「背信の子らよ、立ち帰れ」エレミヤ書三章ー四章四節 ルカによる福音書一五章

 エレミヤ書三章から四章の四節までのテーマは「背信のイスラエルよ、立ち帰れ」という悔い改めの呼びかけであります。ただその呼びかけは少し複雑になっております。それはまず北イスラエルに対して、呼びかけているという構造になっているからであります。

 三章の一二節をみますと、「行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。背信の女イスラエルよ、立ち帰れと主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと主はいわれる」という呼びかけは、まず北イスラエルに対する悔い改めの呼びかけであります。しかしもうこの時には、北イスラエルはアッシリアという国よって滅ぼされていて、北イスラエルの住民はいたでしょうが、国家としてはもう滅亡しているのです。そして預言者エレミヤは、この北イスラエルに対する呼びかけを北イスラエルにのこのこと出かけていって、北イスラエルの人々に悔い改めのよびかけを迫りにいったわけではないのです。これはあくまで南ユダの人々に対して、この呼びかけをしているのです。

 つまり北イスラエルの人々に呼びかけているようにして、実は南ユダの人々に悔い改めを呼びかけているのです。

 まず三章の一節をみてみたいと思います。
「もし人がその妻を出し、彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば、前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのに、わたしに戻ろうというのかと主はいわれる」とエレミヤは言います。
 いちど、離縁された女はもとの夫にもどることは許されないという律法が申命記二四章に記されております。申命記などの律法は、とうぜんまだ男性社会ですからその律法はいつも男性の立場からしかつくられておりませんからそういう法律ができているのであります。

 今イスラエルは真実の神ヤハウェを捨てて、他の神々という偶像礼拝に走っている、それは真実の神ヤハウェを捨てて他の神々と淫行にふけっているようなものだというのです。そのようなイスラエルの民をもういちどわたしのところに返って来いと呼びかけることは、法律的に言って許されないことなのだというのです。しかし今主なる神はその法律を超えて、神ご自身が定められた律法を超えて、その背いていったイスラエルの民に「背信の女イスラエルよ、立ち帰れ」と呼びかけようとしているというのであります。

 神の義は、律法の義を超えているということであります。神の愛は律法の義を超えているのであります。

 六節からみますと、こう記されております。ヨシヤ王の時代に、主はわたしにいわれた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女は高い山の上、茂る木の下のどこにでも行って淫行にふけった。淫行にふけるということは、偶像礼拝をしていたということです。彼女がこのようなことをしたあとにもなお、わたしは言った。「わたしに立ち帰れ」と。

 神の悔い改めの呼びかけは、まず「わたしに立ち帰れ」ということであります。そのあとで、たとえば、一三節をみますと、「背信のイスラエルよ、立ち帰れ」といったあと、「ただ、お前の犯した罪を認めよ」と言われております。あるいは、四章の一節からみますと「わたしのもとに立ち帰れ、のろうべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば再び迷いでることはない。もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら」と呼びかけられていて、なにか悔い改めにひとつの条件のようなものがつけられておるように感じられますが、しかしともかく出だしはまず「わたしのもとに立ち帰れ」という無条件の神の呼びかけから始まっております。そしてその神のもとに立ち返ることをより確かなものにするためにのろうべき偶像を捨てること、真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うということが要請されているのであります。それは悔い改めの条件ではないのです。

 悔い改めるということは、日本語のもう一つの言葉、回心、回るという字と心という字を組み合わせて、回心と書きますが、そのほうが聖書でいう悔い改めということをよく言い表しております。辞書をみますと、これは仏教では「えしん」と呼んで仏に帰依することだと説明されております。悔い改めという項目をひきますと、キリスト教用語と出ておりまして、神の義と愛にうながされて、罪を認めてて神に帰ること、となっております。しかしもともと聖書に出てくる悔い改めという言葉、これは新約聖書では、メタノイアという字が使われておりますが、方向転換するという意味の字が使われております。それは自分の罪を認めるというような、自分の罪の自覚とか、罪の悔い改めとか、ということよりも、何よりもまず神のもとに立ち帰ることなのであります。神のほうに顔を向けること、これがメタノイア、方向転換すること、これが悔い改めということなのであります。自分の罪を悔いることが先ではないのです。

 悔い改めについてわれわれがすぐ思い出すの主イエスが語られた放蕩息子のたとえであります。
 ある人にふたりの兄弟がいた。その弟のほうが「お父さん、わたしがいただくことになっている財産の分け前をください」というのです。それで父親はいわば生前分与の形で財産を分けてあげた。すると下の息子のほうはそれを全部お金に換えて、遠いところに旅立ってしまった。つまり父親のところから飛び出してしまったというのです。しかしたちまち財産を放蕩で使い果たし、食べるものにも困って、最後に豚のえさのイナゴ豆しか食べるものがなかった。それで彼は父親のことを思い起こし、父のところには雇い人が一杯いるし、有り余るほどのパンがある、父親のとろに帰ろうとするのです。その時に彼は父にあったらこう言おうと考えるのです。「お父さん、わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」というセリフをあらかじめ考えて、父親にもとに帰ろうとするのであります。

ところがまだ遠く離れていたのに、父親のほうが先に息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻したというのです。もうこの時、この息子は雇い人のひとりにしてくださいと言おうと思っていたこともすっかり忘れて、もうそうしたこざかしいせりふを言うのも忘れてしまって、こう言います。「お父さん、わたしは天に対してもまたお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」というのです。もう雇い人の一人として、というセリフはいわないのです。それに対して父親は何もしからないで、しもべ達を呼んで、最上の着物と最高のごちそうでこの息子を受け入れたというのです。
 主イエスは悔い改めるということはこういうことだと語るのであります。

 この息子のほうは確かに父親のもとに帰ろうとするのです。しかしその動機は父のところに帰ったら食物にありつけるということだったのです。自分が勝手放題のことをして、財産をなくしてしまったことを悔いたわけではないのです。父のところにいったら食物にありつけるというきわめて御利益的な回心であります。だからせめて雇い人の一人としてというこざかしい知恵が働いているのであります。
 
しかしそれでもいいのだと主イエスはここでいっているのです。われわれが神に帰るのは、みなそれぞれ御利益的な思いをもちながら、神に帰ろうとしているのです。神さまのもとに帰れば必ず幸福になれる、もっと立派な人間になれるかもしれない、もっと自分の性格は強くなれるかもしれないという思いをもってわれわれは神を求め始めるのだと思うのです。それは高尚な願いかも知れませんが、自分の幸福を求めるということからいえば、やはり御利益的な要求であります。しかしそれでもいいと主イエスはいうのです。それでも神はその方向転換を求めておられるというのです。どんなに不純な動機からであってにせよ、父親のもとに帰ろうと方向転換さえすれば、それはもう悔い改めなのだと主イエスはいわれるのです。父なる神はその方向転換を求めておられる、もう無条件でその放蕩息子を受け入れ、最高のもてなしをしてくれるというのです。

 「背信のイスラエルよ、立ち帰れ、わたしのもとに立ち帰れ」とは、まさにその呼びかけであります。

 預言者エレミヤは、その悔い改めを迫る時に、南ユダの人にその悔い改めを迫る時に、まず北イスラエルに呼びかけるようにして、南ユダの人に言い聞かせているのです。
 
それは六節からはっきりとしてきます。「ヨシヤ王の時代に、主はわたしに言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女は高い山の上、茂る木の下のどこでにでも行って淫行にふけった。彼女のこのようなことをしたあとにもなお、わたしは言った。『わたしに立ち帰れ』と。しかし、彼女は立ち帰らなかった。その姉妹である裏切りの女ユダはそれを見た。背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また石や木と姦淫している。(これは木とか石を神として、それを偶像として拝んでいるということです。)

そればかりでなく、その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだと主は言われる。主はわたしに言われる。裏切りのユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」というのです。
北イスラエルとか南ユダとかでてきますが、これはもともとは一つのイスラエルという国だったのです。しかしイスラエルの王ソロモンが死ぬとその王位継承をめぐって分裂して、北イスラエルと南ユダという二つの国分裂していったのです。
 
ここでは北イスラエルの背信と南ユダの裏切りといわれておりますが、背信と裏切りとどちらが罪が重い言葉なのか、あまり違いはないと思います。口語訳では、南ユダの裏切りというところは、南ユダの不信と訳されております。そして新共同訳で「裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」と訳されておりますが、背信のイスラエルが悔い改めたならば、それは「正しかった」と訳してもいいでしょうが、ここでは背信のイスラエルはひとつも悔い改めていないままなのですから、「正しかった」という訳はおかしい訳しかたではないかと思います。ここは口語訳は「背信のイスラエルは不信のユダよりも自分の罪の少ないことを示した」と訳しております。

 ともかくここでは、エレミヤが悔い改めを呼びかけているのは、繰り返すようですが、南ユダの人々に向かってなのです。北イスラエルが真実の神ヤハウェを捨てて偶像礼拝に走ったために、アッシリアによって滅ぼされてしまった、その事実を南ユダの人々は見ておりながら、なお悔い改めようとしないで、偶像礼拝をし続けていることを糾弾しているのです。南ユダの罪は重いというのです。

 「他山の石」という言葉があります。これは辞書をひきますと、「他山の石をもつて玉を攻べし」という言葉からなったことわざだそうで、「よその山から出た石でも自分の宝石を磨くのに用いることができるというところから、自分よりも劣っている人の言行も自分の知恵を磨く助けとすることができる」という意味だと出ております。
 南ユダにとって北イスラエルの滅亡は、まさに他山の石になる筈なのです。南ユダはそれができなかったというのです。
 
 しかし他山の石をもって自分を磨くということは、これはよほど謙遜にならないとできないことであります。
 
あの主イエスの語られた放蕩息子のたとえは、その話の中心は、本当は放蕩息子に中心があるのではなく、その放蕩息子が悔い改めて帰ってきた時に、その兄が一緒に喜んであげられないで、ふてくされていた、というところが中心なのであります。弟ではなく、兄がこのたとえの中心なのです。父親がそのようにして帰ってきた放蕩息子を最大のごちそうでもてなそうとしているのを仕事から帰ってきた兄が知るのです。そして怒って家に入ろうとしなかった。自分は真面目に父親のもとで働いてきたのに、こんなごちそうを受けたこともない、それなのに、というわけです。それに対して父親はその兄の不機嫌を知って、家から出てきて、兄にこういうのです。「お前のあの弟は死んでいたのに生きかえった。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのはあたり前ではないか」といったというのです。
 
このたとえ話のきっかけは、イエスが罪人とか徴税人とか当時社会からのけ者にされていた人々とイエスが一緒に食事をしているのを見て、律法学者やファリサイ派の人々が不快に思い、不平を言っているのを知ってイエスが語られたたとえ話なのです。
 ひとりの人間が悔い改めたら、天の父なる神はどんなに喜ばれるか、どうしてお前たちは神と一緒に喜べないのかというためのたとえ話なのであります。
 
 ファリサイ派の人々、律法学者というのは、まさにあの放蕩息子の兄の姿なのです。いや、この兄の姿こそわれわれの姿なのです。真面目クリスチャンの姿であります。もしこのようにして、ひとりの人間がどんな姿であれ、どんなぶっかこうであれ、悔い改め、神のもとに帰ってきた姿をみて共に喜べないならば、お前のもっている信仰とはなにか、今お前が持っている真面目さ、信仰の真面目さはななにかと問われるのです。お前のもっている信仰とは、神に対する信仰というものではなく、ただ自分の真面目さ、自分の敬虔深さを誇り、それを信じているだけではないか、それでは神の義に神の正しさに服しいるという信仰ではなく、ただ自分の義、自分の正しさを誇り主張しているだけではないというのです。

 他山の石をもって自分の信仰を磨くためには、よほど謙遜な信仰をもてないとできないことであります。

 預言者エレミヤは、今ユダの人々に悔い改めを迫るとき、北イスラエルの罪の深さとその結果訪れた滅亡、を語り悔い改めを迫っているのです。もし北イスラエルが神の呼びかけに応えて悔い改め、そしてそれをみて南ユダの人々も悔い改めたらどうかと呼びかけたら、これはなかなか南ユダの人々を悔い改めにみちびくことは困難だと思うのです。それでは南ユダの人々のプライドが許されないだろうと思うからです。放蕩息子の兄の気持ちはよくわかるのです。
 
しかしここでは北イスラエルの人々は神の悔い改めに応じないで、偶像礼拝をし続けた、その結果アッシリアに滅ぼされた、その事実をお前達は見ているではないか、それなのにどうして悔い改めようとしないのかと迫っているのです。これのほうが悔い改めやすいと思うのです。他人の不幸をみて、我が身をふりかえって、自分を戒めるということはそう難しいことてばないと思うからであります。それに対して、他人の幸福をみて、我が身をふりかえり、自分を戒めるということはなかなか難しいことだと思います。それだけわれわれは傲慢なのです。
 
 南ユダは今北イスラエルの不幸を見ても悔い改めようとはしないのです。これはもう傲慢さを通りこして、鈍感になってしまったということであります。
 
二二節からみますと、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」という神の呼びかけに応えて、「われわれはあなたのもとに参ります。あなたこそわれわれの主なる神です。まことにどの丘の祭りも、山々の騒ぎも偽りにすぎません。まこにわれわれの主なる神にイスラエルの救いがあるのです」と告白の言葉が記されております。これは南ユダの人々がこのように突然悔い改めたというのではないのです。これはどうしても悔い改めようとしないユダに代わって、エレミヤがただひとり民に代わって神に悔い改めている言葉であります。これはエレミヤの幻想であり、願望としての民の悔い改めの言葉であります。
 
そしてエレミヤはいいます。「立ち帰れ、イスラエルよ、わたしのもとに立ち帰れ」。立ち帰るところがあるとしたら、ただ主なる神のもとしかないのであります。