「陶工師としての神」   エレミヤ書一八章一ー一○節 ローマ書九章一九ー二六節

 預言者エレミヤは、ある時、主なる神からいわれます。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう」。それでエレミヤは陶工の家にいった。そこにひとりの陶工師がいて、ろくろを回していた。陶工師は粘土で一つの器を作っても、気にいらなければ自分の手で壊し、それを作り直していた。そのとき神の言葉が語りかけた。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないというのか。見よ、粘土が陶工の手に中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」そしてこういわれます。「わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。」
 「また、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」

 ここで主なる神はご自分を粘土で陶器を作る陶工師にたとえるのであります。その時、エレミヤが示されたのは、陶工師が自分が作った陶器を自分が気にいらなければ、あっというまにその手で壊してしまうということでした。そしてその壊した同じ粘土という素材を使って、また別の陶器を作っていくという光景でした。これはまだ火で焼かれる前の粘土の状態の陶器であります。その粘土で作られた陶器がまだ陶工師の手の中にある状態であります。

 そのことでエレミヤは何を考えたでしょうか。というよりは、このことで主なる神はエレミヤに何をいおうとしたのか。それは神の自由ということではないかと思います。神は一度作った陶器を自分が気にいらなければ、それをただちに壊すことができる。またそれを作り直すことができるということであります。

 イスラエルの民が悪を悔いるならば、神は民を裁き、壊してしまうのを思いとどめることができる、主なる神はそういう神だということであります。また逆にイスラエルの民が神の声に聞き従おうとしないならば、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直すという自由を神はもっておられるということであります。

 ここで神がご自分を陶工師としてたとえておられることは、ある意味では、大変恐ろしいことであります。神はもし気にいらなければ、ただちにそれを壊すことができる、すべては神の御手の中にあるということだからであります。それはある意味では恐ろしいことであります。しかしまたそれはある意味では大変ありがたいことで、慰めに満ちたことでもあるということではないかと思うのです。なぜなら、神は一度壊すと決めたことを思い直すことがあるというからであります。

 もし神が陶工師という比喩ではなく、たとえば、一種のコンピューターのようなものだとしたらどうでしょうか。つまり、こういう悪いことをしたら、ただちに抹殺、こういう良いことをしたら、継続するというプログラムを機械の中に覚え込ましておく、神がそういうコンピューターを作って、最初にそういうプログラムを作ってしまえば、あとはただそのプログラムに従って進むだけだ、それが神のなさることだとしたら、そこには、神の自由はない、ただ機械のプログラムがあるだけだとしたらどうでしょうか。それは実に味気ないことだし、第一こんな恐ろしいことはないのではないかと思います。

 預言者エレミヤに示された神はそういう機械のような神ではなく、陶工師としての神、思いとどまることができる神、思い直すことがおできになる神だというとであります。それはなんとありがたいことか。

 主なる神はイスラエルの初代の王として、サウルを選びました。しかしこのサウルは最初は神に忠実に従ってきましたが、そのうちに自分の名声を気にするようになり、神に従うよりは、民のご機嫌をとるような王になっていきました。それで主なる神はこのサウルを捨てて、ダビデを次ぎの王にしようとお考えになるところがあります。その時に聖書は、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」と記すのであります。これは口語訳のほうがもっとはっきりとして、「わたしはサウルを王としたことを悔いる」となっております。ところがそのあとのところで、口語訳では、「イスラエルの栄光である神は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから、悔いることはない」と記すのであります。前のところで、神は「悔いる」と書いてしまったので、それをあわてて訂正するような文章がでてきて、おもしろいとろであります。

 ところが新共同訳聖書ではそこをこう訳しているのです。「イスラエルの栄光である神は、偽ったり、気が変わったりすることはないかただ。このかたは人間のように気が変わることはない」と訳しているのであります。「悔やむ」と一度書いているので、それをあわてて訂正するのはみっともないと思ったのか、本来なら「悔やむことはない、このかたは人間のように悔やむことはない」と訳すべきところを少し変えて「気がかわることはない」と訳しかえているのはおかしなところであります。それはおそらく、神が悔やむということはあからさまにしたくないからそういう訳になったのかもしれないと思います。しかしそのあと、新共同訳聖書でも「主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた」とちゃんと訳しているわけです。もともと同じ言葉なのにそのように少しニュアンスを変えて訳してしまうのはどうかと思います。

 それはともかく、神はサウルを王にしたことを悔いる、とはじめは書いていて、あわてて、あとでそれを訂正するように、神は人間ではないかから、悔やむとか、悔いるとか、後悔するなんてことはあってはならないと書いているところはおもしろいところであります。
 しかし、創世記をみれば、神が最初に人間を作られた時に、その作ったアダムとエバが神に反逆し、罪を犯した、その罪はどんどん広がっていった時に、あのノアの大洪水をもって、もう一度人類を再創造しよう思われたときに、創世記はこういわれたと書き記しているのであります。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。ひとだけでなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれを造ったことを後悔する」と、はっきりと記しているのであります。この部分はいわば神話に属する記事だから、神が後悔してもおかしくないということでそのままにしたのかもしれません。

 しかし神が気が変わる、神も後悔したり、悔やんだり、悔いたりする、そこにわれわれはむしろ生き生きとした神様の姿を思い浮かべることができてほっとするのではないかと思うのであります。神は決して一度こうだと決めたことは、一度こうだとプログラムに組み込んでしまったことは変えようとしない、変えられないんだとなったら、われわれはかえってもう生きる望みを失ってしまうのではないかと思うのであります。

神は陶工師のようなかたで、一度造ったものをこわしたり、また作り直したりすることがおできになるかただ、神は思い直し、思いとどめることをなさるかたであり、思い直すことがおできになるかただというイメージをもつことは大切なことだと思います。

 パウロがやはり神を陶工師としてたとえているところがあります。ローマの信徒への手紙九章のところです。ここは選民イスラエルは、神に捨てられたのか、もう選民ではなくなったのかということをパウロが問題にしているところであります。
 「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』といえようか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを、寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられるた者にたちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」
ここでパウロがいっていることはこういうことであります。神は陶工師のように自由に器を作ることがおできになる。貴いことに用いる器にも、そうでないものに用いる器にも造る自由な権限をもっておられるかただ。だからその貴くない器、あまり価値のない器を壊すこともできる。できそかないといって、怒って壊すこともできる。しかし神はその怒りの器を、滅びることになっている器を、寛大な心で耐え忍んでおられるのだということであります。

 これは具体的には、今イエス・キリストを拒否している選民イスラエルは、神に捨てられてしまうのかということを同じイスラエル人であるパウロが非常に心配して論じているところなのですが、結論からいいますと、神は一度選民として選んだイスラエルの民を決して捨てないということを論じているところなのであります。

 神は一度選んだイスラエルの民を捨てる自由と権限をもっておられる、ちょうど陶工師が一度造った陶器を壊すことができるように、捨てることができる。しかし神はその自由を壊すということに用いようとはしないで、あくまで忍耐強く、寛容な心をもって悔い改めるのを待つということに用いておられる、ということをいおうとしているとろであります。

 われわれの救いは、この神の自由な憐れみの意志にあるということをいおうとするのであります。救われるということは、この神の自由な選び、その選びを信じるかどうかにかかっている。自分たちのわざとか信仰とか、一度選民としてえらばれたのだからとか、そういう特権意識を持ち出して、自分たちは救われる権利があるのだというようなことはいえない、ただ神が憐れんで救ってくださるという神の自由な選びを信頼する以外にないということなのであります。

 その前のところで、一四節からのところで、パウロはモーセの言葉を引用して、神はモーセに「わたしは自分で憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ」といって、従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるというのです。これは、というのは、われわれが救われるかどうかということです。それはわれわれ人間の意志や努力によるのではなく、ただ神の憐れみによるというのです。

 ここでパウロは、神は「わたしは憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉を引用しますが、その論理からいえば、当然「神は滅ぼそうと思う者を滅ぼす」という言葉が続いてもいいところですが、神はそうはいわないということなのです。神の意志は、神の自由な意志は、「憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」ということだけに用いられるというのであります。

 神が預言者をこの世に遣わすのは、ある時には神の裁きを伝えるためであることは確かであります。特にエレミヤを預言者として召し、遣わしたのは、この神の裁きを伝えるためでした。しかしそれはその裁きを伝えることによって、神の本来の意志は、それによって民が悔い改めるようにということだったのであります。悪を思いとどまるようにということだったのであります。
 
 神は今エレミヤを陶工師ところにつれていき、その陶器を作っている様子をみせて、その粘土でできた陶工、まだ炉の中に入れられていない状態の粘土のままの陶器を見せて、今なら、この粘土の陶器は作り直すことができる、まだ陶工師の手の中にあるからだ、ということを見せて、今なら、まだイスラエルが悔い改めたら、神はその裁きを思いとどめ、思い直すことができるということを示そうとされたのであります。

 神は自由なかたなのであります。決して機械のような、コンピューターのような、一度プログラミングしてしまったら、あとはそのプログラムに従って動くだけだというようなかたではない。悪いことをしたら、自動的に有無をいわせず、滅ぼしていくというような機械ではないというとであります。

 神は自由なかたであります。そして神はその自由をあくまで、どこまでもわれわれ人間を忍耐強く、救おうとなさるために持ちようとしておられるかただということであります。神が自由なかたであるということは、神は柔軟性をもったかただということであります。ある時には、サウルを王として選んだことを悔いるかた、そしてご自分がそのように悔いることを隠そうとしないかただということであります。それであわてて、聖書は「神は人ではないから、悔いることはしない」と書かずにはおれない自由なかただということであります。

 神がそういう自由なかたであるならば、それに対してわれわれ人間のほうでももっと自由なものにならなくてはいけないのではないか。そういう意味では、預言者エレミヤは自由な預言者だったのではないか。
 エレミヤは、神からの厳しい言葉を人々に告げると、人々から激しい迫害を受けます。一八節からみますと、「われわれはエレミヤに対して計略をめぐらそう」といってエレミヤを捕らえてしまおうという計画がなされるのであります。それを知ったエレミヤは、神に訴えます。
 「主よ、わたしに耳を傾け、わたしと争う者の声を聞いてください。悪をもって善に報いてよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして、落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばい、あなたの怒りをなだめようとしたことを御心に止めてください」と訴えます。自分は神の裁きを伝えながら、一生懸命民をあなたにとりなしてきた。彼らをかばい、あなたの怒りをなだめてきた、自分はそういう善をしてきた、それなのに、今彼らはわたしの命を奪おうとして穴を掘っている、わたしの善に悪をもって報いようとしている、そんなことがあっていいのでしょうか、と訴えるのであります。

 そしてエレミヤは率直にこういいます。「彼らの子らを飢饉に遭わせ、彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり、夫は殺戮され、若者は戦いで剣に打たれますように」と訴えるのであります。全く預言者らしくないことを神に訴えるのであります。そして「主よ、あなたはご存じです。わたしを殺そうとする彼らの策略を。どうか彼らの悪を赦さず、罪を御前から消し去らないでください。彼らが御前に倒されるよう、御怒りのときに彼らをあしらってください」と訴えます。

 全く預言者らしてくないことを神に訴えるのであります。こういうところは、よく聖書の注解者は、これは「敵を愛せよ、復讐するな」といわれたイエスの言葉に反する言葉で、ここに旧約聖書の限界があるなどと説明するのですが、そんなことはない、あのパウロだって、福音に反するものは、呪われてしまえと手紙に口汚く書いているのであります。

 確かにこういうエレミヤの言葉をわれわれは読みたくはないかもしれません。みっともないと思うかもしれません。しかし、もし自分がエレミヤの立場に立たされたとしたら、同じようなことを、いやもっと弱音を吐くに違いないと思うのです。ここには、エレミヤという預言者が決して堅い教条主義者ではなく、まことに生き生きとした人間としてわれわれの前に描かれているのはないかと思うのです。預言者も人をののしり、自分の弱さを神に率直に訴えて、自分だけを救ってくれと訴えている、そういうまことに生きた生身の人間なんだと知ってわれわれは救われるのではないか。エレミヤという預言者は自分の民のために必死にとりなしておりながら、自分が危機に会うときには、もうこの民のことなんか知らない、この民を滅ぼしてくれて神に訴えることのできる、実に柔軟性を持った人だということであります。これは悪い意味の柔軟性かもしれませんが、しかし良いことだけではなく、悪いこともできるということは、やはり柔軟性をもっいるという証になると思うのです。ともかくそういう柔軟性をもった人間であることは明らかであります。

 それを神にぶっつけている。このことが大事だと思うのです。あくまで、神にこのことを訴えている。これはある意味では神に対する甘えかもしれないと思います。こういうことを訴えても神は赦してくださる、この自分の気持ちをわかってもらえるという甘えから、こういう訴え、祈りができるのかもしれないと思うのです。

 それはエレミヤが信じている神が、決して機械ような冷たい、いわば人情の機微をしらないかたではなく、ご自分の意志をもって、しかも憐れみの意志をもって自由に決断なさるかた、決して神は教条主義者のように凝り固まったかたではなく、いつでも悔いたり、後悔したり、こうだと一度決めたことを変えることもできるかた、思いとどまり、思い直すことのできるかただということをエレミヤはよく知っている、そのよにう信じていたから、エレミヤはこのような率直な祈りをすることがてぎたのではないかと思うのであります。

 われわれがどんなにじたばたしても、どんなにあがいても、神の憐れみの御手の中にいることをエレミヤはよく知っているから、このように祈り、訴えることができたのであります。