「昔からの道に」 エレミヤ書六章一○ー二一節 マタイ福音書11章28−30節

 六章一○節からみますと、預言者エレミヤがどんなに怒りながら語っているかが伺われます。「誰に向かって語り、警告すれば、聞き入れられるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で、耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも、それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ、、それに耐えることに疲れ果てた」と語ります。主の怒りで自分のからたが一杯になって、それに耐えることに疲れ果てたというのであります。

 「それは身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らはわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』という。彼らは忌むべきことをして恥じをさらした。しかも、恥ずかしいこととは思わず、嘲られていることに気づかない」というのが今のユダの現状だというのであります。

 そういう時にエレミヤは主からこういう言葉を受けたというのです。一六節「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道に歩み、魂に安らぎを得よ」と。
ここは口語訳ではこうなっております。「あなたがたは分かれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」。

 「さまざまな道に立って」というのと、「わかれ道に立って」というのと、どちらが原文に忠実なのかわたしにはわかりませんが、さまざまな道があれば、当然そのなかで一つの道を選ばなくてはならないわけですから、それはわかれ道になる、だから口語訳はそう訳したようであります。これは多分の英語の聖書が、ここはクロスロードとなっておりますので、わかれ道と訳したのかもしれません。

 われわれの人生にも、しばしばわかれ道に立たされる時があると思います。いろん選択の道があって、どれを選んでいいかわからない時があります。そしてその選択は恐らくこれからの自分の人生に決定的なものになるだろうと予感できる決断の時というのがあります。そういう時にどの道を選んだらいいのか。 

 昔から日本でも言われている言葉に、「温故知新」という言葉がありますように、選択に困った時には、昔を振り返ってみるということも一つの選択の参考になると思います。古きを尋ねて新しさを知るということであります。
 
 預言者エレミヤも今主なる神からそう言われているのであります。イスラエルが神によって選ばれた、その原点に立ち帰れというのであります。それはエレミヤの一番最初に民に語りかけた言葉、「わたしはあなたの若いときの真心、純情、花嫁のときの愛、種まかれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と語りかけたことと同じであります。初心に帰れということであります。

 しかしそれはただ伝統に帰れ、ということとは違うようであります。なぜかといいますと、二○節をみますと、こういわれているからであります。
 「シェバから持って来た乳香やはるかな国からの香水萱がわたしにとって何の意味があろうか。あなたの焼き尽くす献げ物を喜ばず、いけにえをわたしは好まない」といわれているからであります。
 そういう古い祭儀的儀式に立ち帰れというのではないのです。もっと原点に立ち帰れというのです。もっと、もっと昔に立ち帰れというのです。それはあの花嫁のときの初々しい従順、種蒔かれぬ、あの荒れ野で神に従った時の原点に立ち帰れということであります。その時にはまだエルサレム神殿もなければ、祭司制度というのがまだ確立していないときであります。

 イスラエルの最古の信仰告白、一番古い信仰告白というものが、申命記に記されております。申命記の二六章五節からであります。それは大変素朴な言葉で信仰告白が述べられておりますので、多くの学者はこれがイスラエルの民の一番古い信仰告白だろうというのです。

 「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい」と勧められて、こう告白するのであります。
 「わたしの先祖は、滅び行く一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちの先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げをご覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜のながれるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました」と告白し、そう告白して、初物を主なる神に捧げなさいといわれているのであります。
 
 ここでは全く素朴に自分たちは力無く、苦しみの中にあった時に、主なる神か強い手と腕とをもってわれわれを助けてくださった、本当に感謝します、これが自分たちの初の収穫したものですといって、捧げたのであります。これがイスラエルのいっさいの祭儀の原点だったのです。

 ところがそれがいつのまにか、変えられていった。自分たちが働いて収穫したものではなく、遠くシェバから持ってきた高価な乳香やはるかな国からの香水を神殿で捧げるようになった、神さまはそういうブランドものでないと喜ばれないと思うようになってしまったというのです。そしてそうしたブランド品は、神殿でいちどは神に捧げられる形はとりますが、結局はそれは祭司たちのふところに入るのであります。そんなものがわたしにとって何の意味があるのかと神はいわれるというのです。

 「あなたたちの犠牲の捧げものをわたしは喜ばない」と神はいわれるというのです。これは実に大胆な言葉であります。これはもう祭儀そのものを全面否定してしまう言葉であります。詩篇の五一編にもありますが、「神の受け入れられるいけにえは、動物のいけにえではない、神の喜ばれるいけにえは、われわれの砕けた魂だ、砕けた悔いた心だ」と歌われておりますが、そのことをエレミヤもここでいうのであります。

 イスラエルで一番最初にその動物の犠牲を捧げた時に、人々はこう思って捧げたに違いないと思うのです。自分は罪を犯しました。本当なら罪を犯した自分が死ななくてはならない、そのことはわかっています、しかしそれはどうしてもできないのです。だからせめて自分の身代わりにこの傷のない子羊をあなたに捧げます、これをもってどうかわたしの罪を赦してください、と言って、そういう思いをもって動物の犠牲を捧げた筈であります。動物の犠牲をささげながら、こんなものが神の心を満足させる捧げものだとは、ひとつも思わなかったはずであります。これで自分の罪が赦されるとは到底思えない、しかしせめて、と言う思いがあった筈であります。自分の捧げもので自分の罪が赦されるとは到底思えない。罪はただ神さまから一方的に神の憐れみで赦していただく以外にないと思っていた。しかし、どうしてもただで赦してもらうわけにはいかない、せめて、この子羊で、という思いで、犠牲のささげものを捧げた筈であります。この「せめて」という思いがあったはずであります。自分の罪の深さを知ったものにはそのような思いがあったはずです。それが砕けた魂というもの、悔いた心とい うものであります。それがあの犠牲のささげもののもつ意義だと思うのです。

 しかしそれがひとたび儀式になってしまうと、人々は今度は高価なブランド品を捧げたら、それを神は喜ばれると思い始めた、犠牲のささげものをしたら、もうこれで神との取引は成功して、自分の罪は赦されると思い始めた。どんな罪を犯しても、この犠牲の儀式さえしておけば、自分の罪は赦されると思い始めたのであります。もうそこには砕けた魂、悔いた心などはみじんもなくなってしまったのであります。

 自分のやってきたこと、自分のやっていることにあぐらをかいて、それを主張するのではなく、どんなに立派なことをしても、「わたしはふつつかな僕です。すべきことをしたにすぎません」と言いなさいといわれた主イエスがいわれたように、自分のしたことを自分で否定することのできる謙虚さを持ち続けること、それが砕けた魂を捧げるということであります。
これが初心に帰るということであります。これが花嫁の時の従順というものであります。これが昔からの道に問いかけるということであります。

 そしてエレミヤはこういいます。「昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道か、と。その道に歩み、魂に安らぎを得よ。」

 ここでは「幸いに至る道を歩め、魂に安らぎを得よ」といわれているのです。別になにか高尚な悟りを得なさいと勧められているのではないのです。どこかの修道院に入って、修養を重ねて、聖なる体験でもして、聖人になりなさいと勧められているのではないのです。幸いを得よ、幸福になりなさいというのです。

 われわれの信仰は御利益宗教ではないなどとはいえないのです。キリスト教はいろんな新興宗教とは違って、もっと高尚なもので、御利益宗教ではないなどいって、いばることなどできないのです。われわれもまたその人々とおなじように、病気になったら必死に病をいやしてくださいと祈るし、あるいは、受験の時にはいい学校に入れてくださいと祈るのであります。ただわれわれはそう祈りながら、主イエスが祈られたように、最後には「しかし自分の願い通りではなく、御心のままに」という祈りに変えられていく、最後にはすべてを神に委ねる祈りに変えられていくのであります。われわれの祈りは、御利益的な期待から始まるかもしれません、しかしそれは祈っているうちに、神に対する信頼に変えられていくのであります。

 ところが、一三節をみますと、エレミヤはこういいます。
「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らはわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』という。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気づかない。」

ここでは、神によって幸いを得るのではなく、ただ目先の利をむさぼり、預言者から祭司にいたるまで、手軽ないやしで大丈夫だよ、大丈夫だ、これだけささげものをしたのだから、こんなに献金をしたのだから、あなたは救われますよ、といって、手軽にいやし、手軽にいやされているというのです。

「わが民の破滅を手軽に治療して」、というのは、破滅とは結局は、罪の破滅であります。人間の罪を見つめさせようとしないで、われわれの罪が破滅へと向かっていることに気づかせようとしないで、祭司達や預言者たちは「平和だ、平安だ」といって、人々を安心させている、そうしては、人々からお金をとって自分のふところを肥やしている、そういうことをしてひとつも恥ずかしいは思っていないというのであります。

 そしてそれは案外民衆もそんなことで自分たちの救いがくるとは思えないことは薄々は感じているかもしれないのです。そんな預言者や祭司達を軽蔑しているかもしれないのです。しかしそれでも仕方ない、一時の平安をえられればいいやと思っているのかもしれません。それが今の南ユダの姿だと預言者エレミヤはいうのであります。

 預言者エレミヤは「昔からの道に立って、原点に帰って、初心に帰って、どれが幸いにいたる道かを探って見よ、そしてその道に歩み、魂に安らぎを得よ」というのであります。しかし、彼らは「そこを歩むことはしない」「耳を澄まして待つことはない」と言って、エレミヤの言葉を拒否したのであります。
 
 主イエスはこの預言者エレミヤの言葉を受けて、こうわれわれに語りかけました。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」といわれました。

 どんな人でもいい、何も選民を誇るイスラエルの人でなくてもいい、どんな人でも「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとにきなさい」といわれたのであります。「休ませてあげる」と言われるのです。そのためには、柔和で謙遜の道を歩まれた、あの十字架の道を歩まれたイエス・キリストの軛を負いなさいといわれるのです。軛というのは、牛が荷物を運ぶ時につける軛であります。

 くびきを共にするのです。そういわれるとわれわれはすぐそんなふうに縛り付けられるのはいやだというかもしれません。しかしそれはわれわれが間違ってイエスのくびきを負おうとしているからではないでしょうか。イエスは「わたしのくびきは負いやすい」といわれているのです。「わたしの荷は軽い」といわれているのです。われわれは十字架の道を歩むということを、なにか悲愴な覚悟で、殉教
者の道を歩むことだと考えていなでしょうか。だから、イエスのくびきを負うのはいやだと思うのではないでしょうか。

 しかしそれは誤りであります。イエスご自身が、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」といわれているのですから、もしそれが重荷だ、束縛だと思うならば、それはわれわれのイエスのくびきの負い方が間違っているからであります。

 イエスとくびきを共にするということは、その人、その人にふさわしいやりかたでくびきを共にすることであります。イエスは大工の子でした。ですから、お父さんを亡くしてから、ある時までは、そのお父さんの大工の仕事をして、家族を支えたのではないかとも言われております。そしてある人が想像力をたくましくして、イエスのその大工の店にの看板には、「わたしのくびきは負いやすい」と記されていたのではないかと冗談でしようが言っているくらいであります。
 
 牛にとって、そのくびきがいいくびきであるかどうかは、自分にあったくびきであるかどうかということだと思います。従ってイエスのくびきを負う、というのは、その人、その人にふさわしい、個性的なくびきがあるのです。そうでなければ、「わたしのくびきは負いやすい」とは言えないと思います。また、それは自分の力でくびきを負うとか、ということではなく、むしろイエス共にくびきを共にすることによって、わたしの重荷を負っていただく、そのようにイエスにすべてを委ねて歩むということであります。その時に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」といわれ、そのときにわれわれの魂に安らぎが与えられのであります。

 イスラエルの民にとっての「昔の道」とは、あの荒れ野で神に従順に従った時であります。そしてわれわれにとっての「昔の道」「初心に帰る」ということは、われわれがあの最初に主イエスに出会い、主イエスにとらえられ、うち砕かれて、主イエスに救われ、このかたに従っていこうと思った時なのであります。