「その傲慢に泣くーその二」エレミヤ書一三章一ー一七節 フィリピの信徒への手紙二章一ー

 主なる神は預言者エレミヤにこう言います。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水て洗ってはならない」。エレミヤはその通りにしますと、しばらく立って、こういわれます。「その帯をユーフラテスに行き、それを岩の裂け目に隠しておきなさい」。その通りにエレミヤは致します。そして多くの月日が経ったのちに、それを取りに行けといわれて、取りにいきますと、帯は腐ってしまって、全く役に立たないものになっていたというのです。

 エルサレムからバビロンのユーフラテスまでは、およそ、一○○○キロあるそうです。歩いて一○○日かかるそうです。そのような距離を二度わたって、往復するということは考えられないので、これはエレミヤの見た幻だろうと言われております。あるいは、近くの川でそうしたことをさせられたのかもしれません。
 
 その水に浸かって腐った帯を見せて、主なる神はこういわれるのであります。
主はこういわれる。「このようにわたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくななままにふるまっている。彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼は全く役に立たない帯のようになった。人が腰にしっかりと着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしようと思った。しかし、彼らは聞き従わなかった。」

帯というのは、腰に締められてこそ、その存在意義と存在価値があるものであります。役に立つのであります。それがその締められるべき腰から離れていては、水に浸かった帯のように、腐りはて、役に立たなくなるのであります。それは今の南ユダ、イスラエルの人々の状態とちょうど同じだというのです。彼らは主なる神を離れ、他の神々に従っているからだというのです。

 一七節からもエレミヤが神からこうしなさいといわれる記事なのですが、この記事はよくわからないのです。エレミヤは主なる神から「かめにぶどう酒をみたすべきだ」と人々に語れといわれ、そうしたらきっと人々からこう反論されるだろうというのです。「そんなことはわれわれはよく知っている。知らないとでもいうのか」と反発を食うだろうといわれるのです。

 ここでいわれている「かめ」と「ぶどう酒」が何を象徴しているのかよくわからないのです。これはぶどう酒を飲んで酔っぱらっている人々、恐らくエルサレムの指導者たちだろうと思われます、その酔っぱらっている人々に対して言われている言葉のようであります。

 ぶどう酒はかめに満たすべきだ、という言葉に対して酔っぱらいはそんなことをしらないとでもいうのかと反論しているのですが、この反論の意味がよくわからない。いろんな説明がされていますが、本来かめに満たすべきぶどう酒を彼らはいきなり自分の腹をかめにして酔っぱらってしまっているということなのかもしれません。
ただここうで言おうとしていることは、はっきりしています。イスラエルの民は本来は主なる神に従うべき筈なのに、彼らはその本来すべきことを知っておりながら、他の神々を拝んでいるということが裁かれているということのようです。

 そして、この二つの記事のあと、一五節からは、主なる神の言葉が述べられます。元来はこの一節から一四節からの記事と一五節からの主の言葉は別の時に告げられた言葉だろうともいわれていますが、しかしわれわれはこれがこのように編集された意図に即して、この二つの記事を受けての主なる神の言葉として読んでいいと思います。
「聞け、耳を傾けよ。高ぶってはならない。あなた達の神、主に栄光を帰せよ、闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れたところで、その傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ」というのです。

 ここで「わたしの目は涙を流す」という、「わたし」が誰のことなのか。預言者エレミヤのことなのか、主なる神のことなのか区別がつないのですが、神が泣くなんてことはおかしいし、また神が隠れたところで、その傲慢に泣く、つまり神様が「隠れたとこで泣く」などというのは、おかしいですから、ここはやはり預言者エレミヤのことなのかもしれません。しかしそうだとしても、これはエレミヤが主なる神の思いを思ってのことであることはあきらかなので、ここを神の悲しみととってもいっこうに間違いではないと思います。
 
 それにしてもここで、主なる神はこのイスラエルの罪を「傲慢」としてとらえているのは不思議ではないでしょうか。本来離れてはいけない主なる神から離れて、他の神々にいく、つまり、本当の神を捨てて、偶像礼拝をする、それがどうして傲慢という言葉でいわれるのかということであります。不信仰とか背信とか、裏切りの罪というのなら、わかるのですが、どうしてこれが傲慢なのでしょうか。

 傲慢の反対語は、謙遜という言葉だろうと思います。へりくだりであります。われわれは謙遜という言葉で、すぐ思うことは、能ある鷹は爪を隠すというように、自分を隠すということ、目立たさせないこと、控え目というようなことを想像すると思います。つまり自分で自分を低くするということ、それが謙遜だと考えると思います。しかし聖書はそうはいわないのです。
 
 謙遜ということ、へりくだりということをわれわれに教えてくれた人は、言うまでもなく、イエス・キリストであります。さきほど読みましたフィリピの信徒の手紙では、パウロが「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と、へりくだり、つまり謙遜ということを教えているところであります。

 その時、そのあと、パウロはイエス・キリストのへりくだりを模範としなさいというのです。「キリストは神の身でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と語るのであります。

 ここに「へりくだって」と言う言葉がでてきます。そしてすぐその「へりくだって」という言葉をいいかえて、死に至るまで「従順」でした、と「従順」という言葉にいいかえているのであります。

 そしてそのあと、パウロは一七節からみますと、「だから、わたしの愛する人たちよ、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いにを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と、続けるのです。
 もうここでは、謙遜とかへりくだりという勧めの言葉はなく、「従順」という言葉に換えられて、へりくだりではなく、従順になりなさい勧められているのであります。

 つまり、われわれが謙遜になるとかへりくだるというのは、自分ひとりでどんなに頑張っても謙遜になるなんてことはできないということなのです。自分ひとりでへりくだることはできないのです。せいぜいできたとしても、それは能ある鷹は爪を隠す式で、なにか人の交わるための技術として、へりくだって見せる程度のことで、それは決して謙遜ではないのです。爪を隠すのは、いざというときに相手に飛びかかるためのものだからであります。

 つまり、謙遜になるためには、自分が本当に恐れおののいて、自分の救いの達成のために従順になる相手を必要とするということです。主イエスが謙遜さを示したのは、父なる神に従順になっている時なのです。イエスは祭司長や長老たち、律法学者にはいつも毅然とて立ち向かっている、大変威張っているのです。イエスはわれわれが想像するような謙遜さをいつも示しているわけではないのです。
 
 イエスの謙遜さをわれわれが一番感じさせられるのは、あのゲッセマネの園で、父なる神に対して、自分は死にたくはない、自分を十字架で死なせないでくださいと祈りつつ、しかし、「わたしの思いではなく、あなたの御心のままに」と祈っている姿なのではないでしょうか。
 
 そのように謙遜ということは、従順ということなのである、誰かに服する、誰かに従順に従うことが謙遜になれることだということがわかります。そうしますと、その謙遜の反対、傲慢ということは、自分が本来従うべきかたらか離れしてしまうことだということがわかるのではないでしょうか。

 そのかたの前でほんとうにひれ伏さなくてはならないかたから離れてしまって、自分の自由になる神々についていこうとすること、それは不信とか背信とか裏切るということよりも、なによりも傲慢として、傲慢の罪としてとらえることができるし、そのように理解しなくてはならないということであります。
 
 本来腰に締められるべき帯が、腰から離れてしまうこと、それと同じように、本来従うべき神から離れて、他の神々に行ってしまうこと、それは、なによりも傲慢の罪を犯すことなのであります。そのようにして、本来神によって選ばれ、神の腰にしっかりとついていなくてはならない帯でおることをやめて、他の神々にいっているイスラエル民族はもう選民として全く役に立たない帯、水につかって腐ってしまった帯、そのような役にたたなくなってしまった選民になってしまったということであります。

 その傲慢になってしまったイスラエルの民に対して、主なる神はエレミヤを通して、こう嘆くのであります。「わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れがとらえられて行くからだ」。

 わたしの魂はその傲慢に泣く、というのです。われわれは人の傲慢な姿をみて、その傲慢に泣くという気持ちになるでしょうか。われわれは人の傲慢な姿をみたら、怒ることはあっても泣くという気持ちになることはないのではないでしょうか。われわれは傲慢な人をみれば、怒って、やがてその人からできるだけ離れたいと思うのではないでしょうか。

 しかし、ここでは「その傲慢に泣く」というのです。しかもひそかに「隠れた所で泣く」というのです。神様に隠れた所などある筈はないでしょうから、ここはやはり預言者エレミヤの思いが込められているのでしょうが、しかし「隠れたところで泣く」という表現は、神の複雑な微妙な気持ちをあらわしていると思います。選民イスラエルが自分を裏切り、自分から離れていく、それをみたら、怒り狂うのです、しかしそれ以上に悲しくてしかたないのです。なぜなら、神はイスラエルを愛してやまないからです。自分から離れていこうとする民がどうにかして悔い改めて自分のもとに帰ってきて欲しいと痛切に思っている、しかし、自分のもとから離れようとしている、これ以上に悲しいことはないのです。

 その民を今は裁かないわけにはいかないのです。「主の群れは捕らえられていく」というのは、やがて南ユダがバビロンという国に滅ぼされ、捕囚となって連れ去られていくことを預言しているところであります。それは神の裁きのためにそうなるのです。つまり自分から離れていくイスラエルの民をどうしても裁かずにはおれないのです。今は神の怒りをそのようにあらわさざるを得ないのです。しかし、神は本当は怒るよりも、悲しいのです。その傲慢に怒るよりは、何よりも悲しいのです、泣きたいのです。しかしそれをあらわに示すことはできない、それが「わが魂は隠れた所で、隠れた所で、泣く」という表現なのではないでしょうか。

 それはちょうど、罪を犯した我が子を怒る母親のようではないでしょうか。罪を犯した我が子を悔い改めさせるためには、どうしても怒らざるを得ない、しかし本当は悲しい、そういうとき、母親は隠れた所で涙を流すのであります。

 一八節から、一転して、その傲慢の罪に陥っている南ユダの人々がバビロンに捕囚となって捕らえられていくことが預言されております。
 「王と太后に言え、『身を低くして座れ。輝かしい冠はあなた達の頭から落ちた。』ネゲブの町々は閉じられて、開く者はなく、ユダはすべて捕囚となり、ことごとく連れ去れた」。

 そしてこう嘆きます。二三節からです。「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変えよう。それなら、悪に馴れされたお前たちも正しい者となり得よう。」
ここは口語訳ではこうなっております。「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができたならば、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができる」。

 エチオピヤとはエジプトの南端の民族だそうです。肌の色が黒いのです。これは一種の差別用語になるのかもしれませんが、その黒い肌の色はどんなにしても変えることはできない、豹のまだらの皮膚を変えることはできない、それと同じようにもう悪に馴らされたお前たちの罪は変えることはできないという嘆きであります。

悪に馴らされる、という言葉も面白いと思います。口語訳では、「悪に慣れる」という字を使っております。つまりただ一一時的な悪ではなく、出来心とか一時のあやまちとかというのではなく、悪がもう習慣化してしまうということであります。それを新共同訳聖書では、「悪に馴らされた」と、なにか馬が調教師によって訓練されるように、いわばサタンに馴らされてしまった悪とみている、もうそういう習慣化してしまった悪は治しようがないというのであります。これは悪というもの、罪というものの性格をよく現していると思います。

 悪というもの、罪というものは、ちょうど麻薬と同じように、それはいつのまにか、習慣化してしまう、馴らされてしまう、慣れてしまう、もうそれがないと一日たりとも生きていけなくなるというものです。そうなると、もう罪に対して鈍感になってしまうのであります。もうそれが罪としてわからなくなってしまうのであります。もうそうなってしまったら、どうしようもないのではないかというのであります。

 罪を犯した我が子に対して、母親はもうどうしようもなく、警察に連行されていくのを隠れた所で泣きながら、見送る以外にないということであります。今は刑務所にいれられて、裁きを受ける以外にどうしようもないと思いながら、隠れた所で泣いているということなのであります。それが今南ユダが神の裁きを受けて、バビロンに滅ぼされ、捕囚されなくてはならないということなのだと預言者エレミヤは人々に訴えるのであります。今はバビロンに降伏しなさい、それがイスラエル民族の再生の道だと預言者エレミヤは、涙を流しながら人々に訴えているのであります。

預言者エレミヤが神の裁きとか神の怒りを告げるときに、その背後で、その隠れた所で泣く神の愛をわれわれに示しているのであります。