「新しい契約」エレミヤ書三一章二七ー三四節
       第二コリント三章一ー六節

 エレミヤ書の三○章からはこう預言されております。「イスラエルの神、主はこういわれる。わたしがあなたに語った言葉をひとつも残らず巻物に書き記しなさい。見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。わたしは彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる」と記されております。そのように三○章から三一章にかけては、バビロンに捕囚されているイスラエルの民が罪赦されて解放されるという回復の預言がまとめられております。この預言がエレミヤのいつ頃預言されたのかはよくわかりません。一度にこのように預言されたのか、あるいは、各時代に預言されたものがこのように集められたのかもよくわかりません。

 不思議なことに、ここはイスラエルとかエフライムとか、サマリヤとか、主として北イスラエルの回復のことが述べられているのであります。もうこの時には北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされていて、北イスラエルは国家としては消滅していて、イスラエル民族は南ユダしかない筈なのであります。

 三一章の二三節からみますと、こう記されております。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしが彼らの繁栄を回復するとき、ユダとその町々で人々は再びこの言葉を言うであろう。『正義の住まうところ、聖所の山よ。主があなたを祝福されるように。』ユダとそのすべての町の民がそこに住む。農民も、群れを導く人々も。わたし疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。ここで、わたしは目覚めて、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった。」

 ここをみますと、預言者はエレミヤは、これらの言葉を語ったたら、目を覚ました、そのときとても心地よかった、楽しい眠りから覚めた、というのですから、これらの預言は、エレミヤは夢の中で神から聞いた言葉だということのようなのです。それだから、現実のことを少し離れて、もっと将来のイスラエル民族の回復のことを神から聞かされたということのようであります。

 そうしたら、それは当然、ただ南ユダの回復の預言のことだけではなく、北イスラエルの回復も預言されなくてはならないわけです。イスラエル民族は、北イスラエルと南ユダとに分裂していたからであります。そしてこの分裂が解消されて、ひとつのイスラエル、もう南ユダも北イスラエルもない、一つのイスラエル民族の回復ということを主なる神はエレミヤに夢を通して見させたのではないかと思います。それでここではもっぱら、南ユダという言葉が用いられないで、イスラエルという名前が用いられたのではないかと考えられます。

 それはその冒頭の言葉、三○章三節「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る」という書き出しをみてもわかることであります。また三一章の一節からの言葉もそうであります。「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と述べられているのであります。「イスラエルのすべての部族」の神となるといわれているのであります。
 
 預言者エレミヤにとって、北イスラエルと南ユダは再び統一されて、ひとつのイスラエルの民となるというのは、ひとつの悲願だったのではいなかと思われるのであります。

 今日学びたいところは、三一章の二一節からのところです。このイスラエルの回復が行われる時に、主なる神は、新しい契約を民と結ぶというのであります。三一節「見よ、わたしがイスラエル家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」というのです。そしてその新しい契約とは何かといいますと、それはエジプトから脱出して、あのシナイの荒野で結んだ契約とは違うものだというのです。つまりモーセを通して結んだ律法による契約ではないというのです。
 
 律法による契約では、民はそれに従えなかった、その契約を民は破ってしまったというのです。「しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というのであります。

 モーセとの契約の場合には、二枚の石版に神は十戒を書き記したわけです。それは文字として書き記した。しかしそれでは人を生かさなかったということであります。後にパウロは、コリントの信徒への手紙のなかで、「文字は殺しますが、霊は生かします」というのであります。これも口語訳のほうがいいと思います。口語訳では「文字は人を殺すが、霊は人を生かす」となっております。

 そしてパウロはその前のところに、コリント教会の人々に自分が書き送る手紙は「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく、人の心の板に書きつけられた手紙です」といって、ここでは、このエレミヤ書のことを思い起こしながら書いております。

 文字は人を殺す、石版に書き記された文字としての律法は人を殺すということはどういうことでしょうか。それを文字として定着させるということは、ひとつの客観的なものとしてひとり歩きしてしまうということであります。それはつまりその律法の内容よりは、文字づらが大事になってしまうということであります。

 たとえば、「人を殺してはいけない」という律法がひとたび、文字として定着されてしまうと、それでは、「人を殺しさえしなければいいんだ」ということになって、人をバカよばわりして、言葉でいじめ抜いてもいい、律法を犯したことにはならないということになる。言葉だけで、人を責めて、いじめ抜いて、とうとう相手を自殺に追い込んでしまっても、それは人を殺したことにはならないということになってしまう、というようなことであります。

 主イエスはそのことをとらえて、本当は神がその律法を通して言おうとしたことは、ただ人を殺してはいけないということを言おうとしたのではなく、人をバカと呼んではならない、人と喧嘩してはならない、人をいじめてはならないということを言おうとしたのだ、われわれは律法を読む時には、律法を守るときには、その律法の文字を超えて神の真意を読み取らなくてはならないのだといわれたのであります。

 律法の文字さえ守れば、それで律法を守ったことになる、神のみこころを満たしたことになると人々は思い始めた。安息日律法では、一日のうち何歩以上歩いてはならないということを守りさえすれば、安息日を守ったことになってしまった。そしてはそれを犯している人間を監視し、告発することに夢中になってしまった。それは安息日がもっとも人を裁く日になってしまったということであります。

 安息日を聖なる日として守れということは、自分の罪を悔い改めて、懺悔して、神を心から礼拝し、神を賛美し、神に感謝する日にしなさいということなのに、そんなことはどこかにやってしまって、律法違反者を告発するために律法が存在するようになってしまった、律法の文字にだけとらわれていって、律法を通して神が望んでいることを聞き取ろうとしなくなってしまった。それは律法の本当の精神を殺してしまったということであります。

 神がわれわれ人間をそもそも生かすために与えた律法が、われわれ人間を殺す律法にさせてしまったということであります。
 つまり、律法の文字は、人を殺していったというのは、その文字を通して語りかけようとする神の生ける言葉を聞こえなくさせてしまったということであります。

 文字は人を殺すということでもうひとつ考えなくてならないことは、律法の文字は外から人を強制する作用をもたらしたということであります。律法は外から人を縛り付けて人を殺していったということであります。律法をまもらないと裁きに会うぞと、外から強制していった。

 われわれはどんないいことでも、人から強制されて何かをするということはとても嫌なのです。なぜ嫌かといえば、人はそれぞれその人の事情というものがある。好き嫌いというものがある。性格の違いもある。能力の違いもある。生活習慣の違いもある。外からの強制というのは、それをいっさい無視して、あなたはこうしなくてはならないと一律に命令してくるということなのであります。それは人を生かさないのです。それは人を殺してしまうのであります。

個性の尊重というと、聞こえはいいですが、われわれ人間の個性などというものは、その大部分はその人間の我が儘さなのです。しかし、その我が儘さにもそれなりの理由があると思うのです。好き嫌いというのは、やはりその人間にとって、生理的に受けつけないという理由があるように、他人からみても我が儘でも、その人にとっては、必然で、どうしてもそれ以外にやりようがない、生きようがないという面があると思います。

 内気な人に外向的な人間になりなさいといっても、無理があります。だらしない人に、真面目一筋になりなさいといっても、どうしてもそれができないというところがあります。逆に真面目な人に対して、少しは不真面目になりなさいといっても、それは無理だと思います。人それぞれ違うのです。もって生まれた素質というものがある。それを一律にこうしなくてはならないと命ぜられたら、それは人を殺すことになるわけです。個性の尊重などというと聞こえはいいですが、個性といってもその中身の大部分はその人の我が儘さです、しかしその我が儘さを許す、受け入れる、そのことがその人を生かすということであります。少なくもその人を生かす大前提だと思います。出発点であります。

 ところが文字となっ律法は、その個性を無視して、一律に外から強制して、こうしなさい、ああしなさいと人を縛り付けていくのであります。それは人を殺してしまうのであります。

 エレミヤは、こういいます。「主なる神はこういわれる。わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』といって教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も、わたしを知るからである、と主はいわれる」というのです。

 もう人から、お前は神様を信じなさい、と言われない、教えられない、強制されないというのです。親しい隣人からさえ、もっとも親しい兄弟からすら、そのように言われないというのです。なぜなら、小さい者も大きい者も自分から、つまり自分の内面から、いわば自発的に、それはつまりその人の個性に即して、主なる神を知るようになり、神を信じるようになるからだというのです。小さい者も大きい者も、というところが大事だと思います。小さい者は小さいなりにです、大きい者は大きいなりに、主なる神を知るようになるということであります。決して一律ではない、神を信じるということは、決してマニュアル化できないということであります。

 戦争中、わたしが子供なりにとても嫌だったのは、あの隣組制度というものであります。お互いに隣の家が人を監視する制度を作り上げて、挙国一致という体制を作っていったのであります。戦後はそれが裏目に出て、あの隣組制度の息苦しさの反作用で、今は隣の人が何をしているのか関知しないということになってしまったのであります。

 神はエレミヤを通して、新しい契約を与える最後の決め手を述べます。それが「わたしは彼らの悪を赦し、再び、彼らの罪に心を留めることはない」という宣言であります。

 律法は、人をただ裁く役割しかしなくてなってしまった。律法はただ人を監視する役割しか果たさなくなった。律法は怒りを招くだけしかその役割がなくなってしまっていたのであります。律法は人を脅して、これをまもらないと、地獄行きだと用いられていったのであります。それはただ隣の人がそういって脅すだけでなく、自分自身が自分に対して自分を告発し、俺はだめな人間だと思わせる役割しか果たせなくなってしまったのであります。

 そのようにうなだれてしまっているわれわれに対して、神は「わたしはお前の罪を赦す、もうお前の罪を心に留めない」といわれるのです。リビングバイブルでは、「わたしは彼らの罪を赦すだけでなく、それをすっかり忘れる」と大胆に訳しております。神様はもうわれわれの罪をすっかり忘れてくださるというのです。

 もう律法によっておどすようなことはしない、縛り付けるようなことはしない。お前の罪を赦し、お前の罪を心に留めない、これが大前提だ、これが出発的だというのです。だから、お前は律法をこれから自分で受け止めて、自発的に自分から守っていきなさいというのであります。それが律法を石版に文字として書き記さないで、お前の胸の中に授け、心にそれを記すということであります。

 律法なんかなくていいというのではないのです。やはり律法というのは必要なのです。なぜなら、律法を通してわれわれは神のみこころを知るからであります。神のみこころがどこにあるかを知ることができるからです。神は人を殺してはいけない、盗んではならないということをわれわれに望んでおられるということを、われわれは律法を通して知るからであります。律法を通して、われわれはやはり自分の中にどうしようもなく、根付いてしまっている自分の我が儘さと闘わなくてはならないのです。やはり我が儘さというのは、放っておけば、ただただ自己中心、利己的な方向にいくだけだがらであります。しかしその自分の我が儘さとの戦いは、自分なりの戦いをすることが赦されるということであります。

 すべては赦しから始まる、神の愛から始まる、決しておどしから始まるのではないということであります。それが繰り返すようですが、「わたしは罪を赦し、罪を心に留めない」ということであります。

 その前のところに、こういう言葉があります。二九節からのところです。
「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸っぱいぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。」

 これはどういうことかといいますと、当時のことわざに、先祖が酸っぱいぶどうを食べると、それを食べない子孫も歯がうくということわざがあったのです。つまり、先祖が罪を犯したら、その罪に直接たずさわならなかった子孫もまた連帯責任で、その罪の罰を受けるという、宿命感的な嘆きのことわざなてのです。それは子孫にとってはたまらいない嘆きなのです。もう自分たちにはなんの望みもないということであります。自分たちの犯した罪でもないのに、自分たちはその裁きを受け、その罰を受けて、今自分たちはバビロンの国でこんな捕囚民として悲惨な目に会っていると嘆いていたのであります。

 それに対して、エレミヤはいうのです。もう「先祖が酸っぱいぶどうを食べたから、その子供の歯が浮く」ということはない。「人は自分の罪ゆえに死ぬ、だれでも酸っぱいぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」というのであります。
 罪というのは、自分の責任なのだということを明確に宣言したのであります。だからそれぞれ自分の罪に責任をもてといわれたのであります。

 ここで面白いのは、ここは「先祖が酸っぱいぶどうを食べれば、その子孫の歯が浮く」ということを否定するところですから、当然、事の運びからすれば、「先祖が酸っぱいぶどうを食べても、その子孫の歯は浮かない」というべきところを、なぜかエレミヤはそうはいわないで、「だれでも酸っぱいぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。人は自分の罪のゆえに死ぬ」といって、罪の各自の責任ということを逆に強調しているということなのです。

 人々はどうせ自分達の先祖が悪いことをしたのだから、直接自分たちが罪を犯さないわれわれ、その罪に責任のないわれわれ、この捕囚の地バビロンで生まれた自分たちも不幸なのだと、そのの宿命感にとらわれて厭世気分になっている、その人々を、その宿命感から解放させるためには、ただ宿命的な罰の共同責任からの解放をいうのではなく、罪を個人一人一人の責任に自覚させて、ひとりひとりが自分の責任として、罪と戦いなさいと促すことによって、われわれの陥る宿命感から解放させたということであります。

 宿命という外からの押しつけに対抗して闘うためには、ただそんな宿命はないのだといっても、宿命感からは解放されないのです。それよりも、一人一人が自分の意志で自分の人生を切り開いていく、自分の責任で自分の個性に即して強制されないで、自分の内面から自分の人生を切り開いていく、そういう個人の責任、個人の自覚的な生き方が宿命感的な暗い人生観、運命論的な人生観を乗り越えさせる力になるのだということであります。

  最後に一つ学んでおきたい箇所があります。それは二二節の言葉です。
「主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護することであろう」という新しさであります。
 多くの聖書の注解者はこの意味は不明だといいます。リビングバイブなどは、ここはもう訳そうとしないで、「わたしは今までに聞いたこともないような新しいことをする。その時イスラエルは、わたしを尋ね求めるようになる」と、訳してこの箇所を遠ざけているのであります。

 しかしこれはもう意味は明確であります。男性社会、自分の権利ばかり主張し、強い者が弱い者をいじめる男性社会が終わって、弱い女性が、女性が弱いかどうかわかりませんが、少なくとも当時は女性は弱い者としてみられていたのです、その弱い女性が横暴な男性を保護する時がくる、それが新しい時代、新しい契約がなされる時だということであります。