「神の言葉を語る」 エレミヤ書一五章一五ー二一節 ヨハネの黙示録一○章八ー一一節

 一五章一○節からは、エレミヤの嘆きが始まります。
「ああ、わたしはわざわいだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とれさている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに。だれもがわたしを呪う。主よ、わたしは敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたの執り成しをしたではありませんか。」

 預言者エレミヤが人々から「わたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男」といわれているのは、エレミヤが神の厳しい裁きの言葉を述べたからであります。エレミヤとしたら、そのような神の厳しい裁きを楽しげに述べたわけではない、エレミヤはエレミヤなりに必死に神にとりなしてきて、しかし神からの厳しい拒絶にあい、しかたなく神の裁きを述べたのにかかわらず、エレミヤはみんなから排斥させ、憎まれている、なんと不条理なことかと嘆くのであります。

 そしてエレミヤは更に神に訴えます。一五節からみます。
「あなたはご存じです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み、わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えてわたしが取り去さられるようなことがないようにしてください。わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください」と大変率直に神に訴えた後、こう述べます。
「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉はわたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」

 新共同訳聖書では、「あなたの御言葉が見いだされたとき」となっておりますが、口語訳では「わたしは御言葉を与えられて」となっていて、そのほうがわかりやすいかもしれません。

 面白いのは、「御言葉が与えられて、それを食べました」というところであります。「わたしはそれをむさぼり食べました」。そしてそれは「わたしのものとなり」という表現であります。口語訳では、「わたしはみ言葉を与えられてそれを食べました。み言葉はわたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」となっております。

 新共同訳聖書の「それをむさぼり食べた時にそれはわたしのものとなった」というのは意訳であるかもしれません。「み言葉は喜びとなった」というところを「わたしのものとなった」と意訳しているようであります。

 神の言葉を食べる、自分の腹の中に納める、その時に神のは言葉は自分のものなるということは、大変面白いし、大事なことだと思います。つまり神の言葉はただ自分の頭のなかでああでもこうでもないと考えているだけでは、それは自分のものならない、はなはだ観念的な言葉のままであるということであります。それでは預言者とはいえないということです。

 み言葉を食べるという表現には、聖書には二度ほど出てまいります。もうひとつはエゼキエル書の二章の七節から三章にかけてこういわれております。

 預言者エゼキエルが神からこういわれるのであります。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いてわたしが与えるものを食べなさい」といわれます。そして三章の一節からみますと、「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」とエゼキエルはいわれて、「わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、いわれた『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹に満たせ。』といわれてエゼキエルが「それを食べるとそれは蜜のように口に甘かった」というのであります。

 もう一つはヨハネの黙示録の一○章の言葉です。ヨハネは天使から巻物をうけとると天使からこういわれます。「受け取って食べてしまえ。それはあなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」といわれて、それを食べてみると最初は口には蜜のように甘かったが、食べるとわたしの腹は苦くなったというのであります。

 預言者は神の言葉をただ受け取るだけでは駄目で、それを食べなくてはならないというのであります。ヨブの言葉では、それを「胸に納めた」という表現がありますが、み言葉を食べるということは、しっかりと胸に納めるということであります。そうでないとそれは新共同訳聖書の訳によれば、「あなたのみ言葉はわたしのものとな」らないのです。

 そしてその神の言葉は最初には蜜のように甘かった。それは喜びであった、最初は。しかしそれを自分の腹の中に納めるに従って、それはだんだんと苦くなったというのです。エレミヤも神のみ言葉を与えられた時には、最初は喜びにふるえたのであります。ああ、自分は神のみ言葉を聞いたという喜び、それはなにも自分だけに特別に神の言葉がくだったという優越感とか、特権意識というなことはではなかったでしょう。神の言葉が自分に与えられたということは、他の人と自分を比較しなくても、それ自体が大きな喜びであります。それこそ蜜のような甘い喜びであります。なぜなら、それほどに神と親しい関係立たされているということを味わうことだからであります。

 面白いのは、最初は甘かった、しかし、それを腹の中に納めるに従って、それはだんだん苦くなっていったということであります。甘いだけではすまなかったということであります。それが神の言葉というものであります。神の言葉は、われわれ人間の願望を超えた言葉ですから、それはわたしを造り変える言葉であります。それがどんなに恵み深い言葉であっても、それを自分を変革させる言葉であります。ですから、その神の言葉を自分の腹の中に納めれば納めるほどに、それは重いものになる、苦いものになるのであります。自分を変革させるということは大変なことで、それは痛みを伴うことだからであります。
 
 ある人がこう言っています。「実生活に犠牲を要求しないような思想は思想とは言えない」というのであります。ましてそれは単なる思想ではなく、神の言葉なのですから、それは最初は甘くても、自分の生活に深く食い込み、変革を迫ってきて、自分の実生活に犠牲を強いるものとなる、それが神の言葉というものであります。

 預言者エレミヤは、神の言葉を与えられて最初はうれしかったのです。それは蜜のように甘いものとして感じられたのです。しかしその神の言葉を人々に伝えなくてはならないとわかるとそれはただ甘いものではなくなり、苦いものとなったのであります。なぜならそれは人間の罪、イスラエルの民の罪に対する厳しい裁きの言葉だからであります。彼が神の言葉を述べれば述べるほど、エレミヤは人々から迫害を受けることになるのであります。だから本当はもう神の言葉などは述べたくはないのです。しかし彼はその言葉を述べずにはおれないのです。

 後にエレミヤは神の言葉ついてこう述べているのであります。
「主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じこめられて火のように燃え上がり、押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたの負けです」と述懐しているのであります。

 神の言葉は最初は甘いかもしれない。しかしそれはわれわれの実生活を変革していくものであります。苦いものになります。真実の言葉、真実の思想というものは、自分自身を変革し、そしてそれだけではすまなくて、他人をも変革していくものでりあます。そうでなければ、それは思想とはいえないし、まして神の言葉とはいえないのであります。

 わたしは四国時代こういうことがありました。四国の教区総会で、ひとつの建議案が提出されました。それは内容のすべては忘れましたが、その主旨は「イエスはキリストであるとわれわれは信じる」という告白を改めて表明するという建議案でした。わたしは、そしてわれわれのグループはそれに反対したのであります。そんなものを今四国で建議案として出すということは、犬の遠吠えのようなものではないか、そんなしらじらしい建議案はだすべきでないとわたしは発言したのであります。そうしたら、議場は混乱して、イエスはキリストであると告白出来ない人はこの議場から出っていってくれと発言する人まで出てきました。そんなわけで、その建議案を提出したグループは、そのような混乱を招き、それを多数決で決めるのは、この建議案にふさわしくないということで、取り下げたということがありました。

 わたしがその建議案に反対した理由はこういうことだったのです。そのような建議案が出された背景は、当時学生運動が盛んで、多くの大学で紛争が起こっている時に、教会もまた学生達にその変革を迫られた時だったのです。教会は教会堂のなかで日曜日に礼拝などのんきにやっている時ではない、もっと社会にでていって、社会運動をしなければならない、反体制運動に教会は参加しなければならないということが大都市を中心に起こって、多くの都市の教会では礼拝中に学生達が講壇を占拠して、礼拝が中断されるということがしばしば起こったのです。教会もそうした運動に流されようとして、自分たちのよって立つべき地点を失いかけていたのであります。そうしたことが背景にあって、その総会でそのような建議案を提出したグループの人々は、われわれは改めて、イエスはキリストであるという信仰の基本に立ち返ろうではないかとその建議案を提出したのであります。

 しかしわたしは、それに反対するわれわれのグループは、そのようなあたりまえの告白を今さら告白することに大変な白々しさを感じて、そんな建議案をだすことは、恥ずかしいと思ったのです。それはどういうことかといいますと、そうした建議案をたとえば東京で、そういう紛争が起こっている東京の教会で出して、改めてイエスはキリストであると告白することには意味があるかもしれない。しかしそれを四国でそうした建議案を出しても、それを出した翌日から教会はなにか変わるかといえばひとつも変わりはしない、その建議案を出したあともそれ以前とひとつも変わらないで信仰生活を送ることになる、そしてそんな建議案を出したことすらすぐ忘れてしまうことだろう、しかしもしそれが東京で出していたら、たちまち翌日には、反体制運動に走る学生達が教会を占拠することが起こるかもしれない、それに対して牧師をはじめ教会は体を張って戦わなくてはならないかもしれない、そういう状況のなかでその様な告白を告白することは意義がある、しかし四国教区の教会では、そんなことは起こりようがないということなのです。そのような建議案は、ただの自己満足にすぎない、イエスはキ リストであるという告白はそんな軽々しい告白ではない筈だ、だからそれは犬の遠吠えのようなものだという思いで反対したのであります。

 信仰の言葉というもの、神の言葉というものは、決して軽々しいものではない筈であります。それは最初は蜜のように甘いものかもしれませんが、それはやがて腹の中に収まっていくにつれて、苦いものになり、重いものになり、それはわれわれの生活を変革していくものであります。大げさにいえば、神の言葉は、具体的には、われわれにとっては、聖書の言葉ですけれど、聖書の言葉というのは、明日から自分を変えていく力をもったものであります。聖書の言葉をただ頭のなかだけで、観念的なものだけにするのではなく、聖書の言葉を本当に食べてみれば、そのように腹にこたえるものになっていくはずであります。

 たとえば、主イエスの言葉、「あなたの敵を愛しなさい、右の頬をぶたれたら、ほかの頬を向けなさい」という言葉を一度でも聞いた人は、それを文字通り実行できるかどうかは別にして、少なくとも自分の中に重い言葉としてのしかかってくる筈であります。そして一生に一度かもしれませんが、その言葉を実践することが起こるかもしれないと思うのです。
 「あなたの罪は赦された、わたしもあなたを罰しない」という主イエスの言葉は、その言葉をわれわれが食べていれば、われわれの生活に変革をもたらすのであります。

 神の御言葉を食べてみると最初は蜜のように甘かったというのは、面白いと思います。それは預言者エゼキエルでも、ヨハネの黙示録のヨハネの場合もみな、最初は蜜のように甘かったといっているのです。甘くなかったら、食べてもすぐはき出してしまうに違いないと思います。神の言葉ははじめは甘いのです。甘いということは、自分の口にあっている、自分の嗜好にあっているということです。自分が受け入れられたということです。少し飛躍したいいかたをすれば、それはまずわれわれの罪が赦されているという言葉から始まっているということであります。

 預言者エレミヤが最初に神の言葉を聞いたとき、神からこう言われているのであります。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」。それに対してエレミヤが自分は若者にすぎないといってたじろぎますと、神は「若者にすぎないといってはならない。人々を恐れるな、わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」というのであります。

 このように神の言葉は、まずエレミヤを全面肯定して、エレミヤのすべてを赦し、支えることから始められているのであります。だからそれは甘いのです。蜜のように甘いのであります。

 ですから、われわれが神の言葉を聞くときに、この罪の赦しからまず聞かなければ、神の言葉を食べることはできないし、食べたことにはならないのであります。そうして神の言葉をしっかりと食べてる、腹に収める、そうするとただ甘いだけでは終わらなくなる、ある時には苦い言葉になるかもしれない。しかしその時にそれをはき出したりしてはならいし、はき出せるものではないのです。神の言葉はそういう力をもっているのであります。

 エレミヤは神の言葉を食べて、はじめは蜜のように甘かった言葉を、人々に伝え始めますと、それは人々から迫害を受けるようになるという苦い言葉になっていったというのです。一五章一七節からみますと、「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなはわたしを憤りで満たされました。なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くていえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになりました」というようになったのであります。ある人が言っておりますが、エレミヤは最初は神に訴えていたのに、しまいには、神を訴えるようになったということであります。エレミヤは、神に対して、「あなたはわたしを裏切り、あの砂漠にできる川のように一日でその流れが変わってしまう川のようだ」と神を非難するのであります。

 それに対して神はこう語ります。「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もしあなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたをわたしの口とする。あなたが彼らのところに帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す」というのであります。

「お前は預言者なのだから、そんなに軽々しく言葉を吐くな、語る言葉をもっともっと熟慮して語れ」といって、神を非難し、弱音を吐く
エレミヤを神は叱るのであります。しかしそれでも神はエレミヤを突き放されないのです。「わたしのもとに帰りなさい。お前が彼らのところへ頭を下げにいくのではない、彼らがお前のところに帰ってくるのだから。わたしがお前を最後まで守る、共にいて助ける、救い出す」といってエレミヤを励ますのであります。