦だ、つまり神の正義のための戦争だ、お互いに神の名を使って戦争を起こしている、そうした背景のもとで、この問題はとりあげたようなのであります。井上洋治がいうには、イエスの教えには「聖戦」という言葉はない、聖戦などというのは、旧約聖書の思想で、キリスト教はもう旧約聖書から脱皮しなくてはならないとその本に書いているというのです。七十五才になって「これまではこわくていえなかったけれど、いうべきことを言えてスカッとしています」と語っているというのです。
 「こわくていえなかった」というのは、カトリック教会で旧約聖書はキリスト教の正典ではないなどといったら、破門される可能性があるからのようであります。
 
 カトリックのことはわかりませんが、これはわれわれにとっても大変重大な発言で、われわれは旧約聖書を含めて、現在の聖書をわれわれの信仰の正典として信じているわけで、そのためにこうして今、聖日礼拝で旧約聖書をとりあげているわけですので、われわれにとって旧約聖書はどういうものなのかということを一度ここで考えておかなくてはならないとあらためて思ったのであります。

 井上洋治の考えは、その新聞記事だけで判断するのは危険かもしれませんが、しかしその発言から考えますと、いかにも旧約聖書をよく読んでいない、実に浅薄にしか読んでいないと思わざるを得ないのであります。たとえば、その新聞記事にも載っておりましたが、旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」とあるが、新約聖書には「敵を愛せ」と教えている、といって、旧約聖書がいかに復讐というものを容認し、そこから聖戦の思想が導かれのだということのようですが、これなんかもいかに旧約聖書をよくよんでいないかということであります。

 イエスが、このことをいうのは、旧約聖書を否定するためにいうのではなく、旧約聖書の律法を自分は廃絶するために来たのではなく、成就するために来たのだと言う宣言のもとで、イエス・キリストはこれをとりあげているのであります。つまり律法には「目には目を、歯には歯を」という律法がある、しかし、その律法の本当にいいたいことを実現するためには、「敵をも愛する」ということをその律法はわれわれに示唆しているのだということなのです。その前のところでは、「殺すな」という律法は、ただ殺さなくければいいということではなく、「殺すな」ということは、「兄弟に対してばかだとか愚か者だと言うな」ということを言おうとしているのだというのです。つまり律法の文字だけを守ればそれで満足していればいいとうのではなく、律法の文字の背後にある神の意志を読みとらなくてはならない、「殺すな」という律法は「ケンカするな」ということまで言おうとしている、そこまで徹底して読まなくてはならないというのです。

 従って旧約聖書の律法にある「目には目を、歯には歯を」という律法はその文字づらだけをみたら、何か復讐を容認してる律法に見えるのですが、現に世間ではそう見ているわけですが、この「目には目を、歯には歯を」という言葉は、復讐をそそのかす言葉として世間では引用するのですが、これは決してそうではないのです。当時の社会では、復讐というのは、七倍にして復讐していいというのが社会通念だったのです、そういう背景のもとで、いや七倍に復讐していったら、もう復讐はエスカレートするだけだ、それを阻止するために復讐は一倍にとどめよ、つまり、片目をつぶされたら、相手の片目だを傷つけることにとどめよ、一本の歯を折られたら、一本だけの歯を傷つけるにとどめよ、と言う律法だったのです。つまり「目には目を、歯には歯を」という律法は復讐を容認するための律法ではなく、復讐をやめさせるための律法だったのです。

 ですから、イエスは、その神の意志をあらわすその律法を徹底させていけば、一倍の復讐に抑制するだけではだめで、敵をも愛する、つまり、もう復讐を断念する、そこまで徹底することが律法を成就することなのだとイエスはいわれたのであります。

 ですから、旧約聖書をよく読んでいけば、それはいわば新約聖書を生み出す深い思想を中にもっているわけです。よくいわれることですが、旧約聖書の神は正義の神で、それは裁く神で、怖い神さまで、新約聖書のイエス・キリストによって示された神は、愛の神だといわれますが、これも旧約聖書をよく読んでいない人の発言であります。

 現にわれわれが今学んでおりますエレミヤ書には、どんなに深い神の愛が示されているかわからないのであります。人間の罪に泣き悲しむ神の愛がやがてイエス・キリストの十字架へと導くのだとうことを学んできました。
 たしかに、旧約聖書には、その当時の時代的制約というものからどうしても逃れきれないものがあることは事実です。当時は戦争が悪だ、どんな戦争も悪だなどという思想はなかったでしょうから、それをそのまま現代の倫理感をもって批判するわけにはいなかいのです。聖書もやはり人間の手によって書かれているわけで、ということは、当時の社会通念というものから全くかけ離れたところで語られるわけにはいかないわけです。だからこそ人々の心に訴えのです。

 聖書は神の声がそのままストレートに下ってきて書かれたわけではありません、その当時の社会に生きていた人の思想とか考えを通して神の言葉が語られているわけですから、今日の倫理観をもってすべてを断罪するのは愚かであります。

 さて、今日考えておきたいことは、なぜわれわれは旧約聖書を学ぶかということであります。旧約聖書はいってみれば、選民イスラエルの滅亡の歴史だといってもいいのです。選民イスラエルが神によって裁かれていった歴史であります。なぜそのような一民族の歴史をわれわれは学ばなくてはならないのかということなのです。それがわれわれキリスト教信仰とどう関係するのかということであります。

 そもそも選民イスラエルとはなにかということであります。その問題に今日は簡単に触れておきたいと思います。創世記から旧約聖書は始まりますが、そこでは、神が人間を造られたという神話をもって始められております。その神話では、ただひとつの点を除いて自由になんでもしていいものとして人間が創造されたと伝えられております。つまり、善悪を知る木の実を食べてはいけないという、ただ一つの禁止以外は、すべてのことはゆるされるものして人間が創造されたということであります。善悪を知る木の実とは、人間が神のようになる知恵を得るという実であります。つまり、人間は神になるな、神のようになろうとするな、その一点だけを禁止されて、自由な人間として造られたというのであります。

 しかし造られた人間はそれを犯して神のようになろうとして善悪の木の実を食べてしまって、そこから人間の罪が始まったというのです。それはカインによるアベル殺害という罪を引き起こし、その罪は宇宙的に広がりをみせはじめたので、神はノアの一族だけを残し、世界を再創造しようとして大洪水を起こした。しかしそれでも人間の罪はやまなかった。ついに、人間は心を一つにして、天にまで達する高い塔、バベルの塔といわれる塔を建て始めて、人間は心を一つにして神になろうとした。それで神はその人間の言葉を乱し、さまざまの言葉に乱したのであります。

 そして神がお考えになったことは、人類全体を直接救うのではなく、一つの民族を起こして、その民族を通して全人類に神のみこころをつたえようとした、そして選んだのがアブラハムを父祖とするイスラエル民族なのであります。つまりそれはイスラエル民族だけを救うのではなく、イスラエル民族を通して全世界を救おうとする神のご計画なのであります。

 創世記の十二章にはこう記されております。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の基となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。

 ここはうっかり読みますと、アブラハムから始まるイスラエル民族が世界の中心になって、ちょうど今のカトリック教会の法王のような座に立って、すべての人を祝福するのだと考えるかもしれませんが、そうではないので、ここでは祝福したり、呪ったりするのは、イスラエル民族ではなく、神ご自身なのです。神が祝福し、神が呪うのです。どのようにしてか。それはこのイスラエル民族を祝福する者を神が祝福するという仕方なのだというのです。

 神が選んだイスラエル民族というのは、世界の中の民族のなかでもごくごく小さい数の少ないみすぼらしい民族だったというのです。決して優れた人々が集まっている民族ではなかったのです。ただ神が愛し、神がこの名もなき民族を選んだだけだというのです。ただ一点、神が愛し、神が選んだということで成り立つ民族だというのです。

 その小さな民族に対して、これが神に祝福されている民族なのだというその一つの理由だけで、この民族を祝福する、この民族を受け入れたら、神もまたその人々を祝福するということであります。
 これは後に主イエスが、あのみすぼらしい弱い弟子達のことを考えて、「わたしの弟子だと言う理由だけで、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを神から受ける」といわれたのと同じであります。
 
 イスラエル民族というのは、あのイエスの弟子と同じように、イエスの弟子だというただその一つの理由のゆえに、重んじられるべき存在と同じように、神に愛され、神に選ばれた民族として、全世界の中心に立ち、この民族にわれわれがどのように関わるかで、祝福を受けたり、呪いを受けたり、つまり救われるかどうかが決まる、ひとつの目印のような存在なのだということであります。

 イスラエル民族それ自体は、少しも偉くはなく、立派でもないということであります。その民族はただ神から離れない、神を信じていく、そのことによって成り立ち、そのことによって全世界に神を証していく使命をもった民族なのだということであります。
 ところがイスラエル民族は、自分が神によって選ばれているということを、自分たちが優秀だから、立派な民族だから、選ばれているのだと勘違いし始めた。自分たちを誇りだした。そしてやがて、自分たちを選んでくれた主なる神から離れ、自分達にとってもっと都合のいい神を神として選んで、その神々を拝みだしたのであります。神によって選ばれた民としてではなく、自分達が自由に神を選ぶことができる民なのだと思い始めたのです。

 そこからこの民族の堕落が始まった。ソロモン王が死ぬと、その王位継承をめぐって、北と南に分裂してしまったのであります。北イスラエルと南ユダという二つの国に分裂してしまうのであります。そして北イスラエルは西暦前七二四年、アッシリアという国よって滅ぼされてしまうのです。
 そして南ユダは後に五八七年、バビロンという国に滅ぼされてしまい、主だった人々はみなバビロンに捕囚として連れて行かれるのであります。
 北イスラエルのほうはアッシリアによって滅ぼされたあと、その首都サマリヤは周囲の民族の人々が移住してきて、そこでイスラエルの人々はその人々と結婚するようになりまして、いわば民族としての純粋性というものが失われていき、イスラエル民族としては、南ユダがかろうじて選民イスラエルとしての民族性を引き継ぐことになります。
 そのためにこれからはイスラエルのことをユダヤ民族ともいうようになるわけです。今日、ユダヤ人とイスラエル人とは同じことをさす言葉になるわけです。
 
 そして南ユダはバビロン捕囚から約五十年後、ペルシャの王クロスによって解放されて、エルサレムに帰還が許されて、バビロンによって破壊されたエルサレム神殿の再建にかかり、民族として生き残るのであります。

 それで彼らは本当の信仰に立ち返ったのかといいますと、彼らは以前のように他の異教の神々を拝むという偶像礼拝はすることはありませんでしたけれど、主なる神を拝んではいるのですけれど、それは後のパウロの言葉を借りれば、彼らは神を拝み、神に従順に従うのではなく、神に従うそぶりをみせながら、結局は自分の正しさのみを主張する人間になっていったのであります。つまり神を信じているようでいて、実は自分の正しさを信じ、自分の義を誇る民族になりはてていたのであります。
 彼らは神の名によって、神の義の名を借りて、自分の義を主張し、ひとを裁くことにおいて、自分達の信仰を証しする人間になってしまったのであります。
 それを裁き、それを救うために、神が派遣したのが、ご自分のひとり子、イエス・キリストなのであります。

 神が一つの民族を通して、全世界に神の御心を伝え、救おうとした。しかしそれは、失敗してしまった。それで神は今度はそのイスラエルの代わりに、もう選民であるイスラエルを捨てて、ご自分のひとり子イエス・キリストをと通して、全世界に神の御心を伝え、このイエス・キリストにどう関わるかによって救われるか、裁かれるという徴にしたのであります。つまり、民族としてのイスラエルという選民は捨てられ、今度はイエス・キリストを信じる教会が選民イスラエルの役割を担わされることになったのであります。

 つまり、旧約聖書の創世記にある一章から始まる十一章までの創造神話におけるアダムから始まるバベルの塔までの神話は、なぜ神はイスラエル民族を選ばれたのかという物語であるのに対して、創世記の十二章から始まるアブラハムから始まるイスラエル民族の歴史、それはキリスト教の立場から言えば、選民イスラエルの滅亡の歴史、堕落の歴史なのですが、それはなぜわれわれの救いのためにイエス・キリストがこの世に誕生しなくてはならなかったのかという歴史だったということなのです。つまり、旧約聖書全体がなぜイエス・キリストがこの世に人間の姿をとって生まれ、そして十字架で死に、そして神はその御子をよみがえらせたのかを語る歴史だったのということであります。

 ですから、われわれにとって旧約聖書というものがいかに大切かということなのです。

 さて、今われわれが学んでおりますエレミヤ書は、そのイスラエル民族の歴史のなかでどの時代の書物なのかといいますと、もうすでに北イスラエルはアッシリアによって滅亡し、そして今南ユダもバビロンという国に滅ぼされようとされている時代であります。その時に神から遣われたた預言者がエレミヤなのであります。
 エレミヤ自身はバビロンに捕囚の身としてつれていかれなかったようですが、人々に、今は神の裁きを受けて、バビロンに降伏しなさい、それが神の御心だと訴えた預言者なのであります。

 今日はエレミヤ書の一三章を学ぶつもりでしたが、時間がなくなりそうなので、この次ぎにくわしく学びたいと思いますが、少しだけ一三章にふれて置きたいと思います。
 一三章の一節からみますと、主なる神からエレミヤはこういわれるのです。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない」といわれ、エレミヤは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。するとしばらくすると、神から「お前はその腰の帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」と命じられて、その通りいたします。そして多くの日が経ってこれを取り出してこいといわれ、この帯をとりだしてみますと、もう腐って帯びとして全く役にたたなくてなっていたというのです。
 その時主なる神の言葉がエレミヤに迫った。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役にたたないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかりと着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と言われたというのであります。

 帯というのは、人の腰にしっかりと着いてこそ、帯としての存在意義と存在価値がある、役に立つ、それと同じようにイスラエル民族は主なる神にしっかりと、ぴったりと結ばれてこそ、その存在意義と、存在価値がある、それなのに、お前たちは離れていってしまったというのです。

 そして預言者エレミヤは、こういうのであります。「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ、闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山につまずかないうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れたところで、その傲慢に泣く。涙があふれ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられてゆくからだ。」

主なる神は、われわれが神から離れていくことを、われわれの傲慢だというのです。そして神はそのわれわれの傲慢に悲しむ、泣くというのであります。これが選民イスラエルの罪であり、そしてわれわれの罪なのであります。
 その傲慢なわれわれの罪を救うために神が派遣されたイエス・キリストはどのようにあゆまれたか。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になれた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順であったのでりあます。へりくだるということ、謙遜になるとのいうことは、主なる神に従順になることなのです。主なる神の腰にしっかりついて離れない帯になることなのであります。