「他山の石」 エレミヤ書三五章 ローマ書一一章一一ー一二節

 今日学ぼうとしておりますエレミヤ書の三五章の箇所は、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代の話であります。先日のところは、ゼデキヤ王の時代の話ですので、ヨヤキムの時代は、その前の前の王の時代ということで、話が前後します。
 
 その時に、主から預言者エレミヤにこういう預言があったというのです。
「レカブ人一族のところへ行って、主の神殿の一室に来るようにいい、彼らに酒を飲ませなさい」。
 
 レカブ人というのは、聖書にはあまり登場しないのですが、列王記下の一○章一五節に出てくるだけです。そこでは、イスラエルの王イエフが偶像礼拝を一掃しようと宗教改革をしていたときに、それを積極的に支持した一族のようであります。彼らは純粋にヤハウェ信仰を守り通し、砂漠時代の生活様式を引き継ぎ、都市化されてしまったエルサレムの人々の文化を拒否して生活したようなのであります。

 その一族はエルサレムの周辺の砂漠に生活していたようなのですが、バビロンが攻めてきたので、その戦いを避けるためにエルサレムまで一族で逃げてきて、今エルサレムに来ているようであります。

 そのレカブ人一族を招いて、酒を飲ませよというのであります。それは彼らが先祖の言い伝えを守って、一滴も酒、ぶどう酒を飲もうとしないのを知っていて、そうして見よ、と主なる神からエレミヤは言われるのであります。それで彼らを招いてみんなの見ている前で、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「さあ、ぶどう酒を飲みましょう」というのであります。

 すると彼らは答えた。三五章の六節「われわれはぶどう酒を飲みません。父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々の至るまでぶどう酒を飲んではならないと命じられているからです。また、家を建てるな、種を蒔くな、ぶどう園を作るな、またそれらを所有せず、生涯天幕に住むように。そうすれば、お前達が滞在する土地で長く生きることができる、といいました。われわれの先祖である、レカブの子ヨナダブの命じたすべてのことに聞き従ってきました。生涯、われわれも妻も息子、娘たちもぶどう酒を飲まず、住む家を建てず、ぶどう園、畑、種を所有せず、天幕に住んでいます。われわれは父祖ヨナダブの命じたすべてのことに従って行ってきました」と答えたのであります。

 その時、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。行って、ユダの人々とエルサレムの住民に告げよ。お前達はわたしの言葉に従えという戒めを受け入れないのか、と主は言われる。レカブの子ヨナダブが一族の者たちに、ぶどう酒を飲むなと命じた言葉は守られ、彼らはこの父祖の命令に聞き従い、今日に至るまでぶどう酒を飲まずにいる。ところがお前達はわたしが繰り返し語り続けてきたのに、聞き従おうとしなかった。わたしはお前達にわたしの僕である預言者を、繰り返し遣わして命じた。『おのおの悪の道を離れて立ち返り、行いを正せ、他の神々に従うな、そうすれば、わたしがお前達と父祖に与えた国土にとどまることができる』と。しかしお前達は耳を傾けず、わたしに聞こうとしなかった。レカブの子ヨナダブの一族が父祖の命じた命令を堅く守っているというのに、この民はわたしに従おうとしない。」

 先祖の命令を忠実に守り通して一滴の酒を飲もうしないこのレカブ人に比べてお前達はどうしてわたしの命令に聞き従おうとしないのかということであります。これは預言者エレミヤが時々行う、一種のパフォーマンスであります。ただ言葉でそうせよ、というだけでなく、実際の行動を通して、主なる神の言葉を告げようとする預言であります。

 絶対に酒を飲もうとしないレカブ人に対して、わざわざ神殿にまで招いて、ぶどう酒をなみなみと注いだ壺と杯を出して、さあ、酒を飲みなさい、と誘惑するのはずいぶん失礼な話だと思いますが、そのようにしてまで南ユダの人々を叱りたかったのであります。

 ここでは主なる神はレカブ人の父祖の命令に忠実に従ったということ、聞き従ったという一点をとらえて、お前達はそれなのに、「わたしが繰り返し語り続けたのに聞き従おうとしなかった」ということを述べているだけで、レカブ人の都会的な文化を拒否し、酒を飲まない、住む家をもたず、ぶどう園、畑、種を蒔かないという生活様式を勧めたわけではないのです。そのように文化を拒否し、保守的になることが信仰を守り通すということではないのです。ですから、生活様式は時代と共に変わっていっていいはずだし、従ってそれにつれて倫理的価値観も変わって行かざるを得ないと思います。今はわれわれの礼拝において女はかぶりものをかぶることはしていないのでありす。問題はそういう生活様式ではなく、どのような生活様式をするにせよ、そのなかで自分を超えたかたの声に聞き従おうとする信仰をもつ、自分の考えを、人間の考えを絶対化しないということであります。どんな時にも生ける神の前にひれ伏すという信仰、その神に聞き従うということであります。

 今日の説教の題は「他山の石」という少し聖書の言葉にはない言葉を使って説教題にしましたが、他山の石というのは、辞書を引きますとこう載っておりました。「他山の石、もって玉をおさむべし」という中国の詩経から出た言葉で、よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨くのに役に立てることができるという意味から、他人の誤った、あるいは、つまらない言行でも、自分の修養の助けとしたり、戒めにすることができるということわざになっているということであります。他の辞典では「自分よりも劣っている人の言行も自分の知恵を磨く助けとすることができる」とありました。
 
 わたしはこの意味を誤解しておりまして、他山の石というのは、他の山の石というのを、他の山の良い石をもって自分の宝を磨くという意味にも、とっていたのであります。しかし本当は、もともとの意味は他の人のあやまった言行、つまらない言行を見て、あるいは、他の人の失敗を見て、我が身を振り返る、反省するという意味のようです、

 ですから、ここでは本当はこの説教題はあてはまらないのであります。なぜならここでは、レカブ人の立派な信仰、その堅固なまでの忠誠心をもって、反省せよ、悔い改めよ、ということだからであります。

 そして考えてみれば、他人の立派な生活態度をみて、自分のことを反省するということはなかなかできそうもないのではないかと思います。しかし他人の間違いを見て、他人の失敗を見て、ああ、そうしてはならないと自戒する、反省する、あるいは悔い改めるということなら、われわれにもできそうだなということで、この他山の石ということわざは生きてくるのだなということを思ったのであります。

 他人がなにか悪いことをして、不幸な目に会う、いわば罰を受ける、それを見て、反省する、何か悪いことをしたら、自分も不幸な目に会う、罰を受けるのだと反省することはできる、自分の子供にそういって、誰々さんの子はあんな悪いことをしているといって、戒めることはできる、しかし、他人の立派な行いを見て、自分の生活態度を改めるということは、われわれはとうていできないなと思うのであります。

自分の子供に、誰々さんはとてもいい子で、よく勉強する、礼儀正しい、あの子を見習いなさいといって、われわれも自分の子を叱ることがあるかもしれませんが、そういう叱りかたは、子供には反発を与えるだけで、それはかえって逆効果を引き起こすだけではないかと思うのです。

 繰り返すようですが、逆にあの子は非行に走った逮捕されてしまった、だからお前も気をつけなさいといって、我が子を戒める、そういう時には、子供のほうでもそれを受け入れることができるかもしれないと思います。
 それはまさに他山の石であります。

 しかし、今主なる神は、レカブ人の立派な行いを通してイスラエル民族の不信仰を激しく糾弾しているのであります。

 これは、さきほど読みましたパウロの手紙でも同じ論法を用いて、選民イスラエルを奮起させようとしているのであります。詳しく論じると面倒ですので、簡単にいいますと、パウロは自分の同胞の民である選民イスラエル民族が今イエス・キリストを受け入れない、信じようとしないのはどうしてなのか。選民イスラエル民族は神に永久に捨てられてしまうのかということを論じているところなのですが、パウロはこういうのです、今キリスト教はイスラエル民族を離れて、異邦人が主流になって、神が選ばれたイスラエル民族は捨てられているように見える。それは選民であるイスラエル民族が傲慢になったからだ、そういう罪を犯したからだというのです。
 そしてそのお陰で、今福音は異邦人のほうに移っている。いわば、選民イスラエルの傲慢な罪のお陰を受けて、異邦人は救いに預かっているのだというのです。
 
 そしてそれは選民イスラエルが異邦人のほうが今神の恵みを受けて救われているのを見て、それを妬んで、それに奮起して、やがて選民であるイスラエルの人々も悔い改めるようになるのだ、そのようにして異邦人もイスラエル人も救われ、全世界の人々が福音を受け入れるようになって、救われるのだ、神はそのような遠大な救いの計画を立てておられるのだと論じているのであります。

 わたしはこの論法を読むたびになにかパウロという人はずいぶん屁理屈を述べる人だなという気がしてならないのです。これはパウロが自分の同胞の民が今キリストを受け入れないのはなぜかということ、そして永遠に神に捨てられるのかということを憂えるあまりに考えた、いわば苦肉の策、苦し紛れの論法ではないかと思えて仕方ないのです。
 ですから、ここを読むたびにわたしはパウロがどんなに自分の同胞の救いということに心を痛めているかということが伝わってくるのです。

 パウロもこれは自分の屁理屈であるかもしれないとわかっていたのかもしれません。それでこういうことをいいながら、最後には、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを窮め尽くし、神の道を理解しつくせよう」というのであります。つまり、神の救いの道は人間は知ることができないというのです。パウロは今まで自分が述べてきた救いの論法をみずから否定するようなことをいうのです。

 選民イスラエルが自分たちではなく、異邦人が今神の恵みの救いに預かっている、それを見て、嫉妬し、奮起して、自分たちも悔い改め、キリストを受け入れる、そんなことは、起こりえないと思うのです。現にいまだに、イスラエルは民族としては、ユダヤ教であり続けています。キリスト教を拒否しているのであります。もちろんイスラエルの人々の中にはキリスト教徒もおりますが、もともとキリスト教はイスラエル人であるイエスの弟子から始まり、パウロもまたイスラエル人です、しかし民族全体としては、ユダヤ教なのであります。つまり、パウロの述べたことはこの二千年になっても実現はしていなのであります。

 それは預言者エレミヤが、レカブ人の立派な信仰をとって、南ユダの人々に悔い改めを迫り、しかしそれに失敗したのと同じであります。

 われわれは他の人の失敗、あやまち、そしてその結果の罰とか悲惨さをを見て、我が身を振り返り、反省し、悔い改めることなら、できるかもしれません、まさに他山の石であります。しかし、他人の立派さを見て悔い改めることなんかは到底できないのであります。

 しかし考えてみれば、他人の失敗を見て、その結果の悲惨さを見て、反省し、悔い改めるという時の、悔い改めというのが、本当の悔い改めになるのだろうかということであります。それは他人の不幸を見て、自分はそのような不幸にはなりたくはないというのは、はなはだ利己的な自己中心的な反省にすぎないのではないか。極端にいえば、これは他人の不幸をあざ笑いながら、自分達の幸福を追求するという仕方ではないか。そうまでいわなくても、これは少なくとも他人の不幸に本当に共に悲しんで、同情して、自分もまた悔い改めということではないと思うのです。

 ですから、そのような意味での他山の石、つまり他の山の粗末な石をもって、自分の宝石を磨くというやりかたでは、決して本当の意味で、自分の宝を磨くことはできないのではないかと思うのです。
 
 もし他山の石によって、自分の宝石を磨くとするならば、他山の立派な石をもって自分の石もまた磨く、つまり、レカブ人の立派な信仰の姿勢を学んで、選民イスラエルもまた反省する、悔い改めるということでなければ、本当の悔い改めにはならないのでなはいか。それには本当に謙遜さが必要とされる、他人の立派さに心から感動し、打ち砕かれるためには、どんなに謙遜さを必要とするかということであります。

 今神か選民イスラエルにその謙遜さを求めているのではないか。他人の立派な信仰をみて、心から感心し、そして自分も悔い改める、そのように謙遜にならないとわれわれは救われないのではないか。

 考えてみれば、主イエスもまたしばしば選民イスラエルの不信仰を叱責して、悔い改めを迫る時に、しばしば異邦人の立派な信仰を取り上げているのであります。

 たとえば、イエスはローマの百卒長の謙遜な信仰をみて、感心して、「よく聞きなさい、イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。あなたがたにいうが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみしたりするだろう」というのであります。

 イエスもまた他人のあやまちの結果の不幸をとりあげて、悔い改めを迫るという迫りかたはなさらなかったのではないか。
 それを思わせる箇所が一カ所りあります。それはピラトが巡礼にきたユダヤ人をその犠牲の動物の血と共に殺したという悲惨な出来事があったときに、イエスがそれを報告しにきた人々に対して言った言葉であります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いと者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」といわれているところであります。

 しかしここは、そのような悲惨な目にあったガリラヤ人は彼らが罪を犯していたからそのような悲惨な目にあったのだという、人間の身勝手な思いを打ち砕くために、そうではないと、その考えを否定し、お前達が他人の不幸をそのようにみるならば、お前達も同じような悲惨に目に会うぞというための言葉で、それは傍観者的に他人の不幸を見るなということを戒めるための言葉であります。決して他山の石というような、他人の不幸をもって悔い改めを迫るというようなことではなく、傍観者的に人の不幸を見るなということであります。

 あの放蕩息子のたとえに出てくる、放蕩息子の兄は、弟の悔い改めを見て、自分は悔い改めることはできなかったのであります。

 われわれは他人の不幸な姿を見て、反省したり、一見悔い改めることはできるかもしれません、しかしそれが本当の悔い改めにはなり得ないことは先ほど申した通りであります。ましてわれわれ人の立派なふるまいを見て、悔い改めるということはなかなかできないのであります。

 われわれはやはりこちら側の悔い改め、人間側からの悔い改めによって救いに預かるということは到底できないということであります。悔い改めは放蕩息子の場合のように、父なる神のほうからわれわれの方に歩みよって、神様のほうから黙ってわれわれを抱きしめてくださる、罪を一方的に赦していただく、それによってわれわれは初めて悔い改めることができるのであります。