「何を見るか」 エレミヤ書一章十一ー一九節  マルコ福音書八章一四ー二○節

 十一節をみますと、主の言葉がエレミヤに臨んだと記されております。これがエレミヤが預言者としての召命を受けてから、どのくらいの日が経っていたのかはわかりませんが、それほど長い期間が経ってからのことではないだろうと思われます。
 エレミヤは神から召命をうけてから、ぼんやりと庭を眺めておりました。庭かどうかはわかりませんが、ともかく窓から外を眺めていたのであります。その時、神の言葉がエレミヤに語りかけてきた。「エレミヤよ、何が見えるか」と。エレミヤは答えました。「アーモンドの枝が見えます」。すると神は「あなたの見るとおりだ。わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている」という言葉があったというのです。

 口語訳では、このアーモンドは、あめんどうになっております。辞書をひきますと、はたんきょうともいわれているそうです。このごろでは、アーモンドチョコレートといわれているように、チョコレートでくるんだ果実のことといったほうがピントくると思います。このアーモンドは春に一番先に咲く花だそうです。それで、春に先駆けて目覚めるもの、あるいは春を見張っているものという意味のシャーケードという名前がつけられているのであります。

 季節は春が来るという冬の終わりかもしれません。そのときにアーモンドの木に花が咲き始めた、それをエレミヤはぼんやりと見ていたのであります。ぼんやりといっても、エレミヤは自分が預言者として召されたことについていろいろと思索にふけっていたのだと思われます。その時にアーモンドの花が見えた。アーモンドという花は、シャーケードという名前だ、それは目覚めるもの、見張るものという意味だということを考えていたのかもしれません。そして自分は預言者として召されている、預言者というのは、先見者ともいわれております。先を見るもの、誰よりも先に何かを見て、それを予言するという使命を帯びているものだということを考えていたのかもしれません。

 自分はアーモンドという花だと思っていたのかもしれません。その時に主の語りかけの言葉を聞くのであります。「エレミヤよ、お前は何が見えるか」と。 これは口語訳では「エレミヤよ、あなたは何を見るか」になっております。どちらの訳が正しいかどうかわかりませんが、またどちらでも同じようなものかもしれませんが、しかし状況からいったら、「何を見るか」のほうがいいような気がいたします。それは「お前は何を見ようとしているか」という意味を含んだ問いかけだからであります。

 いろんなものが目に映るのであります。その中でわれわれが何を見ようとしているか、何を見るかであります。それが何が見えるか、になってくるのだと思うのです。

 後にエレミヤは神から民に対してこう言えといわれるのです。五章二○節
「これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。『愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず。耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ、敬いもせず、わたしの前におののきもしないのか』と、主は言われる」。

 「目があっても見えず、耳があっても聞こえない民」。これは後に主イエスもイスラエルのかたくなさについて糾弾する言葉として引用しております。

それはマルコ福音書八章一四節のところで記されている言葉ですが、「なぜ、パンをもっていないことで議論するのか。まだわからないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と叱責しているところであります。

 これはどういう状況でいわれているかといいますと、主イエスが弟子達に「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた時なのです。イエスはそこでファリサイ派の人々の偽善とヘロデ党の人々の権力志向、その世俗性に気をつけろという意味で言ったのですが、弟子達はそのことを理解せずに自分たちがパンをもってこないで船に乗り込んだことを非難されたのだと勘違いして、そのことで論じあっていたというのです。

 それに対して主イエスはその前のところでパンの奇跡を行っていて、七つのパンで四千人の男の腹を満腹させていて、もうパンの問題はもうその奇跡で解決済みではないかというのです。そのパンの奇跡を示すことによって、パンを与えることによって、イエスが示そうとしたことは、かえって、人はパンによって生きるのではないことなのです。イエスはそのパンの奇跡を通して、人は神の言葉によって生きるのだ、神の恵みによって生きるのだということを示そうとしたのです。

 もうパンの問題は解決ずみなのに、お前達はまだ肉のパンの問題から抜け出せないでいるのかと叱責しているのです。それが「なぜパンをもっていかいことで議論するのか。まだわからないのか。悟らないかの。目があってもみえなのいか」ということであります。
 お前達は、どんなにわたしの奇跡を体験しても、その奇跡を見ても、その奇跡の本当の意味を理解しない、お前達は目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか。まだわからないのか。悟らないかの」と、弟子達はイエスから叱られているのであります。

 われわれはいろんな経験をしても、ただぼんやりしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、なにも見たことにはならないし、聞いたことにはならないということであります。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、われわれの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということであります。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

 ですから、われわれが何を見るか、何を見ようとしているかということは大事なことであります。何が見えるかということは、何を見ようとしているかということであります。われわれが日常生活において、いつも心をとぎすまして、本質的なもの、一番大事なものはなにか、今しなくてはならないものはなにか、なくてならないものはなにかと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこないのであります。

 今エレミヤは預言者とし召されたばかりの時であります。その時にアーモンドという花を見ていた。それは他の花よりも先駆けて、芽を出し、花を咲かす花であります。目覚めの花ともいわれている。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにもまして、他の誰にも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならないと思っていたのかもしれません。この時代を見張らなくてはならないと思ったかもしれません。特にエレミヤは、神に召された時に、神から「お前は裁き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは、建て、植えるために」といわれていて、厳しい裁きを民に伝えなくてはならないという意気込みがあったのかもしれません。それで普通だったなら
ば、なんでもないアーモンドという花を見ていても、いつもとは違ったものとしてそれが見えたのかもしれません。

 知識人の役割というものがあるとすれば、時代に先駆けてその時代の危機を見抜くことであるかもしれません。しかしあの五十年前の戦争に対して、どれだけ知識人といわれている人々がその戦争の愚かさに警告を発したか。後に東京大学の総長になった矢内原忠夫は戦争の愚かさを訴え、東京大学の職を追われたのであります。そのとき、彼はこのエレミヤのことを思いだしていたようであります。

エレミヤは自分が目覚める者、先駆ける者、この世を見張る者でなければならないと思っていたのかもしれません。それをアーモンドの枝を見ながら思っていたのかもしれません。

 「エレミヤよ、何が見えるか」と主から問われた時に、「アーモンド、シャーケード、見張るという意味をもつ木の枝を見ています」と答えたとき、エレミヤはそういう思いで神に答えたのではないかと思います。
 それに対して、神は「お前の見るとおりだ」と、一応エレミヤをほめているのであります。しかし、そのあと主なる神は思いがけないことをいわれるのです。「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている、シャーケードしている」といわれるのです。つまり、見張っているのは、エレミヤではない、神ご自身だというのです。

 確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたのです。しかし、それ以前に、その前に神ご自身が見張っているといわれるのです。何を見張っているかといいますと、「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしの言葉」というのは、神がエレミヤにこのように民に語れといわれた神の言葉であります。エレミヤに託した神の言葉であります。それが本当に実現するかどうか、神ご自身が見張っているというのです。これを聞いた時に、エレミヤはどんなに肩の力がぬけたかわからないと思います。
 それはどういうことかといいますと、こういうことなのです。

 その後、幾日かたって、またエレミヤが恐らく家にいてぼんやりしている時であります。主の言葉が再び彼に臨んだ。「何が見えるか」。エレミヤは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらに傾いています」。すると、ただちに、神の声が聞こえてきた。「北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。北のすべての民とすべての国に、わたしは今呼びかける。彼らは来て、エルサレムの門の前に、都をとりまく城壁とユダのすべての町に向かってそれぞれ王座を据える。わたしは、わが民の甚だしい悪に対して裁きを告げる。彼らはわたしを捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した」と告げられるのです。

 「北」と、ここでは漠然といわれておりますが、これは後にバビロンのことであることがわかります。後に南ユダはバビロンに攻められ、ついに滅びることになるのです。しかし、まだ具体的にはバビロンという国がそれほどの勢力をもっていない時であります。エルサレムがバビロンによって滅ぼされるのが、エレミヤが召命を受けてからほぼ四十年後であります。まだバビロンが自分達の敵であるということもわからないときであります。その兆しはあったのかもしれませんが、まだバビロンは勢力をつけていないときであります。
 ですから、当然人々は、バビロンが来て自分たちを滅ぼすなどとは夢にも思っていないときであります。その時に、エレミヤはこの予言の言葉を神から語れといわれるのです。前にもいいましたように、神から語れると言われたといいましても、それは突然天からそのような言葉が聞こえてきたわけではないだろうと思います。具体的には、エレミヤの思索を通して、神が語りかけてきたということであります。

 エレミヤは今家の中で、夕飯をまちながら、鍋がぐつぐついっているのをみていたのであります。そのぐつぐつ煮えている鍋が突然北のほうから傾いてきた。それが自分のほうに傾いてきて、今にもこぼれそうになった。その光景をみて、エレミヤは神の言葉を自分の思索の中から聞くのであります。つまりエレミヤは今の南ユダの政治状況をいろいろと考えていたのです。それは単なる政治状況ではなく、自分たち選民の生活そのもの、その信仰生活そのものを考えていた。主なる神を拝むという信仰を失っている、他の神々を平気で拝んでいる、そういう状況をエレミヤは見聞きしていたのです。こんなことをつづけていたら、きっと神の裁きがくるとエレミヤは考えていたのです。その時鍋が北から傾いてきて、こぼれそうになったのであります。その時に自分の心の中に響いてきた神の言葉が、さきほどの言葉であります。

 まだ人々はバビロンという国も知らない時であります。まだ北からの驚異を少しも感じていないときであります。その時に、エレミヤは人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神の裁きなのだと人々に語らなければならないのです。

 まだ日本が敗北していないときに、日本はこんな戦争をしていたらかならず負けると予言するということがどんなに人々の失笑をかうか、いやただ失笑をかうだけでなく、戦意高揚を阻害するものだということで迫害を受けることは必死なのです。そういう時に、日本は滅びると予言するということがどんなに大変なことかということは想像つくことであります。

 エレミヤはそのために人々から笑われたのです。彼がこれが神の言葉だと告げれば告げるほど、人々から笑われ、そんなことをいって脅かすな迫害を受けたのであります。一七章の一五節からみますと、エレミヤの嘆きの言葉が記されております。
 「ごらんください。彼れらはわたしにいいます。『主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい』と。わたしは災いが速やかにくるようにあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。わたしの唇から出たことはあなたのみ前にあります。私を滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。わたしを迫害する者が辱めを受け、わたしは辱めを受けないようにしてください。」

 エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主の言葉だと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれたのであります。
 
 そのエレミヤに対して主なる神は「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と語られたのです。お前がこれは主の言葉だといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと神はエレミヤに語るのであります。だからお前は安心して主の言葉を語れといっているのであります。わたしがそのお前が語った言葉を実現させるからといわれたのです。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったか。神はさらにエレミヤにこういうのです。
 「あなたは腰に帯び締め、立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな。わたし自身があなたを彼らの前におののかせることがないように。わたしは今日あなたをこの国全土に向けて、堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁としてユダの王やその高官たちその祭司や国の民に立ち向かわせる。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなた共にいて、救い出す」と、主なる神はいわれるのであります。
 
 これは主イエス・キリストが迫害に会う弟子達に対していわれた言葉を思いださせます。主イエスはこう弟子達にいわれているのです。「お前達が引き渡されるときは、何をどういおうかと心配してはならない。そのときには、いうべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」と言われているのであります。これを聞いて弟子達はどんなに安心したかわからないと思います。

 エレミヤはシャーケードの木をみながら、「わたしはわたしの言葉を成し遂げようと見張っている」という神の言葉を聞いてどんなに力づけられ、また肩の力を抜くことができたかわからないと思います。