「神の約束を信じる」 エレミヤ書三二章   マタイによる福音書六章二五ー三四節

 預言者エレミヤは、ユダはやがてバビロンに占領され、多くの人が捕囚として連れ去られていく、そしてこれは神のユダに対する裁きなのだから、もうじたばたしないで、この神の裁きに服しなさい、バビロンに降伏しなさいと、人々に説いてまわっていたので、ついにというか、さいさいにわたって、王様の逆鱗にふれて、拘留されてしまうのであります。もうこの時、バビロンの軍隊がエルサレムを包囲しているのであります。
 
 その拘留中のエレミヤのところに、彼の伯父であるシャルムの子ハナエルがやつてきて、エレミヤの故郷であるアナトトの畑を買い取ってくれと交渉しにきたのであります。順番からいって、エレミヤがそれを買い取る権利があるからだというのです。エレミヤはこれは主なる神から出ていることであることを感知したようであります。それでエレミヤは正統な手続きをとって、大変面倒な手続きをとって、正式な書類を作って、その写しを素焼きの器に収めて、長く保存させた。それを獄舎の中でみんながみている前でそれを行ったのであります。
 
 アナトトの土地は、エルサレムから北東四キロしか離れていないところであります。今バビロンに攻められようとしている、そしてエレミヤ自身がエルサレムは必ず、バビロンに占領されるとみんなに預言しているのです。そうしたら、とうぜんエレミヤの故郷であるこのアナトトの土地もバビロンの占領下にあり、そんな土地を購入しても自分の土地になるという保証はゼロであります。それなのに、エレミヤはその土地を購入するのであります。しかもわざわざみんなの見ている前で、その土地の権利書なるものを作り、その写しを素焼きの器のなかに入れて、これからどんな戦禍が起こってもそれが失われないように保管させたというのであります。
 
 もう敵の手に占領されてしまう、そうであるならば、人々はできるだけ早く自分の土地を売って、それをお金に換えておきたい時であります。そんな時にわざわざ高いお金をだして土地を購入する人など誰もいないのです。

 しかしエレミヤはそれを購入した。それは主なる神がそうせよと命ぜられたからであります。
 エレミヤは弟子のバルクにこういいます。三二章一四節
「イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』といわれるからだ」と、伝えるのであります。このことを人々が見ている前で、人々が聞いて前で、そう伝えるのであります。

 そのように、エレミヤはバルクに命じながら、それでもこのことであまり確信がもてなかったようで、主なる神に祈るのであります。「どうしてあなたはこんなことをわたしにさせるのですか。今あなたはこのあなたの民イスラエルがバビロンの手にかかって滅ぼされようとされているのに、どうしてこんなことをわたしにさせるのですか」と祈るのであります。
 
 それに対して、三二章二六節からのところで、主なる神はこう答えます。「見よ、わたしは生きとし年生けるもの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」とまず述べて、「確かに今イスラエルは、そのの罪のために、バビロンに占領され、滅ばされる。しかし今や、お前達が、バビロンの王、剣、飢饉、疫病に渡されてしまったといっているこの都について、イスラエルの神、主はこういわれる。」

 三七節からみますと、「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。この国で、人々はまた畑を買うようになる。それは今、カルデヤ人の手に渡って、人も獣も住まない荒れ地になるとお前達が言っているこの国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたしが彼らの繁栄を回復するからであると、主はいわれる。」
 
 つまり、預言者エレミヤがアナトトの土地を正統な手続きをして、その証書まで作って、それを素焼きに納めさせて保存したのは、この神の約束の成就が確実であるという証として、そうしたのであります。神が預言者エレミヤにそうさせたのであります。エレミヤも少しとまどいながら、そうしたということなのであります。

 エレミヤはそのことをただ口先で預言したのではなく、実際に行動を起こして、なけなしのお金をはたいて、敵の手に占領されるその土地を購入することによって、神の恵み、裁きのあとのイスラエルの回復という神の恵みを人々に信じさせたということであります。

 このことを通して学びたいことは、二つのことであります。一つはわれわれが神の裁きを受け止める時、それをどう受け止めたらいいかということであります。裁きという言葉が奇異に聞こえるならば、神の試練といったほうがいいかもしれません、われわれの人生にさまざな形で襲ってくる試練、災難、不幸、苦難であります、それはわれわれにとっては、神の裁きのように思われるのであります、そして事実、それは神の裁きであるかもしれません。

 その神の裁きを受け止める時、われわれ信仰者にとっては、その神の裁きは、その裁きそのものが目的ではなく、その裁きを通して、神はわれわれにいっそう深い恵みをわれわれに与えようとしているのだ、神は必ずその裁きのあとに、救いを、回復を考えておられる、神はわれわれを最後には救おうと考えておられる、われわれはそのことをしっかりと信じて、その試練に耐えていかなくてはならない、その神の裁きをうけとめて行かなくてはならないということなのであります。

 もう一つのことは、その神の救いを信じるということは、それを信じたならば、信じたようにわれわれは具体的に行動しなくてはならないということなのであります。エレミヤが実際に敵の手に奪われるアナトトの土地をお金を出して購入したようにであります。エレミヤがそれをしたのは、「お前が購入したこのアナトトの土地は、やがてお前のものになる」という神の約束を、彼が信じたからであります。その証として土地を購入したのであります。そしてそれをみんなの見ている前で、一種のパフォーマンスとしてそのことを行って、神の恵みの回復という約束を信じさせたということであります。
 つまり、信じたからには、信じた者にふさわしい行動がなくてはならないということであります。

この二つのことを学びたいのであります。

 まず第一のことであります。われわれは神によって救われている、神の恵みを受けて救われた、それではわれわれの生活にはもう何の苦しみもなくなったのか、苦難はなくなったのかといえば、決してそんなことではないことはわれわれはよく知っていることでりあます。

 パウロも、ローマの信徒の手紙の五章で、「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。このキリストのお陰で、今恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」といったあと、つまり、簡単にいえば、われわれは救われたのだ、それをわれわれは喜んでいる、誇りにしていると言ったあと、すぐ続けて「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています」と続けるのであります。

 ここは口語訳は、「そればかりではなく、艱難をも喜んでいます。」となっております。「誇る」というところを口語訳では「喜んでいる」と訳されておりますが、そのほうがいいと思いますが、ともかく、神の恵みを与えられ、神によって救われ、神との間に平和が与えられておりながら、われわれの生活には艱難がある、苦難があるというのであります。そしてそれはわれわれにとっては、神の裁きではないかと思えるような苦難であり、艱難なのです。

 すべての災難とか不幸を、すぐこれは神の裁きだとか、もっと露骨にいえば、これは神の罰だ、神の罰ですよ、すなどといいたくはないし、またいうべきではないと思いますが、しかしその苦難の中にある人にとっては、これは神様の裁きではないかと口にだしてはいわないかもしれませんが、心のなかでは思ってしまうものではないかと思います。

 われわれは神の恵みを知り、神に救われて、神様を信じるようになってから、われわれはそれ以前よりもっと深刻にもっと真剣に、もっと具体的に神の裁きを敏感に感じるようになるのではないかと思います。信仰をもたない以前ならば、単なる災害、単なる偶然とすましていたことも、信仰をもったが故に、かえってそこに神の裁きを感じるものであります。なぜなら神はわれわれの生活のすべてを支配なさっていると信じるようになるからであります。

 そうした艱難を、そうした苦難をわれわれはどう受け止めたらいいかということであります。それをエレミヤ書はわれわれに教えているのではないか。その苦難のあとに、その神の裁きのあとに、神は必ずその苦難から救ってくださる、そのあとには必ず神の恵みの赦しがあり、神の回復がある、そのことを信じなくてはならない、そのことを信じて、その試練に耐えなさいとわれわれに語りかけているのではないか。

 そのことを信じて、今は神の裁きに服し、今はバビロンに降伏しなさい、バビロンに自ら進んで捕囚されていきなさいと、預言者エレミヤは語るのであります。その時にパウロがいようように、「苦難は忍耐を生みだし、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すのだ、そしてこの希望はわたしたちを欺くことはない。なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわれわれに心に注がれているからだ」というのであります。

 神の裁きではないかと思われるような艱難、苦難、あるいは、サタンの誘惑ではないかと思われる艱難、苦難、試練の中にあって、われわれは無防備でそれに立ち向かうのではなく、信仰と希望と愛という神の光の武具を身につけて、特に希望という神の武具をつけて、立ち向かって行かなくてはならない、立ち向かっていくことがてぎるのだということであります。

そして二つ目のことであります。それを信じたならば、それをただ観念的に、頭のなかだけで、信じるのでなはく、それを信じたならば、それを信じたように具体的に行動を起こさなくてはならない、そのように生きなくてはならないということであります。つまり、神は必ず、バビロンの捕囚から解放してくださるということを信じたら、それを見込んで、アナトトの畑をお金を出して購入しなくてはならないということであります。

 そのひとつの生き方のありかたとして、主イエスは、もう「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな、思い煩うな」というのであります。なぜなら、われわれの命を支配してくださる神がおられるからであります。「空の鳥をみるがよい、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に取り入れもしない、だが天の父なる神は鳥を養ってくださるではないか。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が思い煩ったからと言って、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」といわれるのであります。
 
 われわれの命と死を支配しておられる神を信じるならば、もう自分の命のことで、自分の死のことで思い煩うなというのであります。そう言われたからと言って、われわれは思い煩わないわけにはいかないと思います。いろいろと思い煩うのは、もうわれわれ人間の習性になっているからであります。特に多少でも知性をもっている人間は、素朴な古代人とは違って、思い煩わないわけにはいかないことがいくらでもあります。そんなに素朴に生きれるわけはないのであります。ただここで大事なことは、思い煩うなということではなく、思い煩ったら、その思い煩いをただちに捨てなさいということであります。

 思い煩いそのものをなくすなんてことはできないと思います。これはもうわれわれ現代人にとって、あるいは、都会に住む者にとっては、雑草のように生えてきてしまうものであります。しかし、その思い煩いという雑草が生えてきたら、それを抜き出して捨てなさいということであります。それはわれわれにも、神を信じるわれわれには、できることであります。しなくてはならないことであります。

 主イエスが「命のことで思いわずらうな」といわれたのは、現に思い煩っている人に対してそういわれているのであります。全然思い煩いもしない、脳天気な人にそんなことを言う必要もないのであります。くよくよといろんなことで思い煩ってしまうわれわれに対して、もう思い煩うな、その思い煩いを捨てなさいといわれたのであります。
 思い煩いそのものをなくすことはできませんが、思い煩い始めたときに、それを捨てることはできると思うのです。
 
 そうして主イエスはいわれます。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えられる」というのであります。神の国というのは、神の支配のことです。神の義というのは、神の正しい恵みのことであります。それはわれわれの身勝手な御利益的な恵みではなく、神の与えようとしている神の正しい恵み、そしてわれわれにとっても正しい恵み、われわれを本当に正しい意味において生かす恵みであります。われわれが願う御利益的な目先の恵みよりも、はるかに深い恵みであります。その神の支配とその神の正しい恵みが与えられることを求めなさいというのであります。

 だから、明日のことまで思い悩むなというのです。明日は明日自ら思い悩んでくれるからだというのです。これは神様にすべてを任せて、明日のことは何も計画したり、準備したりするなということではないのです。そんな神懸かり的な生き方を教えているのではないのです。
 
 われわれは明日に備えて、貯金もするし、保険にも入るのです。できるだけのことは、明日について備えるです。しかしそれだけを信じないということであります。貯金をして、多額の保険に入って、それで、もうこれで安心だ、と自分の魂にいわないということであります。神様を信じているといいながら、実際の生活では、お金だけを頼りにしているというのでは、神様を信じた生活とはいえないのであります。

 そうした準備をととのえた上で、あとは神様に委ねよう、もう明日のことで思い煩うのはやめようと、どこかでその思い煩い吹っ切る、捨てることであります。
 そうして、あるところまできたら、もう明日のことは明日に任せて、今日しなくてはならないことをしていく、今日の苦労をになっていく、明日の苦労をしょいこんで、二日分の苦労をしないということであります。

 神様の支配と神の正しい恵みを信じていながら、われわれの日常のこの世の生活において、思い煩いだけにふりまわされるような生き方をしていたら、われわれは一つも神を信じた生活をしていないということであります。

 われわれもまた預言者エレミヤのように、アナトトの畑を具体的に買わなくてはならないと思うのであります。