「若者にすぎないと言うな」 エレミヤ書一章四ー一○節 第二コリント四章七ー一五節

 エレミヤは主なる神から「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」といわれた時、こう言うのです。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と。するとただちに、主なる神の言葉が返ってきた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。
 
 「わたしは若者にすぎません」というエレミヤの言葉は、ただ年齢的に若いということだけでなく、自分はとてもそれにふさわしい人間ではありませんという意味だろうと思います。それは当然であります。
これは神から召命を受けた者がだれでも感じることであり、また感じなくてはならないことであります。預言者イザヤも神殿の中で聖なる神にお会いした時、「災いだ、わたしは滅ぼされる、わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と、聖なるかたの前に立たされた時、自分の汚れを感じたのであります。
 聖なるかたの前に呼び出される時、自分はそれにふさわしい者だと感じる人は一人もいないのであります。

 あのモーセの時もそうでした。モーセは神から「わたしはお前をエジプトの王ファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」といわれ、エジプトからの脱出、出エジプトの指導者になれといわれた時に、モーセは「わたしは何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださなねばならないのですか」と言ったのであります。自分にはとうていそんな資格はありません、と答えたのであります。

 主なる神はそういうモーセを出エジプトの指導者として選んだのであります。

 そういうモーセを、というのは、その以前のモーセ、もっと若かったモーセは自分は自分の同胞の民イスラエルをエジプトの圧政からなんとか救いだそうと血気にはやっていた時があったのです。モーセはある時、街を歩いていたときに、自分の同胞の民がエジプト人からの重労働にあえいでいる姿に出会うのです。それまではモーセは不思議な運命で、イスラエル人でありながら、エジプトの王宮のなかで生活していたのです。王宮から一歩外へ出てみると、自分の同胞の人間がいじめられているのを見た。それでモーセはあたりを見回し、だれもみていないのを確かめて、いじめているエジプト人を打ち殺して密かに砂の中に埋めてしまいます。そしてその翌日、また街にでてみますと、今度は自分の同胞の者達が、仲間うちで喧嘩をしているところに出会った。それで彼は「どうして自分の仲間を殴るのか」とたしなめた。今は仲間うちで喧嘩などしている場合ではないだろうという思いでそういうのであります。そうしますと、彼らはモーセにこういいます。「誰がお前をわれわれの監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりなのか」というのです。そ れを聞いて、モーセはびっくりしてしまった。自分がエジプト人を密かに殺したことがもうみんなに知れ渡っていることを知って、このまま王宮に帰ったら、自分は殺されると知ってただちにミデアンの地に逃亡するのであります。現にもうこの時エジプトの王はモーセを殺そうと追っ手を出しているのです。

  神はあの血気にはやってエジプト人を殺したモーセ、そうした正義感一杯のモーセを指導者として選ばないで、エジプト人を殺してしまい、それが発覚して、自分は殺されると恐れ、逃亡していったモーセを、出エジプトの指導者として召すのであります。聖書は、彼がミデアンの地に逃亡してから、「長い年月がたち、エジプト王は死んだ」と記しております。モーセはその地で妻をみつけ、子供を産んでいるのです。長い年月が経ち、直接エジプトに住んでいないということもあって、自分の同胞の民がエジプト人からの圧政に苦しんでいるなどということはすっかり忘れていた時であります。しかし、神はご自分の民が苦しんでいるのを忘れてはいなかったのであります。

 そのモーセを神は指導者とし召したのであります。もうすっかり自分の正義感を忘れ、忘れようとしていたモーセ、自分の正義感などというものがいかに底のあさいものであるかを知っているモーセ、迫害にあったら、たちどころに逃げ出してしまうモーセ、「わたしは何者でしょう、どうしてわたしがファラオのところに行き、イスラエルの人々を導きださねばならないのですか」と尻込みするモーセを、神は出エジプトの指導者として召すのであります。

 それはイエスの弟子達についてもいえることであります。ペテロがそうでした。イエスが自分が捕らえられ、十字架にかかって殺されるのだ、その時お前達はみなわたしにつまずくと弟子達に告げた時、ペテロは「たとえみんながあなたにつまずいてもわたしだけはつまずきません。たとえ自分があなたとご一緒に死ななくてはならなくなっても、自分だけは決してあなたを知らないなどとはもうしません」というのであります。そのときイエスはペテロに対して、「お前は鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないというだろう」と予告するのであります。その予告はその通りになるのであります。

 復活の主イエスは、十字架のイエスを見捨てて逃亡したペテロに対して再び会いました。そしてイエスを三度否認したペテロに対して、「お前はわたしを愛するか、この人たち以上にわたしを愛するか」と三度続けて問うのであります。三度目にわたしを愛するかと問われた時に、ペテロはいたたまれなくなって、「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えます。これは「わたしのあなたに対する愛がどんなに頼りないものかということはもうあなたはご存じです。しかしそれでもわたしはあなたを愛します」という思いが込められているのです。

 主イエスが三度にわたって、「わたしを愛するか、この人たち以上にわたしを愛するか」とペテロに問うたのは、なにか意地悪いように思われるかもしれませんが、それはペテロにはっきりと自分の弱さを自覚させるために必要なことであったのであります。そうした上で、主イエスは「お前は若いときには、自分で帯びを締めて、自分のおもいのままに歩き回っていた」というのです。つまり、お前はただ自分の勇気と自分の正義感と、自分の思いだけで生きてきたということです。それがどんなにひ弱いものであり、身勝手なものであつたかを知っただろうというのです。そしてイエスはペテロに対して続けてこういいます。「しかしこれからは、年をとってからは、ほかの人がお前に帯をしめて、お前がゆきたくないところに連れていくだろう」と告げるのであります。「年をとってからは」というのは、なにも老人になってからというのではなく、これからは、という意味であります。つまり、自分の弱さを本当に知ったあとは、ということであります。
 
 神はエレミヤに「若者にすぎないと言ってはならない」というのであります。これはただ自分の限界を忘れなさいということではないと思います。自分の限界をはっきりと自覚したうえで、しかしその弱い、若者にすぎないお前を神がこれから万国の預言者として召すのだということを知って、それを信じてこれから生きよということであります。神はエレミヤにこういわれるのです。「わたしがお前をだれのところに遣わそうとも、わたしが命じることをすべて語れ、彼らを恐れるな。わたしがお前と共にいて、必ず救いだす」といわれるのです。 

 神を信じて歩むということは、自分が神のようになって生きることではないのです。アダムの犯した罪はそのように生きようとしたことでありました。神を信じて歩むということは、自分の限界、自分の弱さというものは、あくまではっきりと自覚したうえで、しかもその自分の限界のなかで閉じこもってしまって生きるのではなく、この弱い自分を活かしてくださるかたがおられるんだということを信じて歩むということであります。

 モーセが自分がそのためにイスラエルの民を導こうとしたカナンの地に入ることができないで、カナンが見渡せるヨルダン川の手前で死ななければならなかったのは、モーセがいちどだけ聖なる神をないがしろにしたことがあるからだと聖書は語ります。

それはどういうことだったかといいますと、モーセがイスラエルの民を導いて出エジプトを果たし、カナンの地にいく途中、砂漠をさまよっていたときに、飲む水がなくなり、民衆からもうこんなことならまだエジプトにいたほうがよかったと嘆かれた時であります。モーセは困り果てて神に祈りました。神はモーセにそばにある岩を杖で叩いて水をだせといわれて、岩を杖で叩くと水がでて、それが民の渇きを救ったということがありました。そして再び、荒野をさまよい続けていたときに、同じような事態に陥るのです。その時もまたモーセは神からの指示がありました。その時神はモーセにこういうのです。「杖を手に取り、岩に命じて水を出せ」と言われたのです。しかしモーセはその神の言葉を慎重に聞いていませんでした。「杖をとれ」といわれたので、当然前と同じように、杖で岩を叩いて水をだせといわれたと勝手に思い込んで、岩を叩いて水をだしたのです。水は出たのですが、主なる神からこういわれてしまうのであります。「お前はわたしを信じることができないで、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえに、お前はわたしが与える土地に入ることはできない」といわれてしま うのであります。

 つまり、モーセはもうことの時は、指導者として自信をもってしまっていた。まるで自分の人間としての限界を忘れ、自分が神のような指導者になってしまっていたのであります。そのために神の言葉をろくろく聞こうともしないで、自分のかつての経験から、岩を杖で叩き水をだしてしまったのであります。なれっこになってしまうということはこわいことであります。自分に自信がついてしまうということは恐ろしいことであります。自分は神があっての指導者だということを、モーセはこの時忘れていたのであります。「自分はなにものでしょうか。どうしてイスラエルの民をエジプトから導きだせるでしょうか」と神に言ったモーセの姿はもうないのです。あの初々しいモーセは失われているのであります。

 ですから、神を信じて歩むということは、自分の人間としての限界、自分の若さというものを忘れていいということ、忘れなくてはならないということではないのです。むしろ、絶えずその限界を自覚していなくてはならない。そうでなければ、われわれはその都度、その都度、神を信じて歩むという初々しい信仰を失ってしまうからであります。

 パウロはこういいます。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」といいます。自分の力が、ただ自分の中から出るのではないということを明らかにするために、われわれは神の恵みという宝を、土の器という大変もろい、脆弱な器の中にもっているというのです。ですから、自分はもろい、弱い土の器にすぎないということは絶えず自覚してる必要があるというのです。そうでなければ、われわれは何かで失敗して倒れてしまった時に、もう二度とそこから立ち上がれなくなってしまうからであります。しかしわたしを活かす力はただ自分の中からだけでなく、自分の外から与えられるという信仰をもっているならば、どんなに失敗しても、何回倒れても、いくど途方にくれても、そこか立ち上がれるではないか、そのときに望みを失わないでいられるではないかと、パウロはいうのです。「並はずれて偉大な力が私達から出るものでないことが明らかになる」ということが大事なのです。

 そのパウロが合い言葉にしていたのは、「弱い時にこそ強い」という信仰だったのです。

 自分の限界を知ることは大変大切であります。しかしそこだけにとどまっていてはならないのであります。預言者はエレミヤは「若者にすぎないといってはならない」と神からいわれるのです。「わたしがあなたと共にいて、必ず救いだすのだから、どこへゆこうともわたしが命じることを語れ」といわれるのです。

 自分の限界だけを見つめてもなんにもならないのです。自分の罪を知ることは大切であります。しかし自分の罪だけを見つめても、そこからは何も生まれないのです。うなだれるだけであります。落ち込むだけであります。それによって人からあいつは謙遜なやつだといわれるかもしれませんが、ただそれだけの話であります。 

 主イエスのたとえ話にでてまいります、ファリサイ派の律法学者と徴税人の祈りのたとえにでてくる話、ファリサイ派の人は堂々と自分を主張して神に祈りましたが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともしないで、胸をうちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るのです。主イエスはそのたとえ話をしたあと、神によって義とされたのは、あの自己主張するファリサイ人ではなく、この徴税人なのだといわれたのです。大事なのは、この主イエスの言葉です。あの徴税人のうなだれている謙遜な姿勢ではないのです。天を見上げることのできないのでは、信仰に生きていることにはならないのです。自分は何もできない、自分は罪人だとうなだれている、その自分に、わたしはお前の罪を赦すという主イエスの赦しの言葉を聞いて、今度は目を天にあげることであります。そこから信仰が始まるのであります。

 パウロはローマ人の手紙の十二章でこういっています。「自分を過大に評価するな。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきだ」というのです。ここだけをみていたら、いつも自分の限界のなかだけにとどまれと勧めているように思われるかもしれません。しかしすぐその前の箇所では、パウロはこういっているのです。「神の憐れみによってあなたがたに勧める。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。あなたがたはこの世に倣ってはならない。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえよ」いっているのです。そうしたうえで、だからといって、自分を過大に評価して思いあがるなと釘をさしているのであります。そこでは「自分を変えていただきなさい」といっているのです。やはり自分を絶えず変えていかなくてはならないのです。

 一タラント渡されたものは、自分が一タラントしか与えられなかったからといって、それを亡くすことを恐れて地面に隠しておいてはいけないのです。亡くしてしまうかもしれませんが、しかしその一タラントで商売しなくてはならないのです。

 「わたしは若者にすぎません」という自覚もっていること、しかしそれ以上に神のエレミヤに対する励ましの言葉、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがお前と共にいるから、恐れるな」という神の励ましを受けて、それに支えられて、自分を変えていただいて、この一年も歩んでいきたいと思うのであります。