「北からの敵」 エレミヤ書四章五ー ルカ福音書一三章一ー五節

 預言者エレミヤは、北からの敵の襲撃について予言します。これはまだこの時点ではどのような敵なのかははっきりしていませんが、後にこれがバビロンからの襲撃であることがわかります。
 「ユダに知らせよ。エルサレムに告げて言え。国中に角笛を吹きならし、大声で叫べ。そして言え、『集まって、城塞に逃れよう。シオンに向かって旗を揚げよ。避難せよ、足を止めるな』と。わたしは北から災いを、大いなる破壊をもたらす。」
 一三節からみますと、こういいます。「見よ、それは雲のように攻め上る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ、災いだ。われわれは荒らし尽くされる。エルサレムよ、あなたの心の悪を洗い去って救われよ。そしてその理由をエレミヤは、これは「ユダがわたしに背いたからだ』と主は言われる」と述べるのであります。

 預言者はこう決めつけるのであります。「あなたの道、あなたの仕業がこれらのことをもたらす。これはあなたの犯した悪であり、まことに苦く、そして心臓に達する」。

 北から侵略を受けるということ、北からの戦争を、自分たちが罪を犯した結果の罰なのだと預言者は民に告げるのであります。もし、今日、戦争とか、自然の災害、大地震でも暴風でも大洪水でも、そうしたことをこのようにいうとしたらどうでしょうか。それはあなたの犯した悪がこれらの災害を引き起こしているのだといったらどうでしょうか。つまはじきにされるに違いないと思います。
 しかし今預言者エレミヤは、これは「あなたの犯した悪のためにこの災難がくるのだ」と告げるのであります。そしてその災難は神からの裁きであり、罰だというのであります。だから、今「エルサレムよ、あなたの心の悪を荒い去って救われよ」というのであります。
 
この時点では、北からの敵をエレミヤはまだバビロンだとは認識していないようであります。ばくぜんと北から強力な敵が攻めてくるという暗示を受けているようであります。ですから、それは単なる戦争というよりは、戦争も含めた天災、災害として受け止めているようであります。その戦争もまた人間による戦争というよりは、神の裁きとしての戦争、侵略としてうけとめているようであります。ですから、エレミヤはこういいます。二三節からみますと、
 「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによってうち倒されていた。」
 すべてはイスラエルの不信に対する神の激しい怒りのなせるわざだというのであります。

 因果応報という言葉があります。すべての災害は、その人が犯した罪の報いなのだという理解であります。もっといやな言葉を使えば、たたりということであります。今日ではそのように物事を理解するのは、すっかり廃れてしまっております。それは古代の迷信的なものの考えだといってしりぞけられるのであります。今では、災害とか、まして戦争をそのように理解したら笑われるだけかもしれません。

 しかし今預言者エレミヤは、これは神の激しい怒りのなせるわざというのです。これは馬鹿げた、ただ迷信的なもののの考えかだといってわれわれはすますことができるでしょうか。

 しかし、つい最近そのような発言が飛び出してびっくりしました。それはアメリカのシャトルが爆発炎上し、七人の犠牲者が出た時に、今アメリカから攻撃を受けようとしているイラクの人々が、これは米国のイラク政策に対する神の復讐だという声が民衆の間だから起こったということであります。そしてそれを受けて、先日新聞に載っていた記事ですが、アメリカの大統領が出席している教会の礼拝の牧師がその日の説教で、そんなことはでたらめだと反論したそうであります。その日の牧師の説教は、「昨日のできごとは、宇宙探求のために払うべき代価、神がわれわれみんなに与えた自由への代価なのだ」と説教したということであります。

 とてつもにない、理不尽な災害が起こった時に、短絡的にこれは神の復讐だ、神の罰だ、神の裁きだときめつけるのは、あまりにも不用意な発言であるし、馬鹿げた発言であることは確かであります。特に第三者がそのように発言することは、傍観者的にそのように発言することは、慎まなくてはならないことであります。

 聖書にはそうした因果応報的な考えはないのでしょうか。よく言われることですが、旧約聖書には確かに因果応報的な考え、あるいはたたりの思想は残っている、それは古代的な迷信として残っている、しかし新約聖書にはそれはもうない、イエスはそのような考えを否定しておられるということであります。
果たしてそう言い切れるかどうか。
 
 主イエスのところに、ある人々がきてこう告げたというのです。ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。これはどういうことかといいますと、エルサレム神殿にガリラヤから巡礼にきた人々をロークの総督ピラトがなんらかの理由で殺害し、その人々の動物の血にまぜたという事件が起こったようなのです。これはピラトという人間の残忍さを伝える事件だったようですが、その出来事はあまりにも悲惨な出来事で、理不尽な出来事だったので、人々は彼らがそのような悲惨な目にあったのは、きっとその人々の日頃の行いが悪かったから、なにか隠された悪があってそのような悲惨な目にあったのだと言い合っていたようで、それをイエスに告げたようなのであります。それを受けてイエスがいわれた言葉はこうであります。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。またシロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

 このイエスの言葉は、一見、人々の因果応報的な考え、いわばたたりの思想を否定しているような言葉にみえますが、よくここを読んでみればそうでないことはあきらかであります。「もしあなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」ということをイエスは言っているのであります。つまり、ここでイエスは因果応報的な考えそのものを否定しているのではなく、自分を安全地帯において、自分は罪がないかのようにして、そのような災難にあった人が自分よりも罪が重いのだと非難する態度、そのことを否定しているのであります。そのように他人の不幸を解釈して平然としている人々の鈍感さを、その傍観者的な傲慢さを、厳しく戒めているのだということがわかるのであります。

 新約聖書には、イエスの思想には、因果応報的な考えはないと言い切れるかどうか。もしそうであるならば、罪に対する報酬としての死、神は人間の罪に対して死をもって裁かれるというキリスト教の根本的な思想そのものが成り立たなくなるのでないか。神の子イエスがなぜ十字架でしななければならなかったのかという新約聖書の一番重要な思想は意味をなさなくなってしまうのではないかと思うのでありす。

 イエスが一番戒めたのは、自分は罪がないという立場において、人の不幸をそのように解釈して、人を差別し、人の不幸をさらに不幸にさせる態度を厳しく戒めておられるということであります。

 確かにヨハネ福音書に出てくる生まれつきの盲人を巡っての記事で、イエスの弟子が「彼が生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、それとも両親が罪を犯したためですか」と問うた時に、イエスははっきりと「本人が罪を犯したためでも、両親が罪を犯したためでもない、神のわざがこの人に現れるためだ」と言われております。そうして、イエスはその盲人の目をお開けになるという神のわざをするのであります。ここでも一番の問題は、イエスの弟子達の傍観者的無責任な発言に対してイエスが、それを戒めておられるところであります。ここでは確かに従来行われている因果応報的、いわばたたりの思想、そのような因習的考えを否定し、生まれつきの盲人という人の苦しみを新しい恵みの光の中でとらえていることは明らかであります。

 この世のすべての悲惨な理不尽な出来事を因果応報的に、すべてはその裏に人間の罪が隠されいて、それに対する神の罰だ、神の裁きだと解釈することはあまりにも教条主義的であります。それに対して旧約聖書のヨブ記がそのような解釈に対して否定しているのであります。理不尽な出来事、悲惨な出来事をなんでも人間の理屈で説明しようとすることは、許されないことであります。
 しかしだからといって、すべての災害とか、あるいは戦争も含めて、すべての出来事を人間の科学的合理主義で、社会科学的な分析で説明しきってしまって、そこには人間の罪に対する神の裁きを入り込ませないというものの考えが果たして正しいかどうかであります。

 新約聖書でも、病気とか理不尽な不幸というものを自分の罪との関係で受けとめる考えを決して否定していないのであります。使徒言行録には、自分たちの財産をごまかして、聖霊を汚したアナニアとサフィラがただちに死んでしまったという、はなはだ古代的表現で記された出来事もでてまいります。

 パウロも自分が病気になった時に、これは自分の傲慢という罪に対するサタンの使いだと、自分の病気を受けとめているのであります。
 
 すべての病気とか災いを罪との関係で短絡的にとらえるのは確かに危険であります。しかしその考えをきれいさっぱり合理的に捨て去ってしまった時にわれわれ人間に何が起こるか。

0 預言者エレミヤはこういうのであります。五章一二節
「彼らは主を拒んで言う。『主は何もなさらない。われわれには災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。預言者の言葉はむなしくなる。預言者がこのようなことが起こると言っても、実現はしない』」。 
 
今日すべてを人間の合理主義で割り切ろうとして考えたときに、われわれ人間の根底に存在している、どうしても否定することのできないわれわれ人間の暗い罪の存在というものをどこかに放擲してしまって、隠蔽してしまって、その人間の罪に対する神の裁きというものを考えようとしなくなってしまっている。それは迷信的だといって、すましている社会というものは、なにか恐ろしいことが起こるのではないか。そこには罪というものに対して、われわれがどんなに鈍感になってしまっているか。人を殺しても平気でいられるという社会になっているのではないか。それよりは、因果応報とか、あるいは、誤解を招くかもしれませんが、たたりの思想というものが生きていた時代のほうが、まだ健全な社会だったのではないかといいたくなるのであります。

 シャトルの災害に対して、これは神がわれわれに人間に与えた自由への代価だと説教するよりは、これは人間の知性の過信に対する神の警告だ、神の裁きだといってほしい思いがするのであります。

 問題は、そうした災害、理不尽な出来事を前にして、われわれが第三者的に傍観者的に、自分は罪はないという立場に立って、それは神の裁きだと言っていいかというこなのであります。ヨブが友人に対して一番怒ったのは、そのことであります。
 預言者エレミヤはどうだったでしょうか。エレミヤがこの北からの戦争は神の裁きだと述べる時、彼は自分をどのような立場においていたか。

四章の一八節から見てみたいと思います。
「あなたの道、あなたの仕業がこれらのことをもたらす。これはあなたの犯した悪であり、まことに苦く、そして心臓にまで達する。わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙してはいられない。わたしの魂は角笛の響き、鬨の声を聞く」というのであります。「わたしのはらわたよ、はらわたよ。わたしはもだえる」という言葉がエレミヤ自身のことを言っているのか、神ご自身のことを言っているのか区別がつかないのですが、少なくともここでは預言者エレミヤは、神の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、自ら苦しんで、神の裁きを警告していることは間違いがないと思います。

 エレミヤは神の裁きを決して、自分はどこかにおいて、傍観者的に述べているのではないのです。みずからを、あるときには神の激しい怒り、裁きを行う神の側におき、あるときには、その裁きを受けようとしているユダの人々の立場において、この言葉を語っているということであります。

 二二節からはこういっております。「まことにわたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うにさとく、善を行うことを知らない」。エレミヤはもうここでは神の側に立ってこの嘆きを述べているようであります。
 
 五章の一節からみます。「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねて見よ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。『主は生きておられる』と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。主よ、御目は真実を求めておられるではありませんか。彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず、彼らをうちのめされても、彼らは懲らしめを受け入れず、その顔を岩よりも固くして、立ち帰ることを拒みました。」そして四節からみますと、これは身分の低い人々も、身分の高い人々もみな同じであったというのであります。

 ユダの人々が今どんなに自分の罪に対して鈍感になってしまっているかということであります。
 
 そしてこういいます。二○節からみますと、ヤコブの家とユダに知らせよというのです。「愚かで、心ない民よ、これを聞け。目があっても、見えず、耳があっても、聞こえない民。わたしを畏れ、敬いもせず、わたしの前におののきもしないのかと、主は言われる」。

 われわれは因果応報とかたたりの思想というものをそれは古代の迷信だといって、きれいさっぱり捨て去ったときに、そのついで、それ共に、神を畏れ、敬いもせず、神の前でおののきもしなくなってしまったのでないか。

 しかしわれわれの人生には、あるとき突然、理不尽な災害や、不幸が襲ってくることがあります。愛する者の突然の死というものがくるかもしれません。そのようなときに、そのような立場におかれた人は、みな一応に、その出来事を自分の罪との関係で受け止めて、苦しむのであります。直接的にはその死となんの関係もなくてもであります。そしてどんなに周りの人がそんなことはないといっても、愛する者を失った当事者にとっては、それを自分の罪との関わりでうけとめざるを得ないのです。それはもちろん死んでいった者の罪ということではないのです。残された者の罪であります。

 愛する者をすべて失ったヨブもまた同じだったのではないか。彼は確かに友人から、お前に隠された罪があるからこのような災難にあったのだといわれたときに、ヨブはそれを怒り、否定し、やっきになってその因果応報的な教条主義に腹を立てましたが、しかしヨブ自身の心の中にはやはりこのことを自分の罪との関係で受け止めざるをえないところがあったのではない。それを伺わせるヨブの苦しみもところどころあるのてす。だからこそ、ヨブは直接神様から「そんなことはない、これはお前の罪とは関係のないことだ」という神の声を必死に求めたのではないか。神にお会いして救われたいと願ったのではないか。神は最後にヨブの前に現れたときに、そのヨブの問いに直接否定も肯定もしませんでしたが、ヨブはそのことを問いながら、生ける神にお会いして、神の前でおそれおののき、救われたのであります。

 愛する者の理不尽な死とか、不幸とか災難というものを、われわれはいつでも自分の罪との関係で受け止めざるを得ないものであります。それが信仰者の立場というものであります。どんな出来事のなかにもわれわれは神との関係のなかでとらえなくてはならないと思います。

 パウロの言葉に「神のみこころにそうた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」という言葉があります。 その愛する者の死を神のみこころに託し、そうしてその愛する者を失った悲しみを神によって慰められたいと思うのであります。

 預言者エレミヤがイスラエルの民に繰り返し語りかける言葉を聞きたいと思います。「立ち帰れ、わたしのもとに立ち帰れ」。