「預言者の運命」エレミヤ書二六章 マタイ福音書一四章一ー一三節

 エレミヤ書の二六章から二九章までは、エレミヤの伝記といわれている部分であります。ここはエレミヤの弟子のバルクが書いたようであります。エレミヤ書の四五章をみますと、こう書かれております。ここをみますと、「ユダの王ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤの口述に従ってこれらの言葉を書き記した」と記されております。そしてバルクはそれを口述筆記しながら、嘆いたというのです。「ああ、災いだ。主はわたしの苦しみに悲しみを加えられた。わたしは疲れ果てて、呻き、安らぎを得られない」と、嘆いたというのです。自分の先生であるエレミヤが何度も逮捕されたり、迫害を受けたりしている、その度におそらく、弟子のバルクも迫害を受けたと思われます。どうして自分の先生であるエレミヤは人のいやがることを神の言葉として高官や祭司達のお偉方に述べるのかと思ったようなのであります。
 そして自分の先生が迫害に会っているのを見るのは、ただ苦しいだげてなく、それは悲しくなることだったようであります。

 二六章からは、その弟子のバルクがエレミヤの様子を記した文書がおかれております。今日は二六章を見てみたいと思います。ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ、と記されております。エレミヤは主の神殿の庭に立って、神殿に礼拝しにきた人々に神の言葉を伝えるのであります。
 「もしお前達がわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞きしたがわないならば、わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする」というのです。それはこの厳しい言葉を聞くことによって人々は悔い改めるかも知れないからということであります。

 ただちに反応したのは、いわばエレミヤの仲間、同僚ともいうべき祭司と預言者たちであります。彼らはすぐエレミヤを捕らえて「お前は死刑に処せられねばならない。なぜ、お前は主の名によって預言し、この神殿はシロのようになり、荒れ果てて、住む者もなくなるというのか」と迫り、エレミヤを主の神殿の新しい門の前で裁きの座に着かせたというのであります。シロの神殿のようになる、というのは、かつてシロにあった神殿がペリシテ人によって破壊されたことがあったことを指しております。

 人々は主の神殿のその裁きの座に集まってエレミヤを囲みました。そして祭司と預言者達は「この人の罪は死に当たる。彼はあなた方自身が聞かれたように、この都に敵対する預言した」とエレミヤを告発するのであります。それに対してエレミヤは堂々と弁明いたします。自分は主なる神から遣わされ、主が語れといわれた言葉を語っただけだ。だから今こそ、お前達は自分の道と行いを正し、お前達の神、主の声に聞き従わなくてならない。主はこのように告げられ災いを思い直されるかも知れない。わたしはお前達の手中にある。お前達の目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい。わたしを殺せば、お前達自身とこの都とその住民の上に、無実の罪の血を流した罪を招くということを。」といいます。いわばわたしを殺したら、お前達は神の裁きを受けるぞと脅しを掛けるのであります。

それを聞いた高官たちと民のすべての者は、祭司と預言者達に向かって、「この人は死に当たる罪はない。彼はわれわれの神、主の名によって語ったのだ」と口々にいいだし、またかつてユダの王ヒゼキヤの時代にミカという預言者が同じような預言をしたときに、人々は彼を殺しはしなかった、主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたことがあったではないかと歴史的事実までもとりあげて、エレミヤを弁護する長老たちも出てきて、この時はエレミヤは難を逃れたのであります。

 この裁判は、イエスがローマから派遣されていた総督ピラトの前に連れ出された裁判とよく似ているのではないかと思われます。総督ピラトは奥さんが夢を見たということもあって、イエスを死刑にするのを恐れた。またイエスには罪がないと思ったのであります。イエスが捕らえられ、裁判に会い、死刑だ、死刑だと叫んでいるのは、ただ祭司長、長老、議員たちだけで、これは彼らのイエスに対する妬みのせいだと看破するのであります。

 エレミヤを処刑しようとしたのは、エレミヤの仲間ともいうべき、祭司と預言者達なのです。自分たちも神の言葉を語る立場にいるものであります。それなのに自分たちをさしおいて、自分だけが神の言葉を聞いて、自分だけが神の言葉を語っているのだというエレミヤはけしからんと思ったのであります。しかもその預言は自分達に対する裁きの言葉だということが気にいらないのです。
 それに比べれば、高官とか民衆のほうがよほど正しく事柄を見ていることになります

 人間の思いのなかで、妬みほど醜い感情はないかもしれません。ある人がいっておりますが、われわれが幸福を感じるときというのは、自分が幸福であると同時に他の人が自分よりも少し少なく幸福であっていてほしい時だというのです。他人があまりにも不幸では、われわれは自分の幸福に酔うことはできないし、自分の幸福に安心できないのです。しかしそうかといって、他の人が自分よりも幸福であっては、これはまたつまらない、自分の幸福感に水をさすというのであります。だから自分よりも少し少なく幸福であるのがちょうどいいのだというのです。

  妬みというのは、特に教養人、知識人に多いのだということであります。教養人とかインテリというわれる人は多少とも自分に自信があるからであります。だから自分の自信をぐらつかせるような人に対して妬むのであります。

 祭司とか預言者は、当時の教養人であり、いわばインテリであります。その人たちが預言者エレミヤに反発した、何よりも自分たちに悔い改めを迫るエレミヤを殺してしまおうとしたということは、われわれにもよくわかることであります。しかも彼らは正当な裁判という手続きをしてエレミヤを処刑しようとするのであります。これが知識人でなかったならば、自分たちの感情の赴くままにただちにエレミヤを石で打ち殺していたかもしれません。しかし知識人というのは、悪いことをする時にも、なにか理屈をつけて、自分たちの悪を正当化して、悪いことをするのであります。
 それはイエスを告発したのが、一般民衆ではなく、当時の社会のトップにいる人々、祭司長、長老、議員たちであったことと呼応することであります。

エレミヤの弟子バルクは、預言者エレミヤと同じように「主の名によって預言していた人がもうひとりいた」ということを書き記しております。二六章二○節からのところです。それはキリヤト・エアリムの人、シェマヤの子ウリヤであります。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤと同じように預言していた。この時はヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、ウリヤを殺そうとしたというのです。それでウリヤは恐れて、エジプトに逃げていった。ところがヨヤキム王は追っ手をエジプトに送り、ウリヤを捕らえてきて、王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせたというのであります。
 そしてバルクはそのあと、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤを保護し、民の手に落ちて殺されることのないようにした」と記すのであります。

 この書き方からすると、預言者エレミヤも、自分と同じように主の名によって預言し、自分と同じように悔い改めないとエルサレムは神の裁きによって滅亡すると説いていた預言者がいたこと、しかも彼は王の手によって殺されてしまったことを聞いたと思われます。ウリヤは無惨にも殺された、しかし自分は幸運にも生き延びた、逃れた、その事実をエレミヤはどう感じたでしょうか。

 自分と同じように主の名によって預言している者がいる、しかも自分と同じ内容の預言をしている者がいる、それを知ってエレミヤは、どう感じたか。妬みを感じただろうか。
 
 このことで思い出すのは、また竹森満佐一の言葉であります。それはローマ人への手紙の講解説教の説教で、パウロが自分を自己紹介して、自分は「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別れたれ、召されて使徒となったパウロ」というところの説教であります。「召されて」使徒となったパウロ」というところであります。

 「人々はみなそれぞれの仕事をもっている。自分の職業が貴いとか立派であるとか思っている人もいるだろう。また、自分のしたいと思う仕事ができないでいる人もあるだろう。しかし、いずれにしても、この職には、自分はかけがえのないものである、ということを確信をもって言える人がどれほどいるだろうか。自分がやめれば、明日からはすぐ何人も代わりの人が押し寄せてくる。自分だけがこの仕事に必要なのだと確信することは、容易なことではない。それなのに、使徒の職は、つまり、伝道者の職ということです、使徒の職というのは、自分には何の資格もないのに、そして多くの人がこれに携わっているのに、自分の使命をかたく信じることがてぎるのだ」というのです。それは自分は神から遣わされたという確信があるからだというのであります。

 わたしはこの言葉を牧師に成り立ての頃読んで、大変打ち砕かれたのであります。何に感動し、何に打ち砕かれたかといいますと、「使徒の職というのは、つまり伝道者の職というのは、自分には何の資格もないのに」というところではないのです、そんなことは初めからわかっていることなのです、次の言葉なのです、「多くの人がこれに携わっているのに」という言葉なのです。

 このことは、これまでにも何回がいろんところで皆さんに紹介してきましたが、信徒のかたはどうもあまりぴんとこない、わたしがなんでそれほど打たれたのかわからないという反応を示してきました。

 つまり、こういうことなのです。神学校を卒業して、わたしは四国の愛媛県の大洲というところに派遣されたわけです。こんなことをいうとおこられますが、いわば東京からみたら、田舎の教会にいったわけです。自分は神学を学んできたという気負いがあるわけです。その周辺には年をとった牧師もいる、先輩たちがいるわけです。そうしたなかで、自分はみんなとは違うんだぞ、という気負いがあったのです。そうした中でこの竹森満佐一の言葉「多くの人が携わっているのに、自分の使命をかたく信じることができる、それが使徒というものだ」という言葉を読んで、本当にそうだと打ち砕かれ、それから先輩たち、牧師仲間たちと積極的に交わるようになったのです。

 牧師は一匹狼になりやすいのです。伝道というのは、これに多くの人が携わっている、能力のある牧師もいれば、あまりそうでもない牧師もいる、それが現実であります。そうだからこそ、教会というのができていくのであります。能力のある牧師だけによって伝道がなされ、教会が形成されていったら、教会というのは、エリートの集まりになってしまうのであります。しかし神はそんなことはおのぞみにならないのであります。

 預言者エレミヤは、自分と同じように、主の名によって預言している者がいると知って、どう思っただろうか。偽預言者が一杯いるなかで、真実の預言者がここにひとりいたと思って心強く思っただろうか。それとも彼もあの祭司、預言者たちと同じように妬んだろうか。それについては何も記されておりません。

 このことで思いだすのは、やはり預言者であったエリヤのことであります。彼も当時の王様アハブに、その偶像礼拝を厳しく批判したために迫害されるのであります。そのためにエリヤと同じようにその偶像礼拝を批判した多くの預言者たちが殺されていった。エリヤも逃亡したのであります。そして食べるものも飲む水もなくなってきて、洞穴に入って一夜を過ごしている時に、主の言葉がきて、山に行き、主の言葉を聞けといわれるのです。それで彼は山の中に入って主の言葉を待った。激しい風がおこり、この中から神の圧倒的な力強い言葉が自分に語りかけてくると思ったら、神の声は聞こえなかった。風のあとに、地震があった、その中にも主の言葉は聞こえてこなかった。そのあと、火が燃えた。その炎の中にも主の言葉は聞こえてこなかった。そしてもう主の言葉はないのではないかと思っているとき、静かにささやく声が聞こえてきた。「エリヤよ、ここで何をしているのか」という声が聞こえた。それでエエリヤは咳き込んでこういうのです。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきた。ところがイスラエルの人々は神との契約を捨てて、祭壇をこわし、預言者たちを剣に掛けて殺 してきた。自分ひとりだけ残った。彼らはこのわたしの命をも奪おうとしている」と訴えるのであります。ここで自分が殺されたら、主なる神の言葉を正しく述べる者が誰もいなくなると訴えるのであります。
 
 それに対する神の言葉はこうでした。イスラエルの王の政権交代を預言したあと、こういうのです。「お前の代わりにエリシャに油を注いでお前に代わる預言者とせよ」といいます。もうお前は預言者を引退しなさいというのです。そして最後にこういいます。「イスラエルにはバアルという偶像にひざをかがめず、これに口づけをしない者がまだ七千人いる」というのです。

 真実の預言者はもう自分一人しか残っていない、自分が殺されたら、どうなるのかと気負っていた預言者エリヤは、神から預言者を引退しなさいと告げられるのであります。そして、真実の神を礼拝している者は自分ひとりしかいないと思っていたエリヤに対して、主なる神は偶像バアルにひざをかがめないものがまだ七千人も残っている、神は七千人を残すというのであります。

 預言者エレミヤと同じように正しく主の名によって預言し、エレミヤと同じような内容の預言をしたウリヤは殺され、共同墓地に捨てられたというのです。葬られたのではなく、捨てられたとバルクは記すのであります。
 エレミヤは生き残った。難を逃れた。この違いはどこにあるのか。ある人の説明では、エリヤもそしそてイエスも迫害には一時逃れたことはあった。ただウリヤの場合には、「恐れ逃れて」とある、この「恐れて」ということが神に対する不信があって、これがエレミヤとの違いになったのではないかと説明しております。そうだろうか。イエスの場合はともかく、エレミヤだって、彼の告白をみれば、あんなにだらしなく、迫害を嘆き、弱音を吐き、恐れていたことは明白であります。そんなところに違いを見いだすというのは、どうでしょうか。

 われわれにはその違い、エレミヤは残り、ウリヤは殺されたというその違いはわからないと思うのです。終末の預言で、畑にふたりの者がいるときに、ひとりの人は連れて行かれ、ひとりの人は残される、とあってその理由は何一つしるされないでそう語られるのであります。

 誰が生き残り、誰が殺されるか、その理由はわれわれの生きたかの違いにあるという場合もあるかもしれませんが、しかしそんなこととは関係なく、というよりは、われわれにはまったくその理由を見いだすことができないで、不条理な死を迎えてしまう人はいくらでもいると思います。本当にすばらしい働きをした人が早死にしてしまう場合がある、本当にかわいい子供が死んでしまう場合がある。そしてなんのとりえもない自分が生き残っている、それは本当に不条理なことがいくらでもあると思います。その理由をわれわれは見いだすことはできない。

 預言者エレミヤは、自分の仲間である預言者ウリヤの無惨な死を聞いて、自分が彼よりも優れているから生き延びたのだと絶対に思わなかったと思います。それよりも、ますます自分の使命をかたく信じたに違いない。自分ひとりが真の預言者ではない、自分と同じように主の名によって預言する多くの人がいる、そうした真実の預言者の仲間によって自分もまた支えられて、いわばそうした預言者の犠牲の上に今自分は生き残っているのだと思い、エレミヤはますます自分が神に遣われたことを謙遜に堅く信じたに違いないと思います。

 主イエスは、自分の道ぞなえをしたバプテスのヨハネの無惨に死を聞いたときに、舟に乗って群衆から離れ、ひとり人里離れたところに行ったというのであります。イエスもこのヨハネの死を聞いて、ますますご自分の使命を強く思ったに違いないと思います。