「遠くからの神」エレミヤ書二三章 エフェソの信徒とへの手紙三章一一八ー

 エレミヤ書の二二章から二四章までは、南ユダの王に対する警告、また祭司、預言者に対する警告がまとめられております。詳しくいたしますと、煩雑ですし、またその必要もないと思います。同じことの繰り返しだからであります。ですから、今日は二二章から二四章にかけてまとめて学びたいと思います。

 二二章の一節からみますと、主はこういわれる。ユダの王宮へ行き、そこでこの言葉を語って、言え、といわれます。「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあたなの家臣も。ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。主はこういわれる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる。王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば゛、わたしは自らに誓っていう、この宮殿は必ず廃墟となる」と。そのように言え、と預言者エレミヤはいわれるのであります。

 ここでは王に対して求められていることは、正義と恵みのあふれた政治を行いなさいということであります。ここには王が宗教的に潔癖であれとか、ただヤハウェのみを拝し、異教の神バアルという偶像を拝んではいけないとかはなに一ついわれていないのです。列王記などをみますと、イスラエル、ユダの王が偶像礼拝をしたために、神の裁きにあって、退けられたという記述が出てまいりますが、ここでは王に対してはそうしたことはいっさいいわれていないのです。ただただ、正義と恵みにあふれた、つまり慈悲深い政治を行えなさいということだけが求められているのであります。一三節らかみますと、こういわれております。
「災いだ、恵みの業を行わず、自分の宮殿を、正義を行わずに、高殿を立て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。」一五節「あなたはレバノン杉を多く得れば、立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ、わたしを知ることではないか。」

 王に対する神の求めは、ただ正しい政治をせよということでした。正しい礼拝をせよというようなことではなかったのであります。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救うこと、貧しい人、乏しい人の訴えを裁くこと、孤児、寡婦、寄留の外国人を苦しめ、虐げないこと、そうすることこそが「わたしを知ること、主なる神を知ることではないか」というのであります。

 王に求められていることは、何よりも正しい政治と裁判であります。正しい礼拝の仕方ではないのです。それは本来は祭司や預言者がしなくてはならないことであります。もちろん王が偶像礼拝に熱心になったために、正しい信仰を説く祭司や預言者が迫害されていったわけですから、王が正しい信仰をもつということは重大なことであります。正しい政治を行うことと正しい神礼拝をすることとは無関係ではないことは明らかであります。

 しかし、問題は指導者である王が自分が本来なすべき政治をほったからして、ないがしろにして、宗教問題に熱心になること、そのあげくの果てに偶像礼拝をしだすことが問題なのであります。

 王に求められていることは、宗教問題ではない、もっぱら正義を行うこと、貧しい人、弱い立場にある人に慈悲深い政治を行うこと、そうすることが主なる神を知ることであり、神の前にひれ伏し、神を礼拝することであるというのであります。これはある意味ではまさに政教分離ともいうへき画期的な教えではないかとさえ思うのであります。政治家が下手に宗教的になっては困るのであります。

 人はそれぞれの立場というものがあります。それをないがしろにして、宗教の問題、信仰の問題に首をつっこんできますと、ろくなことはないのであります。会社の社長がそうした宗教に熱心になって、社員教育をはしだすとその会社はおかしくならないか。
 人それぞれのおかれている場というものがある。医者は患者のために献身的につくす、研究者は自分の研究に真剣に取り組む、そうしたことを離れて、宗教問題に首をつっこんで、自分の専門の仕事をおろそかにするということは、おかしなことになっていくのではないか。

 今王に求められていることは、正しい政治を行うということ、正義と恵みにあふれた政治を行うということなのであります。王にとっては、そうすることが神を礼拝する道だというのであります。祭司や預言者に求められることは政治の問題ではないのです。祭司や預言者はいうまでもなく、正しい礼拝をすること、民を正しく礼拝させることに真剣に取り組むことであります。宗教家が自分のなすべきことをないがしろにして、政治に首をつっこみだしたら、また大きな問題を起こすことは明らかであります。

 自分のおかれている職務に忠実に生きること、そうすることが「わたしを知ることではないか」と主なる神が預言者を通していわれているのであります。それは逆にいいますと、それほどその時の南ユダの政治が腐敗していたということであるかもしれません。

 それでは祭司、預言者の任務とはなにか。それが二三章から述べられております。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」という言葉で始められております。
 二三章の九節からは主に預言者に対しての糾弾が述べられております。
九節「預言者たちについて。わたしの心臓はわたしのうちに破れ、骨はすべて力を失った。」ここでいわれている「わたし」というのは、預言者エレミヤのことのようであります。主なる神の言葉があまりにも厳しいのでエレミヤは酔いどれのようにふらついたというのであります。十一節には、「預言者も祭司も汚れ、神殿のなかでさえ、わたしは彼らの悪を見たと主はいわれる。」

 ここではもおに預言者が糾弾されていますが、預言者のなにが厳しく裁かれているかといいますと、彼らが主の言葉をしっかりと聞こうとしないで、ただ民の心に取り入って、民がそういわれたいと願っていることを伝えているということであります。
 一六節から。「万軍の主はこういわれる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分たちの心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって、彼らは常にいう。平和があなたたちに臨むと主が語られたと。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって、災いがあなたたちにくることはないという。」

 預言者たちは、神の言葉に耳を傾けて聞こうとしないで、ただ民に迎合し、民が聞きたいと欲している優しい、口あたりの平和とか慰めの言葉を語って、民の人気を得ようとしているというのです。彼らが神の慰めを語るのは、本当に神の慰めを語って、人々を慰めようとするのではなく、自分たちが民に気に入れられる言葉を語っているにすぎないというのであります。それは三○の言葉によれば、「わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者だ」ということであります。三一節、「見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を『託宣』と称する預言者たちに立ち向かう。見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう。彼らはそれを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたしは彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない」と主はいわれるというのであります。

 今は、バビロンという国に攻められようとしている時のなのであります。それは神が南ユダを裁くために神が遣わしたのであります。そういう危機的なときに、いたずらに平和を唱え、大丈夫だ、災いはこないと民を安心させることばかりいう預言者は神の言葉を盗み合う預言者だというのであります。わたしは彼らを遣わしたことも、命じたこともないと主なる神はいわれるのであります。

 さらに三三節からこういうことがいわれております。この民が預言者に向かって、「主の託宣」とはなにですか、問うなというのです。もう「マッサ」という言葉、それは「託宣」という意味の言葉なのですが、もうそのマッサという言葉は使うなというのです。おそらくマッサという言葉、「託宣」という言葉は、大変重々しい言葉だったのではないかと思います。これは主の託宣だといって語りだすと、それは重々しく、民に権威付けができたようなのです。この偽預言者たちは神から遣わされてもいないのに、これは主の託宣だという言葉を使って、あたかも神の預言のように語りだす、そういう偽預言者に神は我慢がならないというのです。
 マッサという託宣という言葉をもう使うなというのです。なぜなら、マッサという言葉はもう一つの意味があって、それは「重荷」という意味もある、主なる神にとっては、いま民に迎合的なことをいって、平和でもないのに平和だといって安心させる偽預言者に対して神は重荷になっている、その重荷になっている偽預言者を神は捨てたいのだ、だからマッサという託宣という言葉を使うなというのです。マッサという言葉、託宣という言葉の代わりにもっと平易な言葉、「主はなんとお答えになりましたか。主はなんとお語りになりましたか」という言葉を使えと主なる神はいわれるというのです。

 二五節からこういわれます。「わたしはわが名によって偽りの預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、夢を見た』というのを聞いた。いつまで、彼はこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たち、互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちが、バアルのゆえにわたしの名を忘れたように。夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。」 

 主なる神は、偽預言者に対して、「夢を見た預言者は、夢を語るがよい」というのです。これは口語訳聖書の言葉です。新共同訳聖書は「夢を見た預言者は夢を解き明かせばよい」となっておりますが、ここは口語訳聖書の「夢を見た預言者は夢を語るがよい」のほうがいい訳だと思います。

 夢を見た預言者は夢を語ればよい、しかしわたしの言葉を受けた者は忠実にわたしの言葉を語れ、これは預言者に対するもっとも厳しい言葉であります。

 しかし聖書には、よく預言者は夢を見て、それが神の啓示として語るところが出てまいります。それは預言者だけでなく、ヤコブでもヨセフでもよく夢を見て、それが神の啓示になっているのであります。そうしますと、その夢が神の啓示なのか、それとも、預言者の自分勝手な夢なのかどうやって判別したらいいのかということになります。

 今日では夢というのは、その人間の願望の現れだといわれております。そういわれれば、われわれもそのことはよく経験することであります。そうしますと、夢というのは、すべて人間の願望の現れなのか、あのヤコブの見た夢、ヨセフが見た夢は単なる人間の願望であって、神の啓示ではないのかということになります。その夢が神の啓示かどうかを判別するのは難しいと思います。われわれはともすれば、なにか自分に神の啓示が特別にくだることを期待しているとこがありますから、夢を見てそれをすぐこれは神の啓示だと勝手に思いこみたいところがありますので、夢をただちに神の啓示だととるのは大変危険であります。

 夢と神の啓示とどう判別したらよいか。それは明確にはわかりませんが、こういうことはいえるのではないかと思います。その夢が神の啓示である場合には、その人が思ってもみないことが夢に現れる、それは決してその人の願望の表れではないということであります。

 たとえば、ヤコブの場合でしたら、ヤコブが父親をだまして、長男の特権を奪って、兄エサウから殺されそうになって、故郷を追われ、ベエル・シェバへ向かって、野宿をしているときに、夢を見るのであります。いわゆるヤコブのはしごといわれる夢を見た。先端が天にまで達するはしごがかかっていて、そこを天使たちが上り下りをしている夢を見るのです。そしてその時、主が傍らに立ってヤコブにいうのです。「わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今よこたわっているこの土地をあなたとあなたの子孫に与える。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」というのであります。そしてヤコブは目が覚めたとき、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」といい、恐れおののいたというのです。

 これはヤコブにとって自分が思ってもみなかったことであります。自分は家族にもそして神にも見捨てられたと思っていた、その時にどんなことがあっても、わたしはお前と共にいて、お前を決して見捨てないといわれる、そしてその夢を見た時に恐れおののいたというのです。それは決してヤコブの願望の現れではないのです。全く予想もしない、思いがけないことだったのであります。それが夢を通して示される神の啓示というものだろうと思います。

 詳しくはもうのべませんが、ヨセフの解いた夢だって、それは決して人間の願望を満足させる夢ではなく、全世界に飢饉がくるという恐ろしい夢の解き明かしであったのであります。

 夢を見た預言者は、夢を語ればよい、しかし主の言葉を受けた者はそれを忠実に語らなければならないというのであります。その主の言葉がたとえ民にとっては聞きたくないという予言であったとしても、それを語らなければならないのです。

 二四章には、預言者エレミヤは、二つの籠に入ったいちじくの実をみせられます。良いイチジクの実と悪い腐ったイチジクの実が入った籠であります。そしてこう預言せよといわれるのです。バビロンに降伏し、バビロンに捕らえられていく捕囚の民をこの良いいちじくと見なす。そして降伏するのを拒み、この地にあくまでとどまろうとする民を悪いイチジクと見なすと預言せよといわれるのであります。

 主の言葉を聞こうとしないで、ただ民に迎合し、民を手軽にいやそうとする偽預言者に対して神はこういわれるのです。二三章二三節「わたしはただ近くにいる神なのか、わたしは遠くからの神ではないのか」というのです。これも口語訳のほうがすっきりして力強いと思います。「主はいわれる。わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか」というのです。

 遠くの神、遠くからの神というのは、そのあとの言葉をみますとこうなっております。「誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないというのかと主はいわれる。天をも地をも、わたしは満たしているでないかと主はいわれる」。これをみますと、遠くからの神ということは、どんなに主なる神から隠れようとしても、神は遠い高い天から見ておれて、いわば俯瞰できるかたなのだから、どこに隠れようと探し出すという意味のようであります。

 直接的にはそういう意味かもしれませんが、しかしこの近い神、遠い神という表現にはもう一つの意味があるのではないかと思います。それは近い神という時、われわれは神というものをいつも自分の都合のよいように懐柔してしまって、自分のポッケとに入れてしまって、その神と慣れ慣れしくなってしまって、ある時には神に甘え、ある時には神を自分の願望の実現の打ち出の小槌のようにしてしまう、しかし神はそんな風に人間に懐柔されてしまうような近いだけの神ではない、神は遠い神でもある、決して人間の思いのままに懐柔てぎるような近い神ではなく、人間を超越したかた、天の高いところにいましたまうかた、人間のどんなささないな悪も見つけ、裁き給う神、そういう遠いところ、高いところに座しておられる神、そしてまた人間がどこに逃げようとおいかけていく普遍偏在の神だということも含んでいると思います。

 われわれは神を自分の近くにいる神として甘えてしまったり、また神の裾をつかんで離すまいとするようなかたとして神を考えていないか。この神はわれわれの本当に傍らの近いところにいましたまうかただからこそ、またわれわれのいいなりになる近い神ではなく、われわれを超越しておられる高いところにおられるかた、遠いところにおられるかたなのであります。高いところに、遠くにおられる神だからこそ、また本当の意味でわれわれの傍らにいてくださる近い神なのであります。この神の前にひれふさなくてはならないと思うのであります。

 聖書はキリストの愛についてこう語るのであります。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのであるかを理解し、人の知識をはるかに超える愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずり、それによって満たされるように」と祈るのであります。キリストの愛はわれわれ人間の思いをはるかに超えて、広く、長く、高く、そして深いなのだというのであります。

 このあと歌います賛美歌の四九二番を味わいながら歌いたいと思うのであります。