「あなたが救ってくださるなら」 エレミヤ書一七章
マルコ福音書一○章二三ー二七節
エレミヤ書の一七章は、雑多な文章が混在しているといわれております。ひとつのまとまりがないということです。一ー四節には、南ユダの罪のことが糾弾されております。五節から八節からは、知恵文学の箴言のような言葉が載せられております。九節から一二節までも箴言のような言葉なのか、あるいは、エレミヤ自身の告白なのか区別がつかないといわれております。一四節からはエレミヤの預言者としての告白であります。一九節から二七節までは、安息日を順守しなさいという律法がのべられております。これはエレミヤのいつの預言なのかもよくわからないのです。南ユダの人々が神の命ぜられた律法を守っていないという一つの例としてここで持ち出されのかもしれません。そんなわけで、この一七章の箇所は一つのテーマで説教をするのは困難ですが、学んでいきたいと思います。
まず一節から始まる南ユダの罪に対するエレミヤの糾弾であります。「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書き付けられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて子孫に銘記されるものとなる」というのであります。
「祭壇の角」というのは、エルサレム神殿の祭壇にある牛の角のことであります。そこでは祭司が罪を贖うために屠られた血をその角に注いで罪を清め、これで罪が消されたという儀式をする場所であります。
預言者エレミヤはそんな儀式をしても、罪は消えるものではないというのです。お前たちの罪は鉄のペンで、ダイヤモンドのたがねで、お前たちの心の板に、お前たちがこれで罪が消されたといって安心したのあ祭壇の角にしっかりと刻み込まれるというのであります。どんなに厳かな儀式をしたとしても、人間の罪は消されることはないというのであります。
その罪とは自分たちの神、ヤハウエを捨てて、他の神々、偶像を拝んでいることだというのです。その罪のために、南ユダは、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされたように、やがてバビロンに滅ぼされ、その地に捕虜として連れて行かれるというのであります。
四節からはそのことがいわれております。「わたしが継がせた嗣業をお前は失う。また、おまえを敵の奴隷とし、お前の知らない国に行かせる。わたしの怒りよって火が点じられ、とこしえに燃え続ける」。
人間の罪は、祭壇とかそうした祭儀的な儀式、宗教的な儀式によっては、消し去ることはできないと預言者エレミヤは、いうのです。エレミヤはアナトテの祭司の息子でしたから、そういう祭儀的な儀式をお父さんのもとで何回も経験してきたことだろうと思います。しかしその儀式が荘厳であればあるほど、エレミヤはその儀式のむなしさを感じてきたのではないかと思います。時々、カトリックとかギリシャ正教の儀式をテレビなどで見ることがありますが、テレビで見ている限りはなんとも厳かなものを感じますが、実際にそうした儀式に参加したときに、こちらがプロテスタントの牧師だからということもあるかもしれませんが、その宗教的な儀式は確かに、洗練され、見事だとは思いますが、またなんと無意味な儀式が行われるものかというも、率直な感想であります。どんなに香ばしいお香がふりそそがれようが、神父が立派な祭服を着て、式文を読んでも、それでどうしてわれわれ人間の罪が消されるのかと思ってしまうのであります。
わたしの世代というのは、戦時中の日本の天皇にまつわる儀式というものを経験してきて、それが終戦を迎えて、その儀式の欺瞞性というものを味わされてきましたので、他の世代の人々以上に、儀式というものに信頼を置けなくなっているというところがあるのかもしれません。
それでは、そうした儀式という、いわば客観的な形式は信頼はおけない、大事なのは、われわれ人間の心の良心の問題ではないかということで、特にプロテスタント教会では、そういう儀式をできるだけ排除してきて、われわれの良心が大事なのだ、われわれの心が大事なのだ、自分の良心の誠実さをもって、悔い改めることが大事なのだといいますが、果たしてプロテスタント的な人間の良心という悔い改めによって、われわれは自分の罪を消すことができるだろうか。
カトリックでは、告悔という制度があります。罪を犯した時、あるいは信者は一年に一度は、司祭の所に行って、自分の罪を告白し、司祭に懺悔して、司祭から罪の赦しを受ける、それによって罪の赦しという信仰を与えられるということが制度として確立しているようであります。しかしわれわれプロテスタントにはそういうものはありません。そういう罪の告白はいかにも形式的で、司祭の罪の赦しの宣言で罪が赦される、罪が消されるとはとうてい思えないからであります。それではわれわれプロテスタントでは、罪の赦しということをどこで実感するのか。カトリックの人々からの批判では、プロテスタントの信者は、結局自分で自分に罪の赦しを言い聞かせるだけではないか、罪の赦しというものを自分のポケットのなかに持ち歩いているだけではないか、そんなはなはだ主観的な罪の赦しが本当の罪の赦しか、自前の罪の赦しなどというものがいかに欺瞞的なものか、人間の心、良心などといものがいかに偽りに満ちたものかと批判するのであります。それはわれわれプロテスタントの教会の弱点をついた批判であります。
九節をみますと、これが預言者エレミヤ自身の言葉なのか、当時人々が伝えてきた箴言的な格言をエレミヤがここに引用しているのかはわかりませんが、こういっているのであります。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか」というのです。これは口語訳では、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれをよく知ることができようか」となっております。ちなみに、リビングバイブルでは、「人の心は何ものよりも欺きやすく,芯まで腐っている。それがどんなに悪質なものかはだれにもわからない」となっております。
われわれ人間の良心などというものも、もともと病んでいる、それは他のなにものにもまして、偽り、欺き、芯まで腐りきっているというのです。リビングバイブルは「人の心は欺きやすく」といっておりますが、それは他の人の心を欺くというよりは、何よりも自分の心を欺くのではないでしょうか。祭儀的な儀式もまた欺瞞に陥いるものですが、それではだめだということで、そうした形式ではなく、われわれの心の良心に訴えたところで、われわれの良心こそ、なによりも自分自身を欺くもので、頼りになるものではないのであります。
預言者エレミヤは、神の言葉を受けて、人々にその罪を指摘し、悔い改めを迫りました。そしてそのように真剣に悔い改めを迫れば迫るほど、人々からあざ笑われ、仲間はずれにされ、迫害をうけました。それでエレミヤは神に訴えます。一五節からみます。
「ご覧ください。彼らはわたしにいいます。『主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい』と。わたしは災いが速やかにくるようにあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じてす。わたしの唇から出たことはあなたの御前にあります。わたしを滅ぼす者とならないでください。災いの日にあなたこそわが避け所です。わたしを迫害する者が辱めを受け、わたしは辱めを受けないようにしてください。彼らを恐れさせ、わたしを恐れさせないでください。災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも砕いてください」と訴えています。
エレミヤが、人々に悔い改めないと、敵の侵略を受けるぞ、といいますと、人々はいつそんなことが起こるのか、そんな兆しはひとつもないではないかと、エレミヤを馬鹿にするのであります。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それをはやく実現させたらどうか、お前はわれわれが滅ぼされるのを期待しているのだろうから」とエレミヤをからかうのです。しかしエレミヤは自分はあなたの言葉を受けて預言しただけで、自分は自ら進んで、人々が裁きを受けて、痛手の日を臨んだことはありません、わたしはむしろあなかから禁止されている執り成しの祈りをして、民の上に災いがこないように祈り続けた、それはあなたが一番よくご存じのはずてす、「わたしの唇から出たことはあなたの御前にあります」と訴えるのです。そしてそれにも拘わらず、人々はわたしを迫害する、それならば、「わたしを迫害する者が辱めを受け、彼らを恐れさせ、災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください」と訴えるのであります。
エレミヤは折角、民に悔い改めを迫り、民が神の裁きに会わないように、神の哀れみを受けるように預言活動をしておりながら、自分の言葉が受け入れてもらえない、逆に自分が迫害に会うと、たまらなくなって、彼らを滅ぼしてくださいと一転して、彼らが痛い目に遭うことを願い出すのであります。これがまたエレミヤという人の弱さであるし、またエレミヤという預言者の率直なところで、かえってこういうところに親しみを感じるところなのですが、それにしても民の幸いを願っていたエレミヤが一転して、今度は災いを願いだすというのですから、まことに「人の心は偽るもので、はなはだしく悪に染まっている、だれがこれをよく知り得よう」ということで、この言葉は、ただの箴言の言葉の引用というよりは、預言者エレミヤの自らの心の中をのぞき込んでの自分自身の痛い経験から出た述懐だと考えることもできるのではないかと思うのであります。
一九節からはエレミヤが神から民に安息日を順守せよいわれ、それを述べているところであります。二一節からみますと、「あなたたちは謹んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また安息日に、荷をあなた達の家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい」と民に命じなさいといわれるのであります。しかし民はこれに聞き従わなかったというのであります。
安息日を順守するという律法が厳しくいわれるようになったのは、エルサレム神殿が破壊され、バビロンという異教の地に捕虜として連れていかれ、自分たちの民族としてのアイデンティティ、自己同一性の自覚が失われそうになっていたときに、イスラエルの人々は神殿での祭儀というものができなくなりましたから、律法を守る、特に安息日を聖別し、順守するということで自分たちの信仰をあらわしたようなのです。
ここではまだエルサレムでのこととして述べられておりますので、この預言がいつ頃のことなのか議論があるところであります。
それはともかく、安息日を特別な日、それをただ神に捧げ、神を礼拝する日として特別な日として聖別する、それによって自分たちの宗教的な自覚を持つということは大変大切なことであります。しかしこの律法は、やがてイエスの時代になりますと、もうこの日には何歩以上歩いてはいけないとか、いっさいの労働はしてはいけないとか、そのように人を縛り付ける律法になってしまって、いわばこの日に人々は、特に祭司、律学者たちは、人を監視し、人を裁く特別な日になってしまったのであります。人を裁くということは、もっとも神の御心にそわないことであります。それをこの神のために設けた日に一番激しく行われるようになってしまったということであります。それでイエスは、安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないといって、安息日にあえて、病人をいやしたりしたのであります。
ここでもまた人間の心の恐ろしさであります。もっとも宗教的な日がもっとも人間の罪が露呈する日になってしまうということであります。人々はこの安息日をもっとも安息できない日として迎えることになるのであります。
九節で「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」というのであります。われわれの心はどんなに逆立ちしても、自分を正当化しようとする動きから解放されることはないのであります。われわれには良心がある、しかしこの良心そのものが自己正当化、自己義認、自分で自分を義と認める方向に動くという自己義認がある限り、われわれの良心こそ一番怪しいということになります。良心こそ一番たよりにならなものはないのであります。それでカトリック教会では、救いの方法として人間の主観性というものをできるだけ排除して、儀式という客観的なものに救いの確かさを求めようとしたのであります。
「心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」というのです。それで預言者エレミヤは、一四節でこう神に訴えるのであります。
「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」
「あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」この信仰が一番たいせなのではないでしょうか。われわれを救ってくれるのは、われわれの良心とか宗教的な敬虔深さとか、あるいは儀式ではないのです。神が救ってくださるならば、この何よりも病んでいるわれわれの心、「心はよろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」というわれわれの心も救われるのであります。
主イエスのところにある金持ちが「何をしたら救われますか」と真剣な思いでやってきました。それに対して主イエスははじめは、律法を守りなさいといいますと、彼はそれらの律法はすべて守っていますと答えます。それでイエスは、それではお前のもっているものをすべて売り払い、それを貧しい人々に施し、お前はただ神のみを信頼し、天に富を預けなさい、そうしてわたしに従ってきなさい、といいます。彼はそれができないで悲しそうにしてイエスのもとを立ち去ったというのです。そしてイエスは「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」といわれるのであります。それを聞いた弟子たちは驚きました。金持ちでない弟子たちですら、これでは救われないと思ったのであります。それで弟子たちは「それではだれが救われるだろうか」と互いに言い合ったというのです。そのときイエスはこういわれるのであります。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれたとのであります。
金持ちは何をしたら救われるか、と聞いたのです。自分が何をしたら、どんなによいことをしたら、どれだけ立派に律法を守ったら、どれだれ良心を鋭くし、信仰をあつくしたら救われますか、と聞いたのです。それに対して、お前がすることは、そうした「自分が、自分が」ということをすべて放棄して、ただ神に信頼する、天に宝を積むということはそういうことなのですが、天に自分のよりどころをおくということです、神にすべてを預けることだといわれたのです。自分に何かをもっている人ほど、それはなにもお金だけでなく、才能とか知性とか、そうしたものをもっている人、もっていると自負している人ほどそれを捨てることは難しいのです。自分のほうから自分のいっさいを捨てて、神に信頼するということは本当に難しいのです。
しかし神にはおできになる、神ならば、われわれからそれらを取り上げることがおできになるというのです。神ならばわれわれから自己義認ということを捨てさせてくれるというのです。そして救ってくれるというのです。
預言者エレミヤも、「あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます」と神に訴えたのであります。ここに預言者としてのエレミヤの立っている地盤があったのであります。ここに預言者エレミヤの信仰をわれわれはみたいと思うのであります。