「預言者エレミヤの運命」 エレミヤ書四○章一ー六節 マタイ福音書一六章二四ー二八節

 はじめにおことわりしておきますが、エレミヤ書の講解説教は、この次の説教で終わりにしようと思っております。四十六章からは、諸国民に対する預言というのが載せられておりますが、これはエレミヤの預言ではないだろうというのが今日の聖書学者の見方ですし、内容的にいってもエレミヤの預言とも思えませんし、またここから説教することはできそうもありません。そして五十二章からは、列王記の記事をそのままもってきて、エレミヤが預言したようにエルサレムが陥落したことを記した記事が置かれておりまして、これもエレミヤ書の講解説教としてとりあげる必要はないと思います。
 そんなわけで、今日とこの次の説教で、預言者エレミヤが最後どのような運命をたどったかを見て終わりたいと思っております。

 今日のところは、エレミヤ書の三七章のところからですが、先週学びましたヨヤキムの次に、その子ヨヤキンが一八歳で王位につきました。ヨヤキムがどのように死んだかは、列王記の記事でははっきりとは書かれていません、ただ、先祖と共に眠りにつき、と書いているだけで、病死だったのか、暗殺されたのではないかともいわれておりますが、ともかくたびたび預言者エレミヤを迫害したヨヤキムが死んで、その子ヨヤキンが王位につくのですが、彼はエルサレムでただ三ヶ月王位についただけで、そのときバビロン軍がエルサレムに攻めてきて、征服し、エルサレムの神殿の宝物と王宮の宝物をすべてバビロンに運び、またエルサレムの主だった人々をバビロンに捕虜として連れていったのであります。その時にヨヤキンも母、家臣、高官らと共にバビロンに連れていかれたのであります。そしてバビロンの王はヨヤキンに代わって、そのおじマタンヤを王として、南ユダに据えて、名前もゼデキヤと改めさせたのであります。

 ゼデキヤが王についてまもなく、一時エジプトが勢力を増した時がありました。その時、バビロン軍は一時エルサレムから撤退したのであります。三七章の三節からのところです。
 それでゼデキヤ王はここでエジプトと手を結んで、バビロンに対抗しようとしたのであります。しかし彼は不安でした。それで預言者エレミヤを呼んで、われわれのために祈って欲しいと頼むのであります。預言者エレミヤは、「今はバビロンに降伏することが大事なのだ」と今まで一貫主張して来たことを繰り返します。これが主のみ告げだというのです。「エジプトはかならず撤退して、再びバビロン、カルデヤ軍が攻めてくる、だからエジプトと手を結ぶな」と進言いたします。

 そしてエレミヤはたまたま自分の故郷に土地の相続の問題で帰ろうとして、エルサレムを出ますと、守備隊長がそのエレミヤを見つけて、「お前はバビロン軍に投降しようとしているのだ、彼らのところに一人で逃げていこうとしているのだ」といって、捕らえてしまうのであります。エレミヤがかねて今は敵国のバビロンに降伏することが神のみこころだと言っていたのを快く思っていなかったからであります。
 
 エレミヤは丸天井のある地下牢に長期間留めておかれました。それを知ったゼデキヤ王は使者を送って、エレミヤを連れてこさせて、なお主の言葉を聞かせて欲しいというのです。ゼデキヤとしたら、自分が今しようとしていること、つまりエジプトと手を結び、バビロンに反逆しようとしていることを主なる神から承認してもらいたい、これが主なる神のみこころにかなうことだというお墨付きをもらいたいわけです。

 ちょうどアメリカの大統領が湾岸戦争とかイラク戦争を決断する前に、自分が懇意にしている教会の牧師を呼んで祈ってもらうのと同じであります。自分ひとりの決断では不安でしかたないのです。なんとかして神のお墨付きを貰いたいのです。大統領に呼ばれた牧師は、おそらく大統領の気にいるようなお祈りをしたに違いないと思います。

 しかし預言者エレミヤはそんなことは決してしませんでした。彼は一貫して、「バビロンの王はあなたをバビロンに連れていく、これが主の言葉です」と答えます。そして自分はなぜこのように牢獄に入れられるのか、これは不当ではないかと訴えます。ゼデキヤ王はエレミヤの訴えを受け入れて、彼をもとのところに返さないで、監視の庭に拘留し、パン屋街から毎日パンを一つ届けさせたたというのです。これは都にパンがなくなるまで続いたと聖書は記しております。

 しかしこれが役人達に発覚して、彼らはバビロンに降伏しろと言いふらしているエレミヤを生かしておくのは、不当だと王に訴えます。それで弱気の王ゼデキヤは「あの男のことはお前達に任せる。王であっても、お前達の意に反しては何もできない」などと、王にあるまじきことをいいます。それで再びエレミヤは監視の庭にある水溜におろされてしまいます。そこには水はなく、泥だけで、エレミヤはその泥の中に沈んだ。

 それを見ていたクシュ人の宦官エベド・メレクが王に訴えます。「このままではエレミヤは死んでしまいます」と訴えるのであります。それを聞いた王はエレミヤを助けだすように命じます。エベド・メレクは倉庫から古着やぼろ切れをとって来て、それをつなにして、水溜の中のエレミヤにつりおろします。そのようにしてエレミヤは助けられて、再び監視の庭に留めておかれることになるのであります。

 ゼデキヤ王は再び使者を預言者エレミヤのところに遣わして、エレミヤに「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」といいます。エレミヤはわたしが率直に申し上げれば、あなはわたしを殺そうとするのではないですか」といいますと、王はいや決してそんなことはしないと誓います。それでエレミヤは今まで言って来たことをそのまま述べます。「もしあなたがバビロンの王の将軍に降伏するならば、命は助かり、都は火で焼かれないですみます。しかしそれを拒むならば、都はカルデヤ軍の手から逃れることはできません」と答えます。すると王は「わたしがバビロンにいったら、ユダから逃亡してバビロンにいる同胞のユダヤ人によって殺されることになるのではないか、それを恐れる」といいます。するとエレミヤは「そういうことは絶対にない、だからいさぎよく、バビロンに降伏しなさい」とエレミヤはあくまで王に進言するのであります。

 その後のゼデキヤの運命をみますと、ゼデキヤは最後までエレミヤの進言を受け入れることができずに、バビロンに降伏しなかったようであります。それでついにバビロン軍はエルサレムを攻めてゼデキヤの即位から十一年四月九日、エルサレムの都は陥落してしまいます。王は都から逃亡してアラバに向かいますが、バビロン軍に捕らえられ、バビロンの王のもとに連れ出されます。彼はゼデキヤの目の前でその王子たちを殺し、ユダの貴族たちを殺します。そしてゼデキヤの両眼をつぶして、青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれるのであります。大変悲惨な目に会うのであります。

 このゼデキヤという王はまことに哀れであります。彼は神を信じなかったわけではないのです。極悪非道な王ではなかったのです。再々にわたって、エレミヤを助け出しているのです。そしてエレミヤから神の言葉を聞き出そうとした。ですから、ゼデキヤ王は神を信じようとはしていたのです。しかしゼデキヤは神を信じ切ることはできなかった。信じ切ることができなければ、神を信じることにはならないのであります。

 ゼデキヤはバビロンに降伏する、人に頭を下げることができないという誇り高い王だったわけではないと思います。もともと、ゼデキヤはバビロンの王によって、ユダの王にすえられた傀儡政権にずきないのです。バビロンの王のお陰で王になっただけの王ですから、王としての誇りがあったわけではないのです。それならば、なぜエレミヤの進言を受け入れて、いさぎよく降伏しなかったのか。降伏できなかったのか。それは彼がバビロンに反旗を翻して、一度はエジプトに頼り、バビロンの手から逃れようとしたからであります。
 だから今バビロンに降伏したら、きっと自分は殺されると思ったのです。降伏するという屈辱が耐えられなかったのではなく、ただ自分の命が惜しかっただけなのです。しかしエレミヤは「あなたが降伏したら、あなたの命は守れられる、神が守ります。そしてエルサレムの都も被害に遭わなくて済む」とさいさい断言しているのです。それをゼデキヤは信じることはできなかった。信じ切ることができなかった。

 ゼデキヤは、バビロンに降伏しないで、なんとか自分の命を逃れる道はないかと何度も何度も執拗に神の言葉を待ち望んだのであります。

 苦しみの中にある人というのは、神に祈ります。その時にわれわれはいつも、その苦しみからこのように逃れたいというプログラムを用意して、それをもって熱しに祈り、それを神に押しつけて、そうしてくださいと神に祈るのであります。それ以外の解決のされるかたはいやだと言う頑固な思いをもって神に祈るのであります。たとえば、病気になった時には、なんとしてでもこの病気を治してくださいと祈ります。それ以外の解決のされかたは困るのです。
 それでは神様に祈ったことにはならないのではないか。ただ、自分の願いを神様に押しつけているだけにすぎません。もちろん、われわれは祈る時には必ず、自分の強力な願いをもって、つまり、救われるプランをこちらで用意して、こうしてくださいと祈らざるを得ないのです。それはもう仕方のないことですし、そのような願いをもたないで祈れる人などひとりもいなとい思います。

 主イエスもなんでも願ってもいいといわれて、そのような願いをもって祈りなさい、熱心に祈りなさいといわれているのです。イエスはそのような願いを決してしりぞけたり、それは御利益信仰だといって軽蔑はなさらないのです。しかし、イエスは、あなたがたの父なる神はあなたがに必要なものをご存じなのだから、そのことを信じて、最後には父なる神に委ねて祈りなさいと言われるのです。

 われわれの祈りは、どんな人でも、どんな祈りでも期待から始まります。願いから始まります。こうして欲しいという期待から始まります。しかし祈っていくうちにその期待は、われわれの思いをはるかに超えた父なる神の深い愛を信じるという信頼に変えられていくと思うのです。それが祈りというものであります。
期待から始まるわれわれの祈りは、もしわれわれに信仰があるならば、それは神に対する信頼に変わってくると思います。

 われわれもゼデキヤと同じように自分の救われかたを用意して祈るのです。
アメリカの大統領が戦争を始める前に、牧師を呼んで祈ってもらう時には、もう大統領は戦争を始めるということは決めているわけです。別に牧師の意見を聞こうとか、牧師から聖書的な見解からすれば、どうなりますかなどと謙虚にきこうなどと思っているわけではないのです。ですから、大統領はふだんからよく知っている牧師を呼ぶわけです。自分の意見に賛成だなということがあらかじめわかっている牧師を呼ぶわけです。そして自分の決めた決断を神から祝福され、承認されるために牧師を呼んでいるだけなのです。牧師に祈って欲しいとは頼むでしょうが、これはもう祈りでも何でもないのです。

 ところが預言者エレミヤはそうした牧師とは違いました。王の思いとは全く正反対のことを述べて、その神の言葉に従いなさいと勧めるのであります。

 ゼデキヤは自分の命が救われることを求めたのです。死にたくはなかった。特にバビロンによって、またすでにバビロンにつれて行かれた同胞のユダヤ人の恨みをかって、無惨な殺されたくはしたくなかったのです。しかしその結果は、無惨な死に方をすることになったのです。聖書は彼の死までは記してはおりませんが、自分の目の前で子供たちは殺され、自分の両眼はつぶされて、銅のあしかせをはめられて、バビロンにつれていかれたのですから、それは無惨な最後だったと思われます。

 主イエスは「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」といわれたのであります。

ゼデキヤは自分の命に執着した。その結果、惨めな最後を迎えることになったのであります。

 主イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」といわれましたが、これは無茶な話だと思うのです。自分の命を救いたくないなどいう人は一人もいないと思うからです。
 エレミヤも自分の命を救おうとしています。エレミヤはゼデキヤの前に連れ出された時に、自分が不当に逮捕され、地下牢に入れられたことを訴えております。そして自分を再び役人たちのところに返さないでくださいと訴えているのです。それを王も受け入れて、エレミヤは死なないですむわけです。

 エレミヤは自分の命を大切にしました。いつでも自分の命を救おうとしました。それは当たり前のことです。ただエレミヤはそれだけに執着しなかった。自分の命だけを救う、それだけに執着しなかった。もしそれだけに執着していたら、エレミヤは王様の欲することを預言していた筈です。語っていた筈です。偽預言者のように、バビロンは攻めてこないと預言していた筈です。しかしエレミヤはそうはしなかった。自分の命を決して粗末にしたり、どうなってもいいなどと悟りを開いた聖者のような生き方はしませんでしたが、しかし自分にとって一番大事な神の言葉をそのまま述べる、そのことに関しては、それに忠実にしたがったのであります。

 この次に詳しく学びたいと思っているところですが、エレミヤはバビロン軍がエルサレムに攻めて来たときに、バビロンの王ネブカドレツァルはエレミヤに関して、親衛隊の長ネブザルアダンにこういっているのです。「エレミヤを連れ出して、よく世話するように。いかなる害も加えてはならない。彼が求めることはね何でもかなえてやるように」。

 預言者エレミヤがかねがねバビロンに抵抗するな、むしろいさぎよく、降伏しなさいと人々に説いていたことを、バビロンの王も聞いていて、エレミヤは自分たちの味方だと誤解したようです。それでエレミヤだけは特別扱いされます。そして親衛隊の長は、エレミヤを呼び出して、「もしあなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう。一緒に来るのが良くなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい」というのであります。

 エレミヤはしかしなぜかバビロンに行こうとしないで、南ユダにとどまるのであります。あれほど、みんなにはバビロンに降伏し、バビロンに連れて行かれることを恐れるな、それが神のみこころだと述べておりながら、エレミヤ自身はバビロンにはいかないのです。彼にとっては、バビロンに行ったほうがよほど安泰な生活ができるのに、命が助かる筈なのに、なぜかエレミヤはバビロンにいかなったのです。その結果、エレミヤはユダの残った人々の権力争いの渦に巻き込まれて、エジプトにまでいくはめになるのであります。

 エレミヤはバビロンに行こうとはしなかった。聖書はなぜそうしなかったのかは記していないのですが、このことについては、この次の説教で考えたいと思っているのですが、彼がただ自分の命を救うことだけに執着していたら、バビロンに行っていたと思いますが、エレミヤはそうしなかった。彼はむしろ、運命に自分の身を委ねたようであります。運命というと、曖昧ですが、神に自分の命を委ねたのであります。

 われわれは誰だって自分の命を救おうといたします。しかしそれだけに執着するなとイエスはいわれるのです。それだけに執着すると、本当の命を失ってしまうとイエスはいわれるのです。ゼデキヤがそうだったのです。

 エレミヤも、ゼデキヤも自分命を救おうといたしました。しかしエレミヤは最後のところでは、自分の命を神に委ねたのです。しかしゼデキヤはそれができなかった。

 祈りと瞑想とか座禅とは違うと思います。瞑想とか座禅というのは、自分を無にしなさいというかも知れません。自分を無にするために座禅するのかもしれないと思います。しかし祈りは、自分を無にすることではないと思います。むしろ自分を神にぶつけることです。正直に、素直に、そしてあからさまに自分を神にぶつける、自分はこうしたい、こうなりたい、こうしてくださいと、神にぶつけるのです。そうすることによって、最後に、神によってこの自分が打ち砕かれるのです。神によって自分が否定されるのです。自分で自分を無にするとか、否定することではなく、神によって自分を否定してただくのです。それが祈りではないかと思います。
 
 主イエスも、十字架につく前に、ゲッセネマネで「どうかわたしを十字架にたけさせないでください」と、必死に父なる神に祈ったのです。しかし主イエスは最後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、みこころのままになさってください」と祈ったのであります。これが祈りではないでしょうか。