「神に惑わされ、捕らえられ」エレミヤ書二○章 ヨハネによる福音書二一章一五ー一九節
 
 今日はエレミヤ書の一九章から二○章にかけて学んでいきたいと思います。一九章には預言者エレミヤは、主なる神から再び陶器師のところに行ってこいといわれます。そしてそこで壺を買い、民の長老、祭司の幾人かをつれてベン・ヒンノムの谷に行って、そこで語れといわれます。そのベン・ヒンノムの谷に行く前に、陶片の門といわれるところを通っていくのです。陶片の門とは、どうも陶器を捨てるゴミ捨て場のようであります。陶器の瓦礫があるところのようであります。そしてベン・ヒンノムの谷とは、そこで人々が偶像礼拝をしているところ、特にイスラエルでは厳しく禁じられている子供を殺して神々に捧げる、そういう人身御供、幼児を捧げるという礼拝が行われている場所のなのであります。そこでエレミヤは、このような偶像礼拝をしている限り、神の裁きを逃れることはできない、その証として、買ってきた壺を叩き壊せと命ぜられるのであります。
 
先日学んだ一八章は、まだ陶工の手のなかにある粘土の状態の器であります。それはまだ作り直すことのできた器であります。しかし今度はもう炉で焼かれてしまった陶器であります。その陶器は一度砕かれたらもうもとにもどらない、完全に粉々になってしまうのであります。そのように神はイスラエルを徹底的に裁くと人々に語れと命ずるのであります。一九章一五節
 「イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを堅くし、わたしの言葉に聞き従うとしなかったからだ。」

 このことを主の神殿の最高監督者の祭司、パシュフルが聞いた。それでただちにエレミヤを捕らえ、鞭で打ち、主の家の上手にあるベニヤミンの門に拘留したのであります。そして翌日エレミヤはその拘留を解かれた。エレミヤはただちに自分を捕らえたパシュフルにいいます。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。」
 ここでエレミヤは今まで、北とか、外国の勢力として語ってきた敵がバビロンであることを名前をあげて語りだしたというのです。
 
 更にエレミヤはパシュフルに対してこういいます。「お前は一族の者と共に捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に」というのであります。

 預言者エレミヤはどんなに捕らえられ、鞭打たれ、脅されても、主なる神からこう告げよといわれた神の厳しい裁きの言葉を語るのであります。ここをみますと、エレミヤはどんなに堂々とした預言者かと思われるのであります。
 ところが、その後の二○章の七節からみますと、一転して預言者エレミヤという人がどんなに弱い人間であるかをわれわれに伝えております。
 
 「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らわれました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばすにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。」

 この訳は少しわかりにくいところがあります。リビングバイブルはこう訳しています。「ああ、神様、あなたは助けてやると約束しておきながら、私を欺きました。神様は私よりも強いかたなので、お告げを伝えないわけにはいきません。ところが今、私は町中の笑い者になり、だれからもばかにされています。神様はただの一度もわたしが彼らにやさしい言葉をかけてやるのを、お許しになりませんでした。私が話すのはいつも決まって、災害や恐怖、それに滅亡でした。彼らが私をあざけり、ばかにし、物笑いの種にするのは当然です。」

 預言者エレミヤは、神からいつも裁きの言葉、しかも激しい裁きの言葉、「それは不法だ、そんなことをしていたら滅亡だ」と民に語りつづけなければならず、だから民から迫害を受けるのは当然だというのです。自分としてはもっと優しい救いの言葉、慰めの言葉を語りたい、そうしたら自分だって人から手厚く遇され、「今日の説教は良かった、慰められました」といわれるのにと、エレミヤは嘆くのであります。そういう自分のことをエレミヤは、「あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らわれました」というのです。これは少女が暴力で捕らえられ、陵辱される様子をあらわしているのだといわれております。

 それでエレミヤはもういやだ、もうの主の言葉は語りたくないといって、語るまいと決めても、そういうわけにはいかないと告白します。九節です。
「主の名を口すまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉はわたしの心の中、骨の中に閉じこめられて、火のように燃え上がります。押さえつけようとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と告白します。

 エレミヤは、始めて主の言葉を受けた時、それは喜びだったと告白しているところがありました。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉はわたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」といっているのです。これはヨハネの黙示録とかエゼキエルのところでは、神の御言葉は、それを最初受け止めた時には、甘い蜜のように心地良かったというのです。しかしそれを食べて腹の中に入れてみると、それは苦くなったといわれております。

 エレミヤも同じだったのです。最初預言者として神の御言葉を受けた時には、喜びだった、むさぼり食べた、それは蜜のように甘かったからであります。しかしそれはだんだん苦くなった。その主の言葉を人々に伝えれば伝えるほど、それは人々を恐怖に陥れる言葉となり、その結果自分が迫害されることになったからであります。自分はまるで神に騙され、捕らえられ、陵辱される少女のようだというのであります。

 神の言葉を語る預言者はみなそのように神の言葉を語るのであります。そのようにして語るようにならないと、神の言葉を語るということにはならないということだろうと思います。

 ヨハネによる福音書に、主イエスがペテロにこういうところがあります。復活の主がペテロに対して、「お前はわたしを愛するか」と三度尋ね、それに対してペテロが「主よ、あなたはなにもかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、心痛めながら答えたあとです。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは若いときには、自分で帯びを締めて生きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯びを締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」といわれるのです。そしてそのあと、聖書は、これはペテロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになることだといいます。そしてそのあとイエスはペテロに対して「わたしに従ってきなさい」といわれたのであります。

 ペテロは若いときには、若いときといいましても、これは主の十字架と復活を経験する前はということです。つまり一年も前の話ではないのです。そのイエスの十字架と復活を経験をする前は、お前は自分のいきたいところを自由に行っていた。それはなにもペテロが我が儘に、自由奔放にふるまっていたというのではないのです。イエスに召されてからペテロはペテロなりに、自分を捨てて、一切の財産を捨てて、あるいは家族を捨てて、イエスに従い、イエスの弟子にふさわしく、イエスに従っていたのです。しかしそれでもそれはペテロが自分で考えた正義と自分の考える愛で人々に接していた、自分のやりたいことで、結局は自分の愛と正義を生きてきただけだということです。その結果があの主の十字架を前にしてのイエスに対する三度の否認になった、そして十字架にかけられたイエスを見捨てて逃亡することになった。しかしこれからは、そうではない。他の人がお前に帯びを締めて、行きたくないところにつれていくようになるだろう」といわれるのです。そしてその時にお前は本当のわたしの弟子になることができ、本当の伝道者としての道を全うすることになるのだというのであります。

 伝道者の道というのは、ある意味では、預言者の道と同じで、エレミヤがいうように「惑わされ、捕らわれて」そして、結局は、自分がゆきたないとことろに、神によってつれられていくのであります。

 あのヨナという預言者もまさにそうであります。ヨナは神から悪を犯しているニネベの町にいって、神の裁きの言葉を述べよといわれます。ヨナはそんなのはいやだ、そんな裁きの言葉を述べに、わざわざニネベの町にいったら自分は嫌われるだけで、迫害を受けるだけでいやだといって、タルシシに逃げていこうとして、舟に乗った。ところが嵐が来て舟が沈みそうになった。人々はこれはきっと誰かの原因でこの嵐にあったのだ、だれかということでくじをひいたら、ヨナに当たった。ヨナは自分が神の命令に応じないで逃げているわけですから、確かに自分が原因だということを認め、それなら自分を海に投げ込んでくれといいます。人々は嵐を鎮めるためにヨナを海に投げ込みますと、ところが神はそのヨナを大魚に食わせた。ヨナは三日三晩、大魚の腹の中にいて、三日目にその腹から追い出されて命を助けられるのであります。

 ところがしばらくすると、再び神からニネベに行けといわれる。今度は仕方なく、ヨナはニネベにいって神の裁きの言葉を述べるのであります。すると、なんとしたことか、ニネベの町の人は悔い改めて悪を離れてしまい、神の裁きはくだらなかったのです。それでヨナは自分の預言者としてのメンツがまるつぶれたと思ってふてくされるのであります。「だから自分はニネベに来て、神の裁きの言葉を述べたくなかったのだというのです。あなたは恵み深く、慈しみに満ち、怒ることおそいかただから、きっと自分が裁きの言葉を述べても人々がちょっと悔い改めたら、あなたは思い返されるだろうと知っていた、たがら自分はニネベにきたくなく、タルシシに逃げたのだ」と神に不平をいいます。

 ヨナはふてくされて町の遠いところに小屋を造り、その日陰にすわっていた。それで神はあわれに思ってそのヨナのために暑さしのぎのためにとうごまの木を植え、育てて、日陰を作ってあげた。ところがそのとうごまの木は一日にして虫にくわれ、枯れてしまった。それでヨナはまた怒り狂い、自分は怒りのために死にそうだと神に文句をいいます。すると神はこうヨナにいうのであります。
「お前は自分で労することも育てることもしなかったとうごまの木が一夜にして枯れたことを惜しんでいる。それならば、どうしてわたしがこの大いなる都ニネベの町が惜しんで滅ぼすことをやめたことを、お前は文句をいうのか」というのであります。
 ヨナという預言者は、まさに神に捕らえられ、いや神に騙されて、ニネベの町に行って神の裁きを述べ、そして神に騙されてニネベの町を救ってしまうのであります。

 問題は、ヨナは神の何に騙され、神の何に捕らえられていたかということであります。それはヨナ自身が知っていたように、つまり神が恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに満ち、災いをくだそうとして思いなおされるかただと知っていたように、ヨナは神の憐れみと慈しみに捕らえられていたということ、それにいわば惑わされたということであります。
 
 今預言者エレミヤも、「あなたに惑わされ、捕らえられて、人々の迫害を受けることになり、一日中人々のあざけりの中に立たされている」と、神に文句をいっておりますが、そしてエレミヤの場合には、ヨナの場合よりもその置かれた状況はもっと厳しいようであります。一四節からみますと、「自分の生まれた日は呪われよ」というほど、自分の生を呪わざるを得ないほどに苦しい状況にたたされています。それでもエレミヤは、心の奥底には、自分が結局は神の慈しみと恵みと、憐れみによって惑わされ、捕らえられ、預言者として立たされているのだということは信じていたのであります。十一節をみますと、「しかし主は恐るべき勇士として、わたしと共にいます」と、確信していたからであります。

 一一節からエレミヤはこう神に訴えているのであります。「しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます。それゆえにわたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ、わたしに見せてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。ここには、あのヨナと同じように神の愛を信じているが故に、神にただをこねているエレミヤの姿を見ます。
 
エレミヤは自分を迫害する者を、彼らが恥辱に会うことを確かに望んでいますが、しかしエレミヤはそれをあくまで、「わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします」と、最後は神にすべてを委ねるのであります。それはエレミヤが自分のもっている正義感とかを絶対に正しいとするのではなく、最後は神の正義と、神の愛に自分を委ねることができたということだと思います。

 預言者エレミヤは、そしておおよそ、その預言者が本当の預言者ならば、神に捕らわれ、ある意味では、神に惑わされて、預言者として立たされているのであります。それでは預言者は、エレミヤは全く奴隷のような生涯を送ったのか、彼には全く自由というものがなかったのかといえば、決してそんなことはなかったとも思います。いわゆるエレミヤの告白という箇所では、こんな弱気をみせるエレミヤですけれど、ひとたび、人々の前に立てば、たとえそれが国家の権力の象徴である祭司であろうと、彼はパシュフルに対して堂々と神の言葉を伝えることができたのであります。
 
 エレミヤは実になにものをも恐れない自由をもっておりました。彼は人を恐れませんでした。人を恐れないということは自由に行動できたということであります。自由ということで一番大事なことは、行動能力の自由ということであります。どんなに内面的に自由だ自由だ、自分は何でもできるんだといばっていたとしても、人の前に出た時に、社会の前に出たときに戦々恐々として何もできないのでは、それは絵に描いた餅、絵に描いた自由で、自由でもなんでもないのです。
 
 大切なことは、行動能力の自由であります。人を恐れない、人に媚びないということであります。それはエレミヤが何よりも神に捕らわれていたからであります。神の愛と神の正義に捕らわれていたからであります。だから彼は自分に対するこだわりから自由で、自分から解放されていたのであります。

 われわれの人生も必ずしも自分の思い通りに事が運ぶわけではなく、自分にとって本当に苦い経験を味をわなくてはならないこと、不本意なことはいくらでもあると思います。しかしわれわれの人生は、われわれの背後に神の愛と慈しみと恵みによって捕らわれているのだということを信じていきたいと思うのです。ある時に神に騙され、惑わされているのではないかと思わざるを得ない時もあると思います。しかし、われわれはその時にも、神の大きな大きな愛をもって、長い目で、広い目で、深い思いで、自分の人生をみていたいと思います。そしてわれわれのこの世界の歴史も最終的には、神の正義によって、導かれているをことを信じていきたいと思うのであります。