「花嫁の時の愛」 エレミヤ書二章一ー一三節 ヨハネの黙示録二章一ー七節

 預言者エレミヤの預言者としての第一声は、「主はこういわれる。わたしはあなたの若い時の真心、花嫁の時の愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」という叱責の言葉でした。これは口語訳では、「わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛」となっております。「若いときの真心」という訳よりも「若い時の純情」という訳のほうがずっといいと思います。
 
 この「若い時の純情」という言葉で思いだしたのが、茨木のり子さんの「汲む」という詩であります。こういう詩です。
「大人になるというのは、すれっからしになることだと思い込んでいた少女の頃、立ち居振る舞いの美しい、発音の正確な、素敵な女のひとと会いました。そのひとは私の背のびをみすかしたように、なにげない話にいいました。初々しさが大切なの。人に対しても世の中に対しても、人を人と思わなくなったとき、堕落が始まるのね、墜ちてゆくのを隠そうとしても、隠せなくなった人を何人も見ました。私はどきんとし、そして悟りました。大人になってもどぎまぎしたっていいんだな、ぎこちない挨拶、醜く赤くなる失語症、なめらかでないしぐさ、子供の悪態にさえ傷ついてしまう、頼りない生牡蠣のような感受性、それを鍛える必要は少しもなかったのだな」、まだ少しつづきますが、そういう詩であります。
 
人になるということはすれっからしになることではない、いつまでも初初しさが大事なのだ歌うのです。頼りない生牡蠣のような感受性、それを鍛える必要は少しもなかっのだ、と歌うのであります。

 預言者エレミヤが、今イスラエルの人々に訴えているのもそのことであります。あなたがたの信仰はすれっからしになってしまったということであります。大人になるということは、すれっからしになることだと人々は思い始めた。すれっからしということは、辞書をひきますと、世慣れてくるとか、ずるがしくなること、という意味が出てまいります、そしてもう一つの意味として、厚かましくなることだと出ております。厚かましくなるということは、つまり自信がついてきてしまうということであります。そしてもはや「頼りない生牡蠣のような感受性」を失ってしまうということであります。

 エレミヤは「あなたの若いときの純情、花嫁の時の愛」といったあと、それを説明して、「種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」といっております。若い時の純情、花嫁の時の愛、ということでエレミヤがいおうとしていることは、「従順」ということのようであります。あの時は、エジプトで奴隷の苦しい時から解放されて、エジプトを出て故郷のカナンに向かう地に急いでいた時であります。その途中荒野をモーセに導かれて旅をしている時であります。ただ主なる神しか頼るものはなかった。水がないとか、肉が食べたいとか不平はいいました、つぶやきました。しかしそれでもそのつぶやきは主なる神に対してのつぶやきであり、訴えでした。
 
しかし、今はどうか。もう主なる神様に従順になる必要はなくなったということであります。自分に自信がついてきたのであります。
 四節をみますと「ヤコブの家よ、イスラエルの家のすべての部族よ、主の言葉を聞け。主はこういわれる。お前達の先祖はわたしにどんなおちどがあったので、遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった。彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか』」。
 もう今は主なる神に対して不平もいわなければつぶやきもしなくなってしまった、というのです。
 
 もちろん、イスラエルの人々が、強くなったわけではないのです。前と同じように弱いのです。だから、彼らは自分たちだけでやっていけるわけはないのです。神を必要としているのであります。

 一三節をみますと、エレミヤはこういいます。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜を掘った。水をためることのできないこわれた水溜を。」
 二つの悪を行ったというのです。一つは生ける神、真実の神ヤハウェを捨てたということであります。そして二つ目は、無用の水溜、役にも立たない別の神々を拝み始めたということだというのです。

 つまり、神を信じることをやめて、もう自分たちは大人になったのだから、自立したのだ、もう神様なんていらない、もうこれからは無神論でいくのだというようにはならないということであります。真実の神を捨てるということは、それからは、もう神なんか頼りにしない、無神論でいくのだということにはならない、別の神を神として頼っていくのだ、それが人間なのだということであります。

 八節からみますとこう糾弾されております。「祭司たちも尋ねなかった。『主はどこにおられるのか』と。律法を教える人たちはわたしを理解せず、指導者たちはわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、助けにならぬものを追った」というのです。バアルというのは、カナンの土地の神々、豊穣の神、偶像であります。

 一五節からみますと「それなのに、今あなたがたはエジプトへ行ってナイルの水を飲もうとする。それは一体どうしてか。またアッシリアへ行って、ユーフラテスの水を飲もうとする。それは一体どうしてか」とありますのは、当時南ユダはアッシリアから攻められた時に、助けを求めてエジプトと同盟を結ぼうとしたり、またアッシリアに屈服しようとして同盟を結ぼうとしたことをさしております。真実の神ヤハウェに頼らずにです。

 つまり、南ユダは、もうこのときには、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされている時ですから、わざわざ南ユダといわなくても、イスラエルという名前でいってもいいわけですが、イスラエルの人々は、決して政治的にも自立できているわけではないのです。誰かに頼らざるを得ないのです。他の神々に助けを求めざるを得ないのです。しかし、それは真実の神、生ける神ヤハウェに従順に従うという信仰を捨てて、自分たちにとって都合のよい神、自分たちが拝めそうな神々を自分のほうから選んで拝もうとしていたということであります。

 神はなぜイスラエルの人々に偶像を拝んではいけないと厳しく命ずるのか。なぜ唯一神信仰ではなく、多神教ではいけないのか。それは、偶像を拝むということは、自分にとって都合のよい神をみずから造って、それを神として拝むということだからであります。

 十戒の第二の戒めは、「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」ということであります。偶像を造ってはならないことの理由の最大の理由は、それが「自分のために」偶像を造るということです、偶像というのは、自分のための神の像、自分が自由に持ち運びできる神ということであります。自分が自由にできる神であります。そんなものが神といえるかということであります。しかし新共同訳聖書ではなぜか、この「自分のために」という言葉が省かれているのが不思議であります。

モーセが神に呼ばれてシナイ山に登って神様が十戒をいただいている時に、民は指導者モーセがいなくなったということで不安になり、モーセの兄アロンに自分たちの神を造ってくださいと訴えるのです。見える神がほしいというのです。それでアロンは人々の金の耳輪をはずさせて、それで神を造った。それは金でできたちょうど人間の手にのる、人間の手で持ち運びできる大きさの金の子牛だったのであります。牛というのは、人間の欲望をあらわしているのであります。その金の子牛を造って、これが神だといって喜んだというのであります。これが偶像の始まりだと聖書は記すのであります。

 偶像を造るということ、偶像を拝むということがなぜいけないのか。それは主なる神が権威主義で、自分ひとり以外の権威を認めたくないということではないのです。それは人間が自分にとって都合がいいもの、自分が自由にできる神、自分が好き勝手に選べる神、そんな神は神ではない、そんな神はひとつも頼りにならない、だからそんな偶像を造り、そんな偶像を拝み、そんな偶像を頼っていてはわれわれには救いはないからであります。イスラエルの民にとってそれは不幸だからであります。

 多神教がなぜいけないのかといいますと、神々がたくさんいたら、われわれ人間が好き勝手に神を選べるようになるからであります。自分の願い事を聞いてくれない神をさっさと別の神に鞍替えできるのであります。自分の言い分を聞いてくれる神を拝むようになるからであります。自分が選ぶ神が神といえるかということであります。
 しかし唯一神ならば、われわれは神を選ぶことはできないのです。神に選んでいただく以外にないのであります。

 ヨハネの黙示録には、天にあるキリストから七つの教会に手紙が送られたと記されております。その一番はじめにエフェソにある教会に送られております。はじめは大変ほめられております。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしのために我慢し、疲れ果てるこがなかった」と、大変評価されているのであります。しかしそのあと、こういわれてしまうのであります。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思いだし、悔い改めて初めの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行き、あなたの燭台をその場所から取りのけてまうおう」。

 人のうそを見抜けるようになるということは、充分成熟した大人になったということであります。またよく耐えることもできるというのです。しかし「初めの愛から落ちてしまった」というのです。初めの愛、それはまさにあの預言者エレミヤが言っている「若い時の純情、花嫁の時の愛」であります。あの始めて主なる神に救われ、導かれ、この神様しか頼れるかたはいないというあの初々しい信仰、その従順であります。あの生牡蠣のような感受性であります。しかし今や変に自信がついてしまった。たがらすぐ嘘を見分けられるようになった。人を裁けるようになったのです。人をどんなに裁けるようになったとしてもそんなことは何の価値もないのであります。

 しかし今天にいるキリストは、そんなものはなくたっていいというのです。人の嘘なんかするどく見分けられなくたっていい。自分は洞察力があるなんて変な自信をもつなというのです。それよりも、もっと大切なものがある。一番肝心なあの初々しい信仰を失ってしまったらなんにもならないというのです。
 
 今日礼拝のあとで歌います讃美歌の五二六番はわたしが好きな讃美歌の一つであります。そこでは、こう歌うのであります。「主よ、我が主よ、愛の主よ、主はわが身の救い主」と歌ったあと、「かくまで主を愛するは、今日はじめてのここちして」と繰り返し歌うのであります。

 こんなに神を愛したのは、今日はじめの心地がする、この信仰を失ってしまったら、われわれの信仰はすれっからしになってしまうのであります。すれっからしの信仰を、なれなれしくなってしまった信仰を、イエス・キリストがどんなにお嫌いになるかということであります。

 エレミヤは、「若い時の純情」といったあと、「花嫁の時の愛」とそれを言い換えております。主イエスは幼子のようにならなければ、天国に入れないといって、幼子のような純情、幼子のような素直な従順の大切さをわれわれに教えております。しかしここでは、若いときの純情を幼子の純情としてたとえるのではなく、「花嫁の時の愛」としてたとえているのはおもしろいと思います。幼子というたとえは、父と子という関係であります。しかしここでは、夫と妻、しかも花嫁の時の妻としてたとえているのであります。もう今日こういうたとえは通用しなくなっているかもしれませんが、しかし、花嫁の時のあの初々しい夫に対する従順、まだまだ妻として、少しも自信はない、料理もへたであるかもしれない、どうしたら夫に喜んでもらえるかと一生懸命に仕えようとしている姿をエレミヤはイメージしているのであります。

 また竹森満佐一の引用で申し訳ありませんが、こういうことを言っております。「ルターはキリスト者の行いはみな正しいというように言っている。それはずいぶん乱暴な言い方かも知れない。しかし神との正しい関係の重要さを強調しているのだ。妻が夫に対してするわざは、どんなに拙くても、熟練した女中の仕事よりも、夫に気に入れられるということだ。それはいうまでもなく、妻と夫との間には、夫と女中との間には到底みることのできない愛と信頼の関係があるからである」といっているのであります。それこそ、まだ新婚まもない妻のの家事は、ベテランの家政婦さんよりも、へたくそであかも知れない、しかしそこには夫に対する信頼と新鮮な愛があるから夫は喜ぶというのであります。

 その後、竹森満佐一はこう続けるのであります。「世間にはいわゆる道徳家といわれる人で、大変真面目な生活をしている人がいる。そういう人たちのなかに、会ってあまり感じのよくない人も少なくないのではないか。それはその人々がいわゆる遊んだ人のように練れていないとか、深みがないとかということてばない。そうではなくて、立派な生活はしているでしょうが、何かその自信が鼻につく、弱い人たちに配慮ができないというこもありましょうが、それよりも、自分を誇る様子が見えるからである。それとは反対に、律法を正しく守る者は、それを守れば守るほど、神によるほかに生きる道のないことを知るようになるはずだ、ますます謙遜になるはずだ」というのであります。

 幼子のような神に対する信頼、そしてこの花嫁の時の従順な愛、初々しい愛と信仰、われわれはこれを大事にしていきたいと思うのです。すれっからしの信仰者にだけはなりたくないものであります。