「真理は抹殺できない」 エレミヤ書三六章 マタイ福音書一○章二六ー三一節

 今日の箇所は、先週に引き続き、ヨシヤの子ヨヤキムが王であった時代であります。まだバビロンによってエルサレムが崩壊されていないときであります。しかし預言者エレミヤは、今悔い改めて真実の神ヤハウェのもとに立ち帰えらないならば、バビロンによってイスラエル民族は崩壊すると警告を発している時であります。

 その時に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「巻物をとり、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれの悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と告げられます。

 それでエレミヤは弟子のバルクを呼んで、今まで語ってきたことを口述筆記させます。そして自分は今エルサレム神殿に入ることが禁じられているから、お前が神殿にいって、この巻物に書かれたことを集まってきた民衆に語るようにというのです。それでバルクはそれを人々に語った。その中に王の書記官ミカヤも聞いたのであります。

 ミカヤは宮廷にもどって、自分が聞いた言葉を役人たちに告げた。役人達はバルクを呼び寄せて、その巻物を読むようにと命じるのです。バルクがその巻物を読むと、役人達は互いに顔を見合わせた。そのエレミヤの語ることはすべて真実だと思ったからであります。このままにしていたら、自分たちの国は滅びると思ったのであります。これは「王に伝えなくてはならない」と互いに言った。そして、王に伝えにいくのであります。しかしその言葉は南ユダの滅亡を預言している内容だったので、預言者エレミヤとバルクの身を案じて、身を隠しなさい、その居場所を誰にも知られないようにしなさいいって、バルクとエレミヤを安全な場所に移しました。バルクが書いた巻物は、書記官の家に保管しました。

 彼らはその巻物を直接王のもとにもっていかないで、そこで語られている内容だけを王に話します。すると、王はただちにその巻物をもって来いと命じます。

 王は宮殿の冬の間にいました。時は九月で寒く、暖炉の火は赤々と燃えていた。
その暖炉の前で書記官が、巻物を三、四欄を読みますと、そのつど王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物すべてを燃やしてしまったのであります。

 王の側近たちは、このすべての言葉を聞きながら、王をはじめだれひとり、恐れをいたがず、衣服を裂こうともしなかったというのです。書記官達お役人たちが、その巻物を燃やさないように懇願しますが、それはかえって逆効果で、王は耳を貸さず、その預言を語り、それを書き記したエレミヤとバルクを捕らえるようにと命じるのであります。
 役人達は、そのことがあることを予想していて、エレミヤとバルクに身を隠すようにと言っていたために、その難を逃れました。

 その後、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「改めて、別の巻物を取れ、ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ。そして、ユダの王ヨヤキムに対して、あなたはこう言いなさい。お前はこの巻物を燃やしてしまった。お前はエレミヤを非難して、『なぜ、この巻物にバビロンの王は必ずきて、この国を滅ぼし、人も獣も絶滅させると書いたのか』と言った。それゆえに、主はユダの王ヨヤキムについてこういわれる。彼の子孫には、ダビデの王座につく者がなくなる。ヨヤキムの死体は投げ出されて、昼は炎熱に、夜は霜にさらされる。わたしは王とその子孫と家来たちをその咎の故に罰する。彼らとエルサレムの住民およびユダの人々に災いをくだす。この災いはすでに繰り返し告げたものであるが、彼らは聞こうとしなかった」。

 そのようにして、エレミヤはもう一度弟子のバルクに別の巻物を与えて、そこに口述筆記させて、今日のエレミヤ書ができあがり、今日までそれが残ったのだということなのであります。エレミヤ書というものがどのように残ったかたを語る重要な記事だそうです。

 戦時中は、よく焚書ということが行われたのであります。戦争に反対することを書き記した書物、あるいはマルクシズムの思想の書物を出させて、広場の前でみんなの見ている前で、火で焼いて、みせしめにしたのであります。辞書をみますと、焚書というのは、学問・思想を弾圧するために書物を焼き捨てること、とあります。それはこのエレミヤの時代から行われていたということであります。

 思想は、それが真実の思想であるならば、どんなに弾圧しようが、抹殺しようが、抹殺できるものではないことは、歴史が語ってきたことであります。その思想が書き記された書物を火で焼こうが、その思想の真実を抹殺することはできないのであります。

 役人のユディが、エレミヤが語り、バルクが書き記した巻物を三、四欄を読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべたというのであります。ある人が指摘しておりますが、王はその巻物の最初を読むのを聞くとかっとなって、その巻物全体を一度に暖炉にくべたのではなく、三、四欄読むたびにそれをナイフで切り裂いて、少しづつ暖炉にくべたというのは、王が一時の衝動で、かっとなって、軽率に巻物を焼いたのではなく、真っ向から預言者エレミヤに対して、それはつまり主なる神に対してということになりますが、神に対して挑戦的に立ち向かっていこうとしていることを表しているというのであります。

 どんなにその巻物を焼いて抹殺しようとしても、それは抹殺できなかったのであります。主なる神は、ただちに預言者エレミヤにもう一度同じことを書き記せと命じたのであります。

 このことで思い出すのは、あの十戒が書き記された石の板二枚が、一度は砕かれて粉々になり、そして再び神から命じられて、同じ言葉が、新しく二枚の石の板に書き記されたと言う出来事であります。それはモーセがシナイ山に登って、神から神の指が記した石の板二枚をいただくのですが、モーセがその二枚の石の板をもって下山してみると、アロンが民衆の要求に応えて金の子牛を造り、これがお前達の神だといい、民衆は皆喜んでその金の子牛を中心にして踊っている光景を見るのであります。
 モーセという強力な指導者が今シナイ山に登ってしまって、その姿が見えないので民衆は不安に感じてモーセの兄アロンに訴えて、自分たちに目に見える神を作ってくれと要求するのであります。それでアロンは人々の耳に飾られていた金をださせて、それで金の子牛の像を造り、これがお前達の神だとさしだし、民衆は喜んだというのであります。
 
 モーセは自分がシナイ山に登って、主なる神から偶像をつくってはならないと命じられている十戒を受けている、その時に山の下では、まさにその偶像がつくられて、その偶像を礼拝しているのをみて、怒り狂い、神から神の指で書き記された石の板を打ち砕き、粉々にしてしまったのであります。

 しかし、主はモーセにいうのであります。「前と同じ石の板を二枚きりなさい。わたしはお前が砕いた前の板に書かれた言葉をその板に記そう」と言われて、同じ言葉がもう一度二枚の板に書き記されたというのであります。それが契約の箱に安置されたのであります。

 これは焚書というよなこととは違いますが、モーセが怒りのあまり神によって書かれた石版を砕いてしまったという出来事ですが、しかしそのように一度は破壊されたかに見える神の戒めは、人間の手によっては破壊されずに、もう一度書かれたと言うことで、真理は人間の罪や、人間の怒りによっても抹殺することはできないということをやはり示した出来事ではないかと思います。

 その二枚目に十戒が書き記される時には、主なる神はモーセにこう宣言いたします。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と宣言するのであります。
 これは最初に十戒が石版に書き記された時よりも、もっと神の意志は明確に宣言されて書き記されたのであります。「主、主、憐れみ深く、恵みに富む神、忍耐強く慈しみとまことに満ち、罪と背きと過ちを赦す」と前の時以上に、神の憐れみと忍耐強さがさらに強く宣言されて十戒が書き記されたのであります。

 モーセは神の真実を抹殺するつもりで、石版を打ち砕いたわけではありませんでしたが、しかしそれにしても一度は民の罪のために打ち砕かれた石版の文字、神の言葉は、さらに強化されてもう一度書かれるのであります。

 真実は、真理は、それが真理ならば、どんなに抹殺しようが、その度にもっと強力にその真理性が明らかにされて、その姿を示すということであります。

 主イエスは、弟子達に対して、お前達が宣教に出ていくとき、迫害にあうだろうと予告いたします。その時に「恐れるな」といわれます。その時に何をどういうべきかは心配するな、その時には言うべき事は聖霊が語ってくれるからといって、弟子達を励まします。そしてこういうのであります。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。真実というのは、真理というのは、いつかは明らかにされる、真理は必ず勝利するといわれるのです。真理は抹殺されることはないというのであります。だから、「わたしが暗闇であなたがたにいうことを、明るみでいいなさい、耳打ちされたことを、屋根の上でいい広めよ」といわれるのであります。
 堂々と真理を語れ、堂々と恐れることなく、福音の真理を語れというのであります。

 これは大変励まされる言葉であります。しかし、われわれはそう言われただけで、迫害に耐えられるだろうか。強い人ならば、耐えられるかもしれない。思想のために、自分の信じている信念のために生きるという強い人ならば、そのようにして殉教の死を遂げる勇気をこの言葉は与えるかもしれない。

 しかしわれわれにとって、この言葉、真理は必ず勝利する、真理は抹殺できないから、真理を堂々と語れといわれても、それによってこのわたしが抹殺されてしまったら、元も子もないという気持をわれわれはもつのではないか。

 日本国家のためにということで、死んでいった特攻隊の人たちのことを考えると、よく死んでいけたなという思いがするのであります。思想のために死ぬ、それはその思想がどんなに立派な、崇高な思想だとしても、それだけでわれわれは死ねるだろうか。自分が死んでしまうのならば、真理なんとどうなったってかまわないというのがわれわれの正直な思いでもあるのではないか。真理は抹殺されないかもしれないが、このわたしが抹殺されてしまったらなんにもならないではないか、という思いがしてしまうのであります。

 主イエスは、そういうわれわれの弱い気持をくんで、真理は抹殺されることはないといわれたあと、その真理を宣べ伝えたために迫害に会って殺されるかもしれない弟子達の命についてこういわれるのであります。
 「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。魂も体も地獄で滅ぼすことのできるかたを恐れよ。二羽の雀は一アサリオンという安い値段で売られている、しかしその安い安い、人間の目からみれば価値のないと思われるあの雀の一羽ですら、あなたがたの父の許しがなければ、地に落ちることはない。まして、お前達の髪の毛一本一本までも数え尽くしておられるかた、お前達の弱さも醜さもすべてを知り尽くしておられる神が、あの雀よりも大事にしない筈はないではないか。だから恐れるな」といわれたのであります。

 主イエスは、ただ真理は抹殺されることはないといわれただけでなく、その真理を宣べ伝えるお前達もまた抹殺されることはないといわれたのであります。たとえ人間によって殉教の死をとげるようなことになるかもしれない。しかしそのようにして無惨に殺されたお前の魂は神が必ず覚えておられる、守ってくださる、だから心配することはないと言われて、あの弟子達を励ましたのであります。

 真理は必ず勝利する、それは歴史が明らかにしてくれる、という思想だけではわれわれは励ましにはならない、慰めにはならない、ましてそれだけのことでわれわれは死ぬことなんかできそうもないのではないか。われわれにとっては、真理と共に、その真理を信じて生きるわれわれもまた生かされる、抹殺されない、われわれのひとりひとりのからだと魂を、死を超えて受け止めてくださるかたがおられる、覚えてくださるかたがおられる、そのことがわれわれにとって慰めになる、励ましになるのではないか。

 神はわれわれひとりひとりの髪の毛までもその一本までも数え尽くしておられ、その命と死を覚えておられるかただというのであります。それはわれわれひとりひとりの個というもの、ひとりひとりの個性というものを大事に覚えておられるということであります。それは死んでも、その個というものは残るということであります。死んでも、だれのなにがしという名前をもった個という存在は神に覚えられているということであります。死んでしまったら、もう個というもの、個性というものは消滅してしまって同じになってしまうというのではないのです。

 それで少し脱線しますが、よくキリスト教の教会墓地で、埋骨式のときに、その骨をいわゆる骨壺から出して、骨だけを墓地に注ぐという形の墓地というのがありますが、わたしは何かそういう共同墓地というのは、感覚的に違和感を覚えるのであります。これはもう理屈ではないのです。理屈からすれば、どうせ骨も土の中に消滅してしまうものですから、骨壺にいれたまま安置しようが、そういう共同の穴のなかにみんなの骨と混ざり合おうが同じなのですが、これはあくまで私個人の感覚の問題なのですが、死んだらもう同じだということで、骨が他の人々の骨と一緒にされて葬られるということは、なにかいやだな、耐えられないなという感じを受けるのであります。自分の愛する者の骨をそのようにして葬られる、そのようにして他の骨と混じり合ってしまうというのは耐えられないのであります。

 神はわれわれの個人という存在、この世に生きてきたと言う個人、名前をもったなにがなにがしという個という存在、それがたとえ一アサリオンで売られてしまうようなこの世の価値観からすれば価値のない存在であっても、父なる神はその髪の毛の一本一本までも数えつくして覚えておられるのであります。
 
 真理は抹殺されない。それと共に、わたしの個というものもまた決して抹殺されることはないのであります。