「嘆きの歌」  エレミヤ書八章一八ー二三節 マタイ福音書二三章三七ー三九節

 今日はエレミヤ書の八章から一○章までのところを学びたいと思っておりますが、預言書を学ぶ時に、困ることの一つは、預言者が語られている言葉がどういう時代背景のもとで語られたのかということがはっきりしない場合があること、また必ずしも時代順に並べられているわけでもないということであります。今日学ぼうとしております八章から一○章も学者の説明では、そのような箇所で、預言者エレミヤの言葉がいろんな時に語った言葉が集められたものだろうということであります。ただ、読んでみてわかることは、テーマはひとつ、イスラエルの民の罪に対する預言者エレミヤの嘆きの言葉であります。

 エレミヤ書の一つの特徴は、他の預言者とは違って、エレミヤ書は預言者自身の思いというか、感情というものが、そのまま正直に吐露されている、告白されていて、それが文書として残されているということであります。たとえば、自分は預言者として神から召されて、神が語れという言葉をそのまま語るのだが、それによって民から迫害を受ける、こんな迫害を受けるなら、もういやだ、神の言葉を語りたくないというようなことをエレミヤはいうのであります。それがそのままエレミヤの言葉として記されているということであります。

 そういう思いはエレミヤだけでなく、恐らくどの預言者も同じような経験をしているでしょうが、ただエレミヤ書だけは、その預言者の正直な思いがそのまま言葉として記されているということであります。

 神の言葉は、われわれに伝えられる時に、それはコンピューターのような機械を通して伝えられるのではなく、生身の人間をとおして伝えられのであります。ひとりの感情をもった人間を通してわれわれに伝えられるのであります。そのことがエレミヤ書を読んでいく時によくわかるのであります。

 エレミヤは七章の一六節からみますと、神からこういわれております。
「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない」と言われてしまうのであります。

 預言者の一番大切な務めは、ただ機械的に神の言葉を伝えることではなく、神の言葉を伝えながら、人々に悔い改めを迫り、その悔い改めを神に届けるということの筈であります。つまり、預言者の一番大切な務めは「とりなす」ということであります。それを今エレミヤは神から禁止されてしまうのであります。なぜならば、民の罪のあまりの大きさの故にであります。

 もう「この民のために祈るな、この民のために嘆くな」とエレミヤは言われてしまうのであります。しかし、エレミヤは、神に禁止されている嘆きを現すのであります。八章一八節から、エレミヤはイスラエルの民の罪のために嘆き悲しむのであります。
 「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる。見よ、遠い地から娘なるわが民の叫ぶ声がする。『主はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにはおられないのか。』なぜ、彼らは偶像によって、異教の空しいものによってわたしを怒らせるのか」。

今南ユダは、その民のしている偶像礼拝のために、飢饉に見舞われているのです。二○節をみますと、「刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、われわれは救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、わたしはうち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる」と、ありますが、これは秋の収穫の時が来ても収穫するものがなかったということ、飢饉に見舞われているようであります。

 そうしたなかにあって、「主はシオンに、つまりエルサレムにということですが、シオンにおられないのか」「神はどこにおられのか」という人々の声が、訴えが、エレミヤには聞こえてくるのであります。自分たちはヤハウェではなく、偶像礼拝をし、異教の神々に頼りながら、飢饉になると、主なる神はどこにおられるのか、叫びだす、その叫び声を耳にするたびにエレミヤは嘆き、「わたしの心は弱り果てる」というのです。

 そしてエレミヤはこういいます。二二節。
 「ギレアドに乳香がないというのか。そこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。わたしの頭が大水の源になり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう。娘なるわが民の倒れた者のために」。

 ここでは、預言者エレミヤが、罪のゆえに飢饉に見舞われている民のために一緒になって苦しみ、嘆いている姿をみることができます。それだけでなく、「娘なるわが民の倒れた者のために」という言葉からすると、ここでは、もう預言者の立場を超えて、エレミヤは神ご自身の立場に立っているような感じを受けるのであります。エレミヤの嘆きをみますと、そこでいわれている「わたし」という言葉が、預言者のことを言っているのか、それとも神ご自身のことなのかわからなくなるのであります。

 たとえば、一九節の「異教の空しいものによってわたしを怒らせるのか」という時の「わたし」は、エレミヤ自身というよりは、神をさしているように思えますし、「娘なるわが民」という表現は、預言者が自分の民に対して「娘なるわが民」というだろうか、ここはやはり神ご自身の思いではないかと思われてくるのであります。

 いったいどこまでが預言者エレミヤの思いなのか、それとも神ご自身の思いなのか、区別がつかなくなるのであります。そして区別がつかないということが預言者エレミヤの預言者たるところなのではないかと思います。
 エレミヤはある時には、罪を犯して苦しんでいる民の側に立ち、またある時には、それを怒り、それを悲しんでいる神の立場に自分をおいているということであります。

 そして「とりなす」ということは、そういうことではないかと思うのです。ある人がいっておりますが、もっとも困難な立場は「とりなす」ということだというのです。

 とりなすというのは、今不和な状態にあるふたりの間をとりなすということであります。ですから、それはただ一方の側に立つだけではだめで、両方の立場に立たなくてはならないわけです。

 今エレミヤはある時には、罪を犯し、そのために大変な危機に見舞われて苦しんでいる民の側に立ち、共に苦しみ、共に悲しみ、嘆く、そしてある時には、民の罪のために怒っている神の側に立ち、しかしその神が本当は怒りながらもなんとかして民を赦したがっているのだということを民に告げようしている。神ご自身もお前達の罪のために苦しみ、悲しみ、嘆いてるのだということを民に伝えようとしているのであります。

 エレミヤは預言者として、その召された時に、「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威を委ねる。抜き、壊し、破滅し」という権限を与えると神から言われるのであります。つまりエレミヤは預言者として徹底的に裁きを伝える預言者として召されているのです。そして「抜き、壊し、破滅し」といわれたあと、かろうじて「あるいは建て、植えるために」と、神の赦しを伝える預言者として召されるのであります。エレミヤは圧倒的に神の裁きを伝える預言者として召されているのです。

 われわれは人を裁くのが好きであります。人を批判したり、裁くときは気持ちがいいからであります。自分はなにか一段高いところに立っているように感じられるからであります。テレビのワイドショウーなどが好まれるのは、人の悪を暴いたり、裁くからであります。その時、それを見ているわれわれは、どこか一段高いところに立ってそれを見ている。あるいは、少なくも自分は安全地帯にいて、それを見ているのであります。だから楽しいのです。それはワイドショーだけではなく、ひところは国会中継がそうでした。「あなたは疑惑のデパートだ」といって追求している議員はどんなに気持ちよかったか。その時はその議員は、自分は相手よりも一段高いところに立っていたのであります。少なくも自分は安全地帯にいると思っていたのであります。だから気持ちよく糾弾できたのであります。その結果がどうなったかはわれわれはよく知っているところであります。

 自分は一段高いところに立って、そうでなくても、少なくも、自分は安全地帯にいて、人を裁くということがどんなに気持ちいいかということであります。
 
 主イエスのところに姦淫を犯している女を連れてきたファリサイ派の人々、律法学者たちは、その時どんなに楽しんでいたか。そしてそれを群衆が見た時に彼らも律法学者達と同じ立場に立ち、女を見下して、こうした女は石で打ち殺されるべきだとわめきだそうとするのであります。

 その時、主イエスはどうなさったか。イエスはかがみこみ、その女と同じように、かがみ込み、指で何かを書いておられたというのであります。みんなは恥ずかしさのためにうずくまっている女を見下げているなかで、イエスだけは、その女と同じ立場に立ち、うずくまっていたのであります。そして人々が執拗に「こうした女は」と責め立てる時に、イエスは「あなたたちの中で罪のない者がこの女に石を投げつけるがよい」といわれたのであります。

イエスは人を裁くなといわれたのではないのです。自分の目には大きな梁をいれておきながら、人の目にある小さなちりを取ろうとするなと言われたのです。自分は罪がないと自分を安全地帯において、人を裁くなといわれたのであります。
 
 預言者エレミヤが今裁きの言葉を述べるときに、どんなに罪を犯している民の立場に自分もみずから立ち、その罪を悲しんでいるか、それが嘆きの歌といわれている歌であります。

 愛は想像力だと言った人がおります。想像力のない人は愛のない人だというのです。想像力とは、相手の立場に立って、自分がその人の立場に立ったならば、どうだろうかと想像する。そういう想像力のない人は、ただ自分の親切を、自分の正義を相手に押しつけるだけなのであります。

 九章九節からみます。「山々で、悲しみの嘆く声をあげ、荒れ野の牧草地で、哀歌をうたえ。そこは焼き払われて、通り過ぎる人もなくなり、家畜の鳴く声も聞こえなくなる。空の鳥も家畜も、ことごとく逃れ去った。」
一八節からみますと、「万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。急がせよ、われわれのために嘆きの歌を歌わせよ。われわれの目は涙を流し、まぶたは水を滴らせる。嘆きの声はシオンから聞こえる。いかに、われわれは荒らし尽くされたことか。甚だしく恥じを受けたことか。まことに、われわれはこの地を捨て、自分の住まいを捨て去った。」

 一○章の一七節からみます。「包囲されて座っている女よ。地からお前の荷物を集めよ。主はこういわれる。見よ、今度こそわたしはこの地の住民を投げ出す。わたしは彼らを苦しめる。彼らが思い知るように。ああ、災いだ。わたしは傷を負い、わたしの打ち傷は痛む。しかし、わたしは思った。『これはわたしの病、わたしはこれに耐えよう。』わたしの天幕は略奪にあい、天幕の綱はことごとく断ちきられ、息子らはわたしのもとから連れ去られた。ひとりもいなくなった。」病気なら、時がくればいやされるかも知れない。しかしこれは病気なんかではなく、神の裁きだというのです。

 なぜこのような裁きが下るのか。一○章二一節からみますと、「群れを養う者は愚かになり、主を尋ね求めることをしない。それゆえ、彼らはよく見守ることをせず、群れはことごとく散らされる」と、今南ユダの指導者がいかに堕落しているかということをとりあげます。

 そのため人々は、真実の神ヤハウェを捨てて、頼りならない偶像を頼ろうとするというのです。一○章三節からみますと「もろもろの民が恐れるものは空しいもの、森から切り出された木片、木工がのみをふるって造ったもの、金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。キュウリ畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれていく」ではないかというのです。偶像は「かかし」だというのです。「そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだことも、幸いをもたらすこともできない」と皮肉ります。

 その結果、人々の倫理感覚は麻痺してしまう。九章の三節からみますと、「人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはらない。兄弟といっても、ヤコブ、押しのけるものであり、隣人はことごとく中傷して歩く。人はその隣人を惑わし、真を語らない。舌に偽りを語ることを教え。疲れるまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね」、そして主なる神を知ることを拒むというのです。

 そして預言者エレミヤは実に大胆なことを述べます。八章の八節からです。「どうしてお前達は言えようか。『われわれは賢者といわれている者で、主の律法を知っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」とまでいうのであります。
 先週にふれましたが、エレミヤはヨシヤ王の申命記による、律法による宗教改革ははじめは賛同したようなのであります。しかしそれが結局は中身のない形式主義的な律法主義に陥ることを見抜いて、やがて失望していくのであります。しかしそれにしても、ここでは、その律法が神が与えた律法ではなく、書記が偽って書かせたものだ、というのですから、大胆であります。学者がいうには、ここで批判されている律法は律法全体ではなく、祭儀律法、つまり祭りごとに関する律法のことではないかといいます。儀式についての規定は、元来口頭で祭司達に伝えられていたものだった、それが文書化されることによって祭儀律法というものが幅をきかせるようになって、信仰が形式化され、律法主義に陥らせる原因をつくった、それをエレミヤはここで批判してるいるのではないかというのであります。後に新約聖書では、ヘブル人の手紙ではっきりと祭儀律法というものが全面否定されているのと同じであります。

 そういう人々の堕落している姿をみる時、そしてそれに対する神の裁きを見る時、預言者エレミヤはこういう弱音を吐くのであります。九章一節から。
「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる、彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしないと、主はいわれる。」

 エレミヤはもう逃げ出したいと嘆くのであります。もう預言者という職務を捨てて荒れ野に逃げ出したいというのであります。エレミヤはこれからもさいさいそういう弱音を吐き、それを正直に記しているのであります。

 そういう生身の人間、われわれと同じ弱さをもった人間によって、神の裁きが述べられる、それがエレミヤ書の特徴であります。そしてそれだけにその神の裁きの背後にある神ご自身の嘆きをわれわれはひしひしと感じるのであります。
 一○章二三節からみますとエレミヤはこういってとりなしの祈り、神からもうとりなすなと言われている、そのとりなしの訴えをするのであります。

「主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることもできません。主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒らによらず、わたしが無に帰することのないように。」「人はその道を定めえず、歩みながら、足取りを確かめることもできません」というのは、あのパウロが「わたしの欲する善はこれをなさず、わたしの欲しない悪がこれをなす」という嘆きと同じように、われわれ人間はそれが良いこと正しいことであると知っていても、その道を歩めないでふらふらしているということだと、ある人が説明しております。

 われわれ人間はそういう弱い人間なのだから、どうぞ神様、裁く時に、怒り狂ってわれわれを全面破壊してしまうようなことだけはなさらないでくださいと、エレミヤは訴えるのであります。ここでいう「わたし」というのは、エレミヤが民と自分を一体化して、神に訴えているところであります。

 このところの「正しい裁きによって」というところを、ある人が「節度をもって裁いてください」と訳しているおります。ちなみに、リビングバイブルでは、「私をたたき直してください、ただし、どうかやさしく扱ってください。怒りにまかせて、つらくあたらないでください」と、訳しております。

 エレミヤが、は神から、もうとりなしの祈りをするなといわれながら、なおここでとりなしの祈りをするのは、エレミヤは神のみこころをよく知っているからであります。最後に八章の四節から見てみたいと思います。
「彼らに言いなさい。主はこういわれる。倒れて、起きあがらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。どうしてこの民エルサレムは背く者となり、いつまで背いているのか。偽りに固執して、立ち帰るこことを拒むのか」と、神の嘆きをエレミヤは語ります。

 神は倒れること、転ぶこと、つまり罪を犯してしまうことを、怒り嘆いているのではないのです。転んだら、倒れたら、どうして、そこから立ち上がらないのかと嘆くのです。われわれは罪を犯してしまうのです。それはもうどうしもないのです。しかしその時に、どうして、悔い改めて、もういちど神のもとに帰ろうとしないのかということであります。主なる神はどんなに、罪を犯したわれわれが神のもとに立ち帰ることを求めておられるかということであります。
 
 主イエスはご自分が十字架につくためにエルサレムにお入りなったときに、こう言って嘆かれたのであります。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らをなんど集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。見よ、お前達の家は見捨てられて荒れ果てる」。

 父なる神はどんなにお前達を赦したがっておられるか、どうしてその神の心を知らないで、悔い改めようとしないのかと嘆きながら、主イエスは十字架の道を歩むのであります。