「執り成しの祈り」 エレミヤ書一四章一七ー一五章二節 マルコ福音書一四章三二ー四二節

 エルサレムに干ばつが見舞った。その時、主の言葉がエレミヤに臨みました。十四章一節からです。「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる。貴族は水を求めて、召使いを送る。彼らが貯水池に来ても水がないので、空の水がめを持ち、うろたえ、失望し、頭を覆って帰る。」

 預言者エレミヤは、民を代表してこう神に訴えます。七節「われわれの罪がわれわれ自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。われわれの背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました。イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。なぜあなたは、この地に身を寄せている人、宿を求める罪人のようになっておられるのか。主よ、なぜ、あなたはとまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたはわれわれの中におられます。われわれは御名によって呼ばれています。われわれを見捨てないでください。」

 エレミヤは、ある意味でエレミヤだけは、この干ばつは自分たちの罪に対する神のは裁きとしてこれをとらえたようであります。そのためにエレミヤは民を代表して「われわれの罪がわれわれ自身を告発しています」と自分達の罪を告白し、主なる神に赦しを乞うのであります。いまだにエルサレムの住民はこのように悔い改めているのではないのです。ただエレミヤひとりが民を代表して悔い改めているのです。

 それに対する主なる神の言葉は厳しいものでした。一○節「彼らはさまようことを好み、足を慎もうとしない。主は彼らを喜ばれず、今や、その罪に御心を留め、咎を罰せられる。この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食してもわたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げものや穀物の献げものをささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と飢饉と、疫病によって彼らを滅ぼし尽くす」。

 神は預言者エレミヤに、もうこの民のために執り成しの祈りをするなといわれるのであります。このことはさいさいにわたって、エレミヤが言われてきたことであります。

 しかしエレミヤは、執り成しの祈りを禁ずる神の心をよくしっているのであります。一七節をみますと、主なる神はこういわれます。「わたしの目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。町に出てみれば、見よ、剣に刺された者。町に入ってみれば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。」
ここでははっきりと主なる神ご自身が涙を流すというのです。それを隠そうとしないのです。神が裁きをなすとき、神ご自身がどんなに苦しみ、悲しみ、ご自身が痛みながら裁きをくだしているかということであります。それをエレミヤはよく知っているのであります。

 ですから、エレミヤは執り成しの祈りをするなと神から禁じられながら、引き下がらないで、執り成しの祈りをするのであります。
一九節、「あなたはユダを退けられたのか。シオンをいとわれるのか。なぜ、われわれを打ち、いやしてはくださらないのですか。平和を望んでも、幸いはなく、いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。主よ、われわれは自分たちの背きと先祖の罪を知っています。あなたに対してわれわれは過ちを犯しました。われわれを見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください」。

 このエレミヤの必死の執り成しの祈りに対する主なる神の言葉はもっと厳しいものでした。一五章一節からみますと「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたはしこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。彼らがあなたに向かって『どこへ行けばよいのか』と問うならば、彼らに答えよ。『主はこういわれる。疫病に定められた者は疫病に。剣に定められた者は剣に。飢えに定められた者は、飢えに。捕囚に定められた者は、捕囚に。』」

 五節からこう神は言われるのであります。「エルサレムよ、誰がお前を憐れみ、誰がお前のために嘆くだろうか。誰が安否を問おうとして、立ち寄るだろうか。お前はわたしを捨て、背いて行ったと主は言われる。わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。お前を憐れむことに疲れた。」
 主なる神は、もう「お前を憐れむことに疲れた」というのであります。

 今日は受難週の聖日礼拝として守っております。主イエスがこの週の金曜日に十字架につけられて死んだ週であります。主イエス・キリストもまた預言者エレミヤとおなじように、われわれを救うため、われわれに悔い改めを求め、われわれを救うために父なる神から派遣されたかたであります。われわれの罪を父なる神になんとかしてとりなそうとしてこの世にいらしたかたであります。ルカによる福音書では、一向に実を実らせないいちじくの木を切り倒してしまいなさいといわれて、園丁は「ご主人様、今年もこのままにしてください。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言ったという主イエスのたとえ話があります。この園丁はいうまでもなく、主イエス・キリストご自身のことであります。

 主イエスの執り成しの祈りのことでわれわれがすぐ思いだすのは、主が十字架のうえで、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた祈りではないかと思います。

 しかし、主イエスが父なる神に必死に執り成しの祈りを捧げたのは、その前の夜にゲッセマネの園で祈られたときの祈りではないでしょうか。

 主イエスは自分が捕らえられる前の夜、ゲッセマネというところに行って宿をとろうとしました。そのとき、弟子三人を連れて、更に奥に行かれて、ひどく恐れもだえ始め「わたしは死ぬばかりに悲しい」といわれて、父なる神にこの苦しみの時が自分から過ぎさるように祈られたというのです。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったのであります。

 この時、主イエスはただ自分が十字架につきたくない、十字架で死にたくないと祈られのではないと思います。自分が十字架で死ぬということは、救い主としてこの世に来た自分が父なる神から捨てられるということなのであります。救い主である自分が捨てられるということは、自分ひとりが捨てられることではなく、自分がその救いのために来たイスラエルの民が神に捨てられることを意味していたのであります。

 マタイによる福音書の二三章三七節にはそのイエスの嘆きが記されております。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられしまう。」
 イエスが十字架で殺されるということは、イエスだけが殺されることではなく、イスラエルの民も神にいわば殺され、神に見捨てられることなのであります。

 だから、イエスは十字架で死ぬことは避けたかったのであります。自分が十字架で死なないで、人々の救いの道を達成してくださいと父なる神に祈られたのであります。そのようにして、この民を、われわれ人間を救ってくださいと祈ったのであります。これは何よりもイエスの執り成しの祈りだったのではないか。

 しかし父なる神はこの時、沈黙を守ってこのイエスの必死の祈りになに一つ答えようとはしませんでした。その父なる神の沈黙の中にイエスは、神の堅い決意を読みとって、祈り終えると、さあ、いこうと十字架への道を決然と歩みだすのであります。この時、父なる神はイエスに対して、もうこの民のために執り成しの祈りはするなと、その沈黙のなかで語られたのであります。それはちょうど預言者エレミヤに主なる神がこの民のためにもう執り成しの祈りはするなといわれたのと同じであります。
 そしてイエスはその十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取ったのであります。

 つまり、選民イスラエルの救い、それはわれわれの救いのことですが、われわれが救われるためには、どうしても神の子が十字架で死ぬということが必要だったということなのであります。これを避けて救いというのはなかったということであります。
 それはちょうど、神に反逆している南ユダが自分たちを侵略してくるバビロンに降伏する、全面降伏すること、そしてそのバビロンに捕囚の民として五十年、いや七十年は過ごさなくてはならないということであったのであります。それによって自分の罪が徹底的に知らされる、ある意味では屈辱的に自分の罪の結果を引き受ける、それ以外にイスラエルの再生の道はない、救いの道はないということであったのであります。だから預言者エレミヤは自分の民に今はバビロンに降伏しなさい、いさぎよく降伏しなさいと説いてまわったのであります。

 われわれの救いにはどうしても神のひとり子イエスの十字架の死というものを必要としたのであります。なるほど、神はこのイエスを三日後によみがえらせました。しかしそのことは、この十字架という出来事を無にしてしまう、この十字架のことはもうすっかり忘れてしまっていいよという出来事ではなかったのであります。復活はわれわれにあの十字架こそ、神がわれわれに与える救いの道だということはっきりと示す証しであったのであります。

 ある人が、イエスの十字架の死によって救われるということは、こういうことだと説明しております。それは酔っぱらいが自分のしていることがわからないで、いい気になって、線路の上を歩いていた。そこへ電車が来た。それを見ていた踏切番のおじさんがあわてて、彼をつきとばした、しかしそのおじさんは電車に轢かれて死んでしまった。そして彼は助けられた。そういうものだというのです。

 われわれが救われるということがそういう救いであるならば、われわれは一生その踏切番のおじさんが自分の身代わりになって死んでしまったという重荷を背負いながら生きて行く以外にないということになる、そんなものが本当に救いだろうかということになるかもしれません。われわれは生涯その重荷を背負って生きて行く以外にないのだったら、いっそのこと救われなかったほうがよかったと思うかもしれません。

 しかし、キリストの十字架の死のあがないによって救われるということは、ある意味ではそういうことだと思うのです。われわれは生涯、自分はキリストの打たれ傷によっていやされたのだ、救われたのだということを片時も忘れることはできいのです。そういうかたの傷によって救われたのだという重荷を忘れてはならないのです。これを忘れてしまったら、われわれはまた自分の罪のことを忘れ、自分が罪人であったことを忘れ、自分が罪人であり続けることを忘れてしまうことになる、そうしていつのまにか自分が聖人になってしまう、義人になってしまう、そうしたら、とんでもない人間になりはててしまうのではないか。

 ですから、われわれが救われた背後には、この十字架があるということは、われわれの救いがもうまったく手放しのあっけらかんとした救いにはならないという救いのなのだということを知っておく必要があるのではないか。いつも、言葉は悪いですけれど、十字架という重荷を背負っている、十字架という重しを背負っている救われかたをしているということなのであります。そのことがわれわれにとって大変大事なのではないか。

 本当ならもう十字架から卒業したいかもしれない。しかしこれから卒業したら、われわれは再び罪人にもどってしまうのであります。パウロが傲慢になっているコリントの教会に送った手紙のなかで、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外のことは何も知るまいと心に決めている」といっているのであります。ガラテヤの教会に対しては、「ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たちよ、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」といっているのでありす。

 われわれにとっては、キリストの十字架は重荷であります。一つの暗い重しであるかもしれません。もうそんなものはすっかり忘れて、もっと明るく、あっけらかんとして救われたのだと叫びたくなるかもしれません。しかし、そうであってはならないのです。これは本当にわれわれにとっては重しなのです。重圧なのです。しかしこれがあるために、これを生涯仰ぎみることによって、つまり、わたしの代わりに十字架で死んでくだっさったかたがおられる、ということを信じ、仰ぎ見ることによって、この重し、この重荷をむしろ心から喜んで、この重荷を自分は生涯忘れないでいこうと決心することによって、その時だけ、われわれは復活の喜びを味わい、この時こそ、この重しを担いつつ、担いつつです、あっけらかんと、軽やかな思いなって救いの喜びを味わえるのではないか。
 この十字架の重しからわれわれは逃れようとしてはならないと思うのであります。 

ただ自分の身代わりに死んでくれたのが踏切番のおじさんとは違って、神の子イエス・キリストだったのです。 これがただの人間だったならば、到底、救われたとは思えないでしょう。ただ、もうすまない、すまないと重荷を背負いつづけ、生涯暗い気持ちで送る以外にないかもしれません。しかし、自分の身代わりになって死んでくださったかたが神の子であったということ、そして神がこのひとり子をあの十字架の死からよみがえらせてくださったことは、われわれにただ重しだけを与え続ける救いとは違う救いにしてくださったということであります。

 復活したキリストは、復活を信じられないでいたトマスに対して、その傷あとを見せて、わたしの傷跡に触れて見よ、そして信じないものにならないで、信じる者になれ、といわれたように、復活したキリストの手には、その十字架の傷は消えてはいないのです。残っているのです。それでもトマスはその傷を見て、わが主よ、わが神よ、と救われのであります。イエスの弟子達、十字架のイエスを見捨てて逃げた弟子達、あの三度イエスを裏切ったペテロは、復活のイエスに出会って、逃げ出さなかったのです。そのイエスから「お前はわたしを愛するか」と三度いわれながら、「わたしはあなたを愛します」と答えることができ、そのイエスに生涯喜びをもって従うことができたのです。

 そういうかたが、われわれの身代わりに死んでくださったのです。だから、それは踏切番のおじさんの死とは違って、ただ重荷だという暗い暗い負債だけを背負って生きていかなくてはならないというものではないのです。あの十字架の死には神の深い、神の限りない愛が示されたからであります。

 十字架という重しを受けながら、その十字架の重しには愛が込められていた、だからそれを一生涯担いつづけながら、しかも明るく、すっきりとして、ある時には心からあっけらかんとして、救われた喜びのなかで生きることができるのであります。

 主なる神は、預言者エレミヤに「わたしの目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い」と言われたのであります。神はイスラエルの民を見捨てること、その罪のために見捨てざるを得ないことに、涙を流して悲しんでいるのであります。

 そしてその神から見捨てられて十字架で死のうとしているイエスは、あのゲッセマネの園で、「わたしは死ぬばかりに悲しい」言われるのでりあます。十字架で殺されるのが怖いというのではないのです。悲しいというのです。悲しいというのは、父なる神から見捨てられることを思うから、悲しいのです。

 ここには、捨てる神の側の悲しさと、捨てられる側のイエスの悲しさが示されております。なぜ悲しいのか、それは愛から切り離されるからであります。

 われわれは神から見捨てられるということを悲しいと感じているだろうか。怖いとは思うかもしれない。しかし本当に悲しいと思っているだろうか。怖いと思うのは、たとえば、神から見捨てられて、地獄に堕ちるのが怖いということだろうと思います。しかしもしそうであるならば、われわれが救われて地獄から天国につれていかれて、うれしいとしたら、それはあの地獄で苦しむことから解放されたという喜びだけにしたるだけのことではないか。それは父なる神と愛の交わりをとりもどせたという喜びではなく、神から見捨てられなかったという喜びではなく、ただ自分が地獄の苦しみから救われたというはなはだ自己中心的な喜びだけでしかないということに終わらないだろうか。

 預言者エレミヤがさいさい、神の悲しみについてわれわれに語ることを覚えておかなくてはならないと思うのであります。それは愛の悲しみであります。われわれを神がどんなに愛しているか、そこから神の悲しみが生まれているのであります。神から見捨てられることをわれわれはイエスと共に死ぬほどに悲しいと実感したいものであります。