「命の道と死の道」 エレミヤ書二一章 マルコによる福音書八章三四ー三七節

 ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ゼファニヤがエレミヤのところにやって来ました。ここに登場しますパシュフルは二○章に出てまいります主の神殿の最高監督者である祭司パシュフルとは違う人物であります。この二人が預言者エレミヤに尋ねます。
 「どうかわたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルが私達を責めようとしている。主はこれまでのように驚くべき御業を私達にもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう」。

 それに対して預言者エレミヤはこう答えます。「ゼデキヤにこう言いなさい。イスラエルの神、主はこういわれる。見よ、お前たちはバビロンの王やカルデヤ人と武器を手にして戦ってきたが、わたしはその矛先を城壁の外から転じさせ、この都の真ん中に集める。わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前たちに敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う。そしてこの都に住む者を、人も獣も撃つ。彼らは激しい疫病によって死ぬ。その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤしその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生きのびてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。」

 ゼデキヤ王が預言者エレミヤにお伺いを立て、「主なる神はこれまでのように驚くべき御業をわたしたちにもしてくれるかも知れない」と期待をもったのは、かつてアッシリアが南ユダを責めて来たとき、南ユダがそのアッシリアから奇跡的に救われたことを指しております。アッシリアが責めて来たとき、南ユダの王ヒゼキヤは大変あわてふためくのであります。エジプトに助けを求めようとする。その時預言者イザヤは、「主なる神を信頼して、右往左往するな、アッシリアはエルサレムを責めて来ない」と言って叱るのであります。そして事実その通りになって、アッシリアはもう少しでエルサレムに責めてくると言う一歩手前で、一夜のうちにアッシリアの陣営には、十八万五千人の兵士が倒れていった。恐らくこれは、アッシリアの陣営にペストのような何か疫病が生じてそのような事態になったのだろうと言われてりおます。しかし預言者イザヤも南ユダの人々もこれは主なる神のなせるわざだと受け止めて神に感謝したのであります。

 もしかしたら、今度もそのような奇跡的なことが起こるのではないかとゼデキヤ王は期待したのであります。
 それに対して預言者エレミヤの言葉は実に厳しい言葉でした。南ユダは今度は徹底的にバビロンという国に滅ぼされ、そしてこの国に残って者は皆バビロンに連れられていくというのであります。

 ゼデキヤ王は、歴史は繰り返すかもしれない、そして今度も南ユダは助かるかもしれないと考えたのであります。確かに歴史は繰り返すかもしれません。この二千年、同じようなことが繰り返されたかもしれません。しかしわれわれはただ歴史は繰り返すと考えるのではなく、その歴史を背後で導いておられるかたがおられるということ、主なる神がこの歴史を支配し、導いておられるという信仰をもたなくてはならないと思います。ですから、歴史は機械的に繰り返されるのではなく、繰り返されているようでいて、あるいは、われわれの歴史は、終末の破滅に向かっているのかもしれないという恐れとおののきを絶えずわれわれはいだいていなくはならないと思います。神の恵みになれこになってしまったり、神に対する恐れおののきの信仰を失ってしまうことはおそろしいことであります。

 列王記の記すところでは、このゼデキヤ王は、自分の目の前で自分の子供達が殺され、王自身も両眼をつぶされ、青銅の足かせをはめられてバビロンに連れていかれたと記されております。

 そして預言者エレミヤは、今度は王の使いの者にではなく、民衆に向かってこう語れと神からいわれます。「主はこういわれる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て、包囲しているカルデヤ人、これはバビロンのこと考えていいですが、このカルデヤ人に降伏する者は生き残り、命だけは助かる。」
 お前たちはどちらの道を選ぶかというのです。

 お前たちは命の道を選ぶか、それとも死の道を選ぶか、どちらを選ぶかという問いかけは聖書をみれば、前にも記されております。イスラエル民族がこれから約束の地カナンに入るにあたって、モーセが民衆にこのように迫ったのであります。

 モーセはこう言うのであります。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前におく。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主はあなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。・・・わたしは今日天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」と迫るのであります。

 ここでは、主なる神はわれわれに対して、救いというものをわれわれに選ばせているように見えるのであります。これは考えてみれば、不思議なことだと思います。といいますのは、神の救いというのは、われわれが選んだり、選ばなかったりして、生じるものではなく、これはもう一方的に上から与えられる救いだからであります。

 それなのにここでは、われわれ人間に選ばせている。しかしこれはわれわれに選ばせているようでいて、実はもうこちらのほうを選びなさいとこっちを選ぶことは必然だというような選ばせかたをしているのであります。なぜなら、ここで主なる神は「わたしは生と死、祝福と呪いをあなたの前におく。あなたは命を選び、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従え」とはっきりと、どちらを選んだらよいかを明確にして、選ばせているからであります。

 預言者エゼキエルの言葉にこういう言葉があります。エゼキエル書一八章三○節からのところですが、「イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」というのです。その少し前のとろこでは、主なる神の言葉として「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」という言葉もあります。主なる神は、悪人の死すら喜ばれない、どんな人の死も喜ばれない、だから生きることを選択せよ、悔い改めて生きて欲しいと呼びかけているのであります。

 神様の与える救いは、確かに上から来るものであります。それは決してわれわれ人間が造りだすものではないのです。しかし神はその救いをわれわれの自由を無視して、機械的に強引に押しつけようとするのてばなく、あくまで、お前はどちらを選ぶのか、生か死か、わたしは何人の死も望まないけれど、お前はどちらを選ぶかとわれわれに決断を迫り、いわばわれわれの主体性を重んじるのであります。

 ちょうどイエスがベトザタの池で三十八年もの間、自分の病が癒されるのを待ち続けた男に対して、「お前はなおりたいのか」と問いかけるのと同じであります。そのベトザタの池は不思議な池で、時々天使が現れて、その池の水を動かす、その時に池の水が動いた時に最初に池に入ったものだけがその病がいやれるという池だった。それでその池のまわりには、多くの病人がその池の動く時を待ちかまえていたというのです。それは今日の生存競争を思わせる池であります。そこに三十八年もの間その池の周りで待ち続けた男がいた。彼は池の水が動くときに真っ先に入ることができなかった。誰も彼を助けて池に入れてくれる人がいなかったからであります。彼はいわば今日の生存競争に敗れた人のようであったのです。その男にイエスはわざわざ、「お前は治りたいのか」と聞くのです。もうそんなことはわかりきったことなのに、イエスはあえてその男にそう聞くのです。そしてその男の意思を確かめたうえで、池が動いた時に真っ先に池の中に入るという方法とは違う方法で、その男をいやすのであります。

 イエスは病気をいやされるとき、しばしばそのような問いかけをしております。盲人に向かっては、「わたしに何をしてもらいたいのか」と聞くのであります。そうすると、盲人は「目があけていただくことです」と答える。そうした上で、イエスは盲人の目をいやしてあげているのです。
 
 お前は本当に救われたいのか、お前は命の道を選びたいのか、それとも死の道を選びたいのか、とわれわれに問いかけ、われわれに選択を迫り、その上でわれわれに救いを与えられるのであります。
 
 今主なる神は預言者エレミヤを通してわれわれに迫るのです。「見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。どちらを選ぶのか」。この時の選択はあの申命記やエゼキエル書に示された選択よりももっと厳しい選択が迫られております。といいますのは、このときの命の道を選ぶということは、自分達の敵であるバビロン、すなわちカルデア人に降伏する者は生き残る、といわれているからであります。そうでなくて、敵になんか降伏するものか、敵の手に屈服して、バビロンになんか捕虜になんかなりにいきたくはないといって、あくまでこの都、エルサレムにとどまるのは死の道を選ぶことになるということだからであります。

 生きるためには、救われるためには、敵に降伏しなくてはならない、しかも敵国に捕虜として連れ去られなくてはならないのであります。生きるにはこの道しかないというのであります。

 預言者エレミヤは、王に対して、民衆に対して、バビロンに降伏しなさい、というのです。そのためにエレミヤは誤解を受けて、お前はバビロンのスパイだといわれて、捕らえられたりするのであります。それでも預言者エレミヤは、今バビロンは主なる神がわれわれの罪を罰するために遣わす道具なのだ、だから今バビロンにいさぎよく降伏するということは、自分達の罪を認め、主なる神の前にひれ伏すということなのだ、だからわれわれにとって命の道、救いの道は、バビロンに降伏する以外にないのだと人々に訴えるのであります。

 これは実に厳しい選択であります。救われるためには、敵の手に自分を委ねなくてはならないのであります。降伏しなくてはならないのであります。それはわれわれが救われるということは、われわれが自分の罪を認め、その罪から救われなくてはならないからであります。
 
 主イエスは「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである」と言われました。

 救われたいと思うならば、自分を捨てよ、自分の命に固執するなといわれるのです。自分の命を失う者が命を得るのだというのです。その前の言葉は「わたしの後に従いたいと者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。そしてその後で、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために自分の命を失う者はそれを救う」といわれるのであります。十字架の道を歩むということはそういうことだというのです。

 イエスの十字架とはまさにそういう道だったのです。あれほど自分は十字架で死ぬのだと何度も弟子達にいいながら、自分が十字架につく直前、あのゲッセマネの園でなぜ十字架で死ぬことをためらい、父なる神に「この苦き杯を取り去り給え」と祈ったのか。なぜイエスはこの期に及んで、十字架の死を回避しようとしたのか。それは本当に謎ですが、ひとつ考えられることは、イエスにとって、自分が十字架で死ぬということは、いわば敵の手に自分を委ねるということだった、サタンと命をかけて戦ってきたのに、この最後の最後に自分をサタンの手に引き渡してしまうということだったからであります。それが本当にあなたのみこころなのですか、と最後に問わずにはおられなかったのであります。それはバビロンに降伏し、バビロンに捕囚されて連れて行かれることよりも、もっともっと厳しいことでした。なぜなら、イエスにとっては、十字架は死ぬことそのものであったからであります。

 預言者エレミヤは今民衆に向かって命の道と死の道をおく、命の道とは敵国バビロンに降伏し、バビロンに捕虜として連れ去られることだ、死の道とはそれを拒否し、あくまでこの都にとどまろうとすることだと告げました。
 
 しかしエレミヤ自身は、あとの記事をみますと、バビロンには連れられていかれなかったようであります。むしろバビロンの王の厚遇を受けて、エルサレムの再建のために尽くしなさいとエルサレムにとどませられたようであります。しかしバビロンが据えたいわば傀儡政権が暗殺に遭い、バビロンを恐れたグループがエレミヤも一緒にエジプトに逃亡したようであります。エレミヤは、そのエジプトでその生涯を終えたのではないかと推察されたおります。

 ともかくバビロンに捕虜として捕らわれていく道がただ一つ残された命の道だと民衆に告げたエレミヤ自身はバビロンには行っていないのであります。第一、だれがバビロンに捕虜として連れ去られ、だれがエルサレムにとどまるかは民衆の選択ができなかった筈であります。バビロンの高官が来て、お前はどちを選ぶかと聞いたわけではないからであります。バビロンに連れて行かれた人々はエルサレムでも優秀な人物だったのではないかと言われております。だからその異教の地バビロンで今日の旧約聖書は編纂されていったし、数々の詩篇が生まれたからであります。

 ともかく、バビロンにつれて行かれるか、エルサレムにととどまるかは、彼らにとっては自由に選択できることではなかったと思います。

 ですから、大事なことは、エルサレムにととどまるにしても、エルサレムにとどまる者は、バビロンに降伏し、捕虜として連れ去れる人と同じ思いをもってエルサレムにとどまらなくてはならないということだろうと思います。
 
 大事なことは、われわれが降伏とするということです。われわれの人生において一番大事なことの一つは、一度はそのように降伏するという屈辱と挫折を味わうということであります。そして自分を捨てさせられるということであります。その時に、自分を捨てるものは、自分の命を失う者は、そうすることにようって本当の命を得るのだ、与えられるのだということであります。