「預言者の孤独」エレミヤ書一六章一ー八節 ローマ書一二章九ー一五節

 エレミヤは主なる神からこういわれます。「お前はこのところで妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない。」

 これは預言者という者は、独身でなければならないということではないのです。預言者ホセアは結婚しておりますし、イザヤも結婚しております。イエスは天国のために結婚しないものもいる」といわれましたし、またパウロは結婚しないでいられればしないほうがいい、なぜかというと、結婚すると神様よりも夫とか妻のほうに関心がいって、夫や妻を喜ばそうとして神をないがしろにするからだというのであります。そうした言葉を受けて、カトリックでは、神に仕える教職は独身でなければならないようであります。確かにそういう面はあると思います。だから自分の決断で、一生独身で神に仕えようとして結婚しないという選択の道はあると思います。しかし、また結婚することによって、人間関係の深さを具体的に味わい、人と人との交わりの楽しさ、喜び、また人と人との交わりの難しさ、そこから起こる悲しみ、寂しさ痛み、そして罪を具体的に知ることができるということもあって、結婚することが教職につく者にとってかえって意味があるということはいくらでもあると思います。

 現に預言者ホセアは結婚したために、自分の妻が他の男と姦淫して、それによって生まれた子供をみずからの子として認知しなさいと神から命ぜられて、人のあやまちを赦すということがどんなに大変なことか、どんなに深い愛を必要とするものかということを味わい、それによって背けるイスラエルの罪を赦す神の愛を実感させられるのであります。

 預言者エレミヤが神から「お前はこのところで、妻をめとってはならない、子供をもうけてはならない」といわれたのは、お前は預言者といういわば教職の身なのだから、独身でいて、ただ神にのみ仕えなさいということではないのです。そうではなくて、三節からみますと、ここで生まれる子供は、その父、母と共に弱れ果てて死ぬことになるからだ。この南ユダの地は、その罪の故にやがてバビロンという国によって滅ぼされ、みな殺されていくからだ、その時には、もはやその死を嘆く者も葬る者もなく、ただ土の肥やしになるだけだ、彼らは剣と飢饉によって滅びる。その死体は空の鳥、野の獣の餌食になるからだといわれるのであります。
 結婚してもそのような悲劇を味わうだけなのだから、お前は結婚するなといわれるのであります。
 
それにしても、ここでいわれている戦争において死ぬということは、こういうことだというところは考えさせられるところであります。

 戦争で死ぬということは、その死を嘆く者も葬る者もいないということなのだ、なぜなら、みんなが同時に殺されるということだからだというのです。

 大江健三郎がノーベル賞を貰いにデンマークにいくときに、そこにいったら多くの外国の新聞記者からきっと質問されるから、あらかじめ準備しておいたほうがいいといわれたことがあったというのです。それは「あなたはどうして広島に落ちた原爆にこだわるのか、戦争ということは、なにも広島の原爆だけでなく、戦場ではもっと悲惨な死がいくらでもあるのに、どうして広島の原爆にそんなにこだわるのか」という質問に答える準備をしたというのです。それに対して彼はこういう答えを準備した。それは原爆というのは、一瞬のうちにすべての人が死ぬからだ、そこでは死ぬ人も、その死を悲しみ、その死を葬る人も同時に死んでしまうからだ、それがどんなに悲惨なことかと言う答えを用意したというのであります。そして実際にそういう質問を受けたというのであります。

 人が死んで、その死を記憶する人も同時に死んでしまう、誰もその死を嘆く人も葬る人もいない、ただ土の肥やしに放っておかれるだけ、ただ空の鳥や野の獣の餌食になるだけだということがどんなに悲惨なことかということであります。
 
 神は預言者エレミヤにお前は結婚してもそのような悲劇を味わうだけになることなのだから、この地で妻をめとるなといわれるのであります。

 そして更にこういわれます。「お前は弔いの家に入るな。嘆くために行くな。悲しみを表すな。わたしはこの民から、わたしの与えた平和も悲しみも憐れみも取り上げる」と主なる神はいわれるというのです。「身分の高い者も低い者もこの地で死に、彼らを葬る者はない。彼らのために嘆く者も体を傷つける者も、髪を剃り落とす者もない。死者を悼む人を力づけるために、パンを裂く者まなく、死者の父や母を力づけるために、杯を与える者もない。」というのであります。

 これはみな南ユダが神に反逆した罪の結果、自分たちが負わなくてはならない神の裁きなのだということであります。

 八節からは、こういわれます。「見よ、わたしはこのところから、お前たちの目の前から、お前たちが生きているかぎり、喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声を絶えさせる」というのであります。
 
 神の裁きは、この地から喜びの声、祝いの声を絶えさせるということなら、わかりますが、神はエレミヤに対して、「わたしはこの民からわたしの与えた平和も悲しみも憐れみも取り上げる」というのは考えさせられます。ただ平和や喜びだけが取り上げられるのではなく、悲しみも嘆きも取り上げられてしまう、それが神の裁きだというのです。

 神が悲しみや嘆きを神の裁きとしてとりあげてしまうということは、逆にいいますと、われわれの悲しみや嘆きは、神がわれわれに与えてくださっている神からの賜物だ、神の恵みだということになります。われわれが人の死を悲しみ、嘆き、悼むこと、それは神がわれわれに与えてくださった愛のわざなのだということであります。それは平和ということと同じように神がわれわれに与えてくださった神の賜物、神の恵みなのだということであります。

 逆にいいますと、われわれが平和な時代に生きるというこは、死んだ人を丁重に悼む、共に悲しみ、そして共に心をこめて葬りの式をしてあげることができるということなのだということであります。しかし平和ではなく、戦争の時にはもうそうしたことが奪われるということなのだということなのであります。

 預言者エレミヤは、今主なる神からそれら一切と関わるなといわれるのであります。「お前は弔いの家に入るな、嘆くために行くな」といわれ、「酒宴の家に入るな、彼らと共に座って、飲み食いしてはならない」と言われるのであります。つまり神の裁きを受けることになる南ユダの民衆と、共に喜び、共に悲しみ、共に涙なんか流すなと言われるのであります。

 パウロは「愛には偽りがあってはならない、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧める時に、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈るのであって、呪ってはならない」といったあと、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず」と勧めているのであります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け」ということ、それが心を一つにすることだということ、それを今預言者エレミヤは主なる神から拒否されるのです。

 ある聖書学者は、このところをとりあげて、ここに旧約聖書の限界と、新約聖書の福音の違いを指摘して、福音において「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という愛が建設されるのだと言っておりますが、それは余りにも浅薄な解釈ではないでしょうか。

 預言者エレミヤは、神からこの民と一緒に喜び、泣くなといわれて、「はいそうですか」といって、もう民と共に喜び、泣かないでいられるだろうか。決してそんなことはできないはずであります。

 エレミヤがどんなにこの民のために涙を流してきたかということは、すでに学んだところであります。八章の一八節からみますと、「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる。見よ、遠い地から娘なるわが民の叫ぶ声がする。『主はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにおられないのか』。娘なるわが民の破滅のゆえにわたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。ギレアデに乳香がないというのか。そこには医者がないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう。娘なるわが民の倒れた者のために」と言っているところがありました。

 これはどこまでがエレミヤの思いであり、どこまでが主なる神の思いなのか判別がつかないほどに、預言者エレミヤが民の罪に対する神の思いを思って嘆き悲しんでいるところでありす。

そういうエレミヤが、ある意味では大変情にもろいエレミヤが、今この民のために涙を流すなと、共に喜ぶなと神からいわれているのです。こんなに情のあついエレミヤが神からそういわれて、ただちに泣くことも、喜ぶこともしなくなるかといわれれば、決してそんなことはないはずです。

 人は悲しんでいる人を前にして、共に泣かない、共に涙を流さないということを通して、もっと深くその人共に泣くということだってあると思います。

 あやまちを犯した子供に対して、涙をみせない、共に泣かない、涙を流さない、必死に涙をこらえる、そうして子供に厳しい顔を示す親の姿を想像したいと思うのです。
 ここに旧約聖書と新約聖書の違いとか、旧約聖書の限界を見るなどということは、いかにも浅薄な見方ではないかと思います。

 ある人が「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ということは、その人が一番深い自分になっている時に、その人と交わることだといっております。

 今預言者エレミヤは、主なる神から「お前は弔いの家に入るな、嘆くために行くな。悲しみを表すな」と、いわれて、必死に涙をこらえて、涙をみせないことによって、民の罪を嘆き、深く悲しんでいるのであります。

 悲しんでいる人とその悲しみを共有することができない、喜んでいる人と共に喜びをあらわすことができないということは、エレミヤにとって大変つらいことだったと思います。前に学んだ、一五章の一七節には、エレミヤは「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手にとらえられ、独りで座っていました」と嘆いているところを学びました。これは逆にいいますと、本当はエレミヤは共に座って楽しみたいというとであります。しかしそれが今許されないということであります。
 この時、預言者エレミヤはどんなに孤独だったかということがわかります。

 森有正という人がこういうことを書いております。「ぼくが孤独の道を歩く運命にあるならば、ぼくはどんなに激しい寂寞もいとわないだろう。しかし、そうでないのに、自分の不正直で、自分で自分を孤独に追いやるならば、この孤独は救いがたいものだろう。孤独は孤独であるが故に、貴いのではなく、運命によってそれが与えられる時に貴いのだ。自分の勝手で作りだした孤独ほど無意味で醜いものはすくない。本当の孤独は孤独から生まれない」。

 自分のひとりよがりな、自己中心的な、利己的な思いで、人と交わるのがいやで自ら孤独になるなんていうのは、真の孤独などではないというのです。自分の性格的な人嫌いから孤独になるなんてことは、真の孤独ではないというのです。そんな自分が作り上げた孤独ほど無意味で醜いものはないというのであります。 今預言者エレミヤが立たされている孤独は、そういう孤独ではないのです。いわば運命によって与えられた孤独であります。主なる神から命ぜられた孤独であります。南ユダの罪に対して、同情してはならない、厳しく臨め、涙を見せるなということによって立たされている孤独であります。だからそれは貴い孤独であると言えるかもしれない。それは預言者の運命であるかもしれない。それが預言者の使命であるかもしれない。ある時には民から離れる、民から孤立する、民から嫌われることも引き受けなければ、神の言葉を伝えることはできないのであります。いつも人々に迎合的なことばかりいうのは、偽預言者なのであります。

 主イエスは、「あなたの弟子にしてください。あなたがおいでになるところならは、どこへでも従ってまいります」と言った人に対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には、枕するところがない」といわれて、安易に弟子になることをたしなめられたのであります。人の子というのは、この場合、ご自分のことであります。神の子として、これから自分の歩んでいく道は、最後には十字架の道なのだ、ひとりでその道を歩んで行かなくてはならないのだ、狐には穴があり、空の鳥には巣がある、しかし自分はひとりで十字架で死ななくてはならないのだといわれたのであります。そしてイエスは最後はすべての弟子から見捨てられて、ひとりで十字架の死をとげたのであります。

 真の預言者は孤独であるかもしれない。それは人の一番いやがる罪を指摘し、悔い改めを迫らなくてはならないからであります。あんなに人と交わり、人々と酒を飲み交わして共に喜ぶことを楽しみにしていたエレミヤ、そして悲しんでいる人と共に涙を流して悲しみを共にしたいと思っていたエレミヤは、今人々から遠く離れて、その喜びとその悲しを共有することができないのです。人々の喜びを共に喜び、人々の悲しみを共に悲しむということは、決して迎合的にしていればいいということではないのです。ある時には孤立してまで、涙をみせないという姿勢を保って、神の言葉を、神の裁きの言葉と、神の本当の裁きの言葉を、そうであるが故に、神の恵みの言葉を語らなくてはならないのであります。

 そのような預言者エレミヤに対して、神はこういいます。きっと民から「なせ主なる神はこの大いなる災いをもたらすといってわれわれを脅かすのか。われわれはどのような悪、どのような罪をわれわれの神、主に対して犯したのか」と言われるだろう。その時神は彼らにこういいなさいといわれます。「お前たちの先祖がわたしを捨てたからだ。彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、わたしを捨て、わたしの律法を守らなかった。お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わたしに聞き従わなかった。わたしはお前たちをこの地からお前たちも先祖も知らなかった地へ追放する。お前たちはそのところで、昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしはお前たちに恩恵をほどこさない」といいなさいとエレミヤは告げられるのであります。

 一四節、一五節は、その地から救い出されことが預言されてりおすが、前のところが余りにも厳しいので、これは編集するときにあとから付け加えられた預言だろうといわれておりますので、今日はここはふれないでおきます。

 今預言者エレミヤは、この厳しい神の裁きの言葉を民に伝えなくてはならないのです。そしてもしエレミヤがこの自分の民になんの同情もなく、自分を迫害する民に対して、ただ裁きの言葉をのべ伝えるだけであるなば、むしろ気持ちよく大いばりにこの神の裁きの言葉を述べることができたはずです。しかし、エレミヤは自分の同胞の民を深く愛しておりました。その民に神の厳しい裁きの言葉を伝えなくてはならないのです。彼は一層孤独感をもったに違いないと思います。