「契約を破る」 エレミヤ書三四章 マタイによる福音書二六章六九ー七五節

 エレミヤ書三四章は、当時の南ユダの王ゼデキヤについての記事であります。まず、一節から七節からは、こういうことが預言されています。バビロンがエルサレムを取り囲み、攻めている時であります。「主はこういわれる。この都をバビロンの王の手にわたす。王はこれに火を放つ。その手から逃れることはできない。あなたもバビロンの王の前に引き出され、直接尋問され、バビロンに連れて行かれる。しかしゼデキヤは剣にかかって死ぬことはない、あたは平和のうちに死ぬ。そしてみんなが『ああ、王様』といって嘆き悲しんでくれるだろう」というのであります。

 しかし列王記の記事をみますと、その記事はエレミヤ書の五二章にも引用されていますが、ゼデキヤ王はバビロンの軍隊に捕らえられ、バビロンの王のもとにつれていかれて、裁きを受けるのであります。バビロンの王はゼデキヤの目の前で彼の王子達を殺し、またユダの将軍たちもすべて殺した。その上、ゼデキヤはその両眼をつぶされ、青銅の足かせをはめられて、バビロンにつれていかれ、死ぬまで、牢獄に閉じこめられていたと記されているのであります。

 確かに、ゼデキヤは剣では殺されませんでしたが、青銅の足かせをかけられて死ぬまで牢獄に閉じこめられていたということが、どうして平和のうちに死ぬといえるのかと思うのであります。
 
 これはおそらく、はじめのうちはゼデキヤ王は預言者エレミヤの勧告を受け入れて、バビロンの王に従順に従うそぶりをみせたのであります。しかし、それからエジプトが勢力を増してきて、一時バビロンがエルサレムから撤退したことがあります。その時に、ゼデキヤはエジプトに助けを求めたのであります。それでバビロンの王は怒って、ゼデキヤをそのような仕打ちにしたのではないかということであります。

 ですから、このエレミヤ書の三四章の一節から七節は、ゼデキヤがまだバビロンに従順に従っていた時代のものだろうということであります。

 そのゼデキヤが八節からみますと、ある時、エルサレムにいる民と契約を結んで、奴隷の解放をしたというのです。その契約は、ヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、また何びとであれ、同胞であるユダの人を奴隷とはしないことを定めたものであるという契約をしたというのです。

 これは申命記一五章に記されている律法に基づいてそうしたのでいなかとも言われております。そこでは、同胞のヘブライ人を奴隷とした場合には、六年働かせたあと、七年目はそれ相当の賃金に当たるものを与えて、解放しなくてはならないという律法が定められているのであります。

 学者の意見では、これはひとつの理想的な律法で実際には行われていなかったものだということであります。

 この時、ゼデキヤ王は、エルサレムにいる民と契約を結んで奴隷を解放したのであります。この契約には貴族も民も加わり、それぞれの男女の奴隷を自由の身として去らせて、再び奴隷にしないという定めに従って去らせた。

 しかしそのあと、一一節をみますと、「しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を再び強制して奴隷の身分とした」のであります。同じことが、一六節からも記されております。
 
 なぜこの時、ゼデキヤ王たちは、奴隷を解放したのか。いろいろな説はありますが、この時、エルサレムはバビロンに攻められ、包囲されているので、経済的にも大変な状況で、とうてい奴隷をやとっている経済的ゆとりはなかったのではないか。あるいは、奴隷を兵隊とし国に提供したのではないか。あるいは、このような人道的な律法を実行することによって、主なる神にほめられようとして、あわよくば、神の力によりバビロンからの解放を考えたのではないかとも言われます。

 そしてその後、方針をかえて、一度解放して自由になった者を再び奴隷としたのは、エジプトの勢力が増したために一時バビロンが撤退したという事態を迎えて、それでエルサレムの都市も経済的ゆとりができて、それで再び自由になった者を奴隷としてひきもどしたのではないかと推察されているのであります。

 ともかく、ゼデキヤ王をはじめとするお偉方と民は、一度は神の前で、みんなの前で奴隷解放を契約しておきながら、自分たちの都合でその契約を破った、それが今預言者エレミヤに厳しく非難され、神から裁かれているのであります。

 一七節からみますと、「それゆえ、主はこう言われる。お前達が、同胞、隣人に解放を宣言せよというわたしの命令に従わなかったので、わたしはお前達を解放する。それは剣、疫病、飢饉に渡す解放である。わたしは、お前達を世界のすべての国々の嫌悪の的とする」と、ゼデキヤ王は厳しく裁かれるのであります。

 そして一八節からは、そのようにして契約を破ったユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、国の民は、あの契約の儀式の時に行う儀式のように、その儀式というのは、子牛を二つに切り裂いて、もし契約を破った場合には、この切り裂かれた子牛のように八つ裂きにされるという証として、そのふたつに切り裂かれた子牛の間を通させるという儀式を行うのですが、そのように契約を破った者は、切り裂かれるといわれるのであります。そしてゼデキヤ王はバビロンの王の軍隊に手渡されるといわれてしまう、これがお前達にとっての解放だと皮肉られるのであります。

 イスラエルの民にとっと、契約を破るということがどんなに厳しいことかということであります。
 それはイスラエルと主なる神との関係は、もともと契約の関係としての間柄であったからであります。神とイスラエルの関係の契約は、もちろん、われわれ人間どうしの契約のように対等の契約ではありません。あくまで、主なる神が上で、イスラエルはその下に立つという関係であります。
 主なる神がエジプトからイスラエルの民を脱出させて、あの苦難のエジプトから救い出した上で、シナイの山のもとで、イスラエルの民と契約を結ぶわけです。十戒を与えて、この戒めを守れ、そうしたら、お前達は神から祝福される、もし守らなければ神から呪われる、だからこの律法を守れ、この律法を守ったならば、わたしはお前達の神となり、お前達はわたしの民となる、そういう契約を結ぶのであります。

 主なる神とイスラエルの民はそのような契約関係にあるのであります。しかしその契約は、人と人との間の契約のように、対等の立場での契約ではなく、その大前提に、主なる神はイスラエルの民をエジプトから救い出した神であるということをまずイスラエルの民に述べて、それを明らかにして、それから、だからわたしを愛し、わたしに仕えなさい、そのためにこの契約を守れといわれるのであります。それは決して対等の契約関係ではないのです。

 それはいわば親と子の関係に似ています。親と子の関係は、いわば血のつながりですから、その子がまだ成人になっていない子どもの時代には、その子供をなにがあっても親は子の面倒を見なくてはならない、血のつながりとして面倒をみなくてはならないのです。しかし子供が成人した段階では、血のつながりという自動的な意味で親子関係があるのではなく、親と子は人格関係になって、子供がいい加減なことをして、親を親とも思わない態度をみせれば、いつでも親子の関係を絶つことができる、勘当できる関係になるわけです。つまり契約関係になるということであります。
 
 主なる神とイスラエルの関係が血のつながりとしての関係ではなく、契約の関係にあるということは、主なる神はイスラエルの民に対して、あくまで、その人格を認めて、いわば、大人として認めて、お前達は自分の責任で、自覚的にわたしに従いなさい、その一つの具体的な証として、律法を守りなさいと言われたのであります。ですから、神とイスラエルの関係が契約関係にあるということは、神がイスラエルの民を人格として認めているということであります。自立した大人として扱おうとしているということであります。

 ですから、あのバプテスマのヨハネが悔い改めるためにヨハネからバプテスマを受けにきた人々に対して、「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父にはアブラハムがある』などと思ってもみるな。神はどんな石ころからでもアブラハムの子たちを造りだすことがおできになる」といって叱ったのであります。

 神とイスラエルの関係は、血のつながりではなく、ひとりひとりが神に対して忠実に従うかどうかという契約関係という関係の中にあるということであります。

 神様がわれわれを救う時に、ただ自動的に救うのでなく、われわれと契約を結んで救おうとなさったのであります。それはわれわれを大人として、自立した大人として扱おうとなさったということであります。われわれが神の恵みに対して、責任をもって応答する、従う、それを神が求めておられるということであります。神はわれわれとの関係をあくまで、人格関係におこうとされたということであります。

神に従うその具体的な方法として、神は律法をわれわれに与えた。しかしその律法はわれわれ人間を謙遜にさせないで、逆に律法はわれわれ人間を傲慢にさせてしまった。あるいは律法を守れないということによって、ただわれわれを絶望に陥らせ、神から遠ざけることになってしまった。

それで神は新しい契約を結ばれたのであります。それは律法による契約ではなく、イエス・キリストの十字架の血による契約であります。神の側で一方的に犠牲の供え物、あがないの供え物を用意し、御子の血を流し、われわれ人間はただこれを信じる、受け入れる、それだけでいい、それだけを信じなさい、という新しい十字架の血による契約を結ばれたのであります。

 われわれのほうでも、この神の一方的な愛のわざを受け入れる、信じる、そしてこのかたに従っていこうという応答がなければ、つまり信仰をもたなくては、この救いにはあずかることはできないのです。信仰によって救われる、義とされるのです。

 そうすると、この「信仰によって」ということは、なにか救われるための条件のように聞こえるかもしれませんが、しかしこの神の無条件の一方的な救いを信じるということですから、信仰によってということは、もはや条件とはいえないのであります。無条件ということと同じであります。

ですから、われわれはこの救いを自分のものにするためには、ある時に、洗礼を受けるという誓いの儀式、つまり契約の儀式をしなくてはならないのであります。われわれはただ自動的に救われるのではなく、ある時に、わたしはこの無条件の神からの救いを受け入れます、信じますという告白をしなくてはならない、誓いをしなくてはならない、契約をしなくてはならないのであります。

キリスト教もまた契約というものを重んじるのであります。聖書は、教会では、旧約聖書、新約聖書と呼ばれるのであります。これはどちらも契約の約、という意味であります。
 だから、契約を破るということは、聖書では、決していいかげんなことではなく、厳しく問われるということであります。

 われわれはわれわれの人生において、われわれはどんなにこの契約を破ってきたことか。契約という言葉が奇異に聞こえるならば、約束という言葉でおきかえてもいいと思います、あるいは、契約は誓いという言葉をも含んでいる言葉であります。われわれはその契約、約束、誓いをどんなにか破ってきたことか。

 そうしたことがあまりにもありすぎたために、主イエスももういっさい誓うなといわれたのであります。イエスはこういわれるのです。「昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命ぜられている、しかし、わたしは言っておく、いっさい誓ったはならない。ただ『然りは然り、否は否』といいなさい。それ以上のことは悪い者から出る」とまでいわれたのであります。神様が大事にしている契約、誓いをわれわれ人間が逆に利用して、神の恩恵を引き出そうとしたからであります。

 ゼデキヤ王が一度は奴隷を解放したのはそのためであったようでりあます。そしてもうそれほど神の恩恵はいらなくなると、平気でその契約を破り、その誓いを捨てたのが、今預言者エレミヤを通してゼデキヤが厳しく裁かれているところであります。

 誓いを破る、約束を破る、契約を破らざるを得なかったという苦い経験をしたことがなかった人がいるだろうか。

 われわれがすぐ思いつくのは、あのペテロの誓いの挫折であります。主イエスが自分が十字架で死ぬことになるといわれると、ペテロはわたしも一緒に死にますといいます。「たとえみんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」とイエスの前で誓うのであります。その時、イエスはそのペテロに対して、「お前は鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」といいますが、ペテロは「たとえ死ななくてならなくなっても、決してあなたを知らないなどとはいいません」と誓うのであります。その結果はみなさまがよく知っている通りであります。

 ペテロはイエスが捕らえられた大祭司の庭で「あなたはイエスの仲間だ」といわれると、三度までそれを否認するのであります。そして三度目に「わたしはイエスなんて知らない」と誓うと、鶏の鳴き声を聞く。するとペテロはイエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣いたというのです。

 そしてこのことは、ペテロの信仰を徹底的に変えたと思います。この出来事はペテロの生涯を徹底的に深くしたと思います。彼の信仰をどんなに謙遜にしたかわからないと思います。自分が救われたのは、決して自分の意志の強さとか、信仰の強さなんかではない、誓いの強さなどではない、このような自分の弱さを知っていて、そのために十字架についてくださった主イエスのあがないによるという信仰をもったのではないかと思います。
 
 このことで思いだすのは、昔新聞小説に載っていた井上靖の小説に出てくる一節であります。若い人の結婚披露宴によばれて、スピーチを頼まれてこういうことを話すという場面であります。若い二人をみて、しきりに縁というものを感じるというのです。縁という言葉は別の言葉でいえば、運命の出会いである。二つの運命がいかなる理由によってか、出会ってしまった。出会ってしまった以上これはもうどうすることもできない。いい出会いであれ、悪い出会いであれ、出会ってしまったものは仕方ない。この運命の出会いを大切にして欲しい」というのです。

そしてこう続けます。「私と別れた妻の場合は、二人ともいっこうに大切にしなかった。もし大切にしていたら、お互いにもっと別の人生を歩いていたかと思う。いくら大切にしても、別れる場合は別れるだろう。しかし、大切にしてその結果別れるのと、大切にしないで、別れるのでは、そこに大変な違いがある。私と別れた妻の場合は、自分たちが持った運命の出会いというものを少しも大切にしなかった。その結果、私達二人は当然のことながら、神の裁きを受けねばならなかった。娘の死がそれであった」というのであります。その娘さんの死というものがどういうものであったか忘れてしまいましたが、自殺だったのか、あるいは湖での事故死だったのか忘れましたが、そういうことを結婚の披露の席で話すのであります。

 私がこのスピーチで心うたれたのは、「出会いというのは、いくら大切にしても別れる場合には、別れるだろう。しかし大切にして別れるのと、大切にしないで、別れのではそこに大変な違いがある」という述懐であります。

 われわれも誓いとか、約束とか、契約というものを破らざるを得ない時というものがある。それはもう何回もあるかもしれません。しかしその誓いを破らざるをえない時に、その時に、ペテロがそうしたように、外に出て激しく泣く、ただ自分のふがいなさに泣くのでなく、イエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣く、イエスが自分の弱さを十分知っておられ、そのためにお前の信仰がなくならないように祈っているというイエスの言葉を思いだしながら、外に出て激しく泣く、そのように誓いを破るという重さを受け止めなくてはならないということであります。
 
 われわれはどんなに、洗礼式の時に、あなたを信じますと誓っても、われわれの信仰生活がどんなものになるかはわからない。信仰を捨てる時もあるかも知れない。しかし、一度洗礼を受けて、そのとき誓って、その誓いを破ってしまうのと、そういう誓いを一度もしないで、ただずるずると信仰生活をしているのとはやはり違ってくるのではないか思うのであります。われわれの洗礼式のときの誓いもそれはあのペテロの信仰告白と同じようにあやふなものであります。しかしそれをするのとしないのとは大きな違いはあると思います。
 
 ゼデキヤは、この大切な契約という誓いを全く大切にしていなったのであります。ただ利用したのであります。神の裁きを受けるのは当然であります。