「主の神殿、主の神殿!」 エレミヤ書七章一ー一一節
             ヨハネ福音書四章一六ー二六節

 預言者エレミヤは、エルサレム神殿に礼拝しにくる者に対して、こう呼びかけるのであります。
「主を礼拝するために、神殿の門に入って行くユダヤの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前達をこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、空しい言葉により頼んではならない。」
 「主の神殿、主の神殿、主の神殿という空しい言葉に頼るな」ということはどういうことかといいますと、ユダヤの人々は、自分たちには、エルサレム神殿という立派な礼拝する場所をもっているから、どんなに敵の侵略を受けても安全だ、安心だという信仰をもっていたのであります。その人々に対して預言者エレミヤはそんな信仰はいかに空しいことかと言うのであります。

 この言葉を告げた状況は、エレミヤ書の二六章に記されておりますので、そこを見ておきたいと思います。
 エレミヤ書というのは、一章から二五章まで、エレミヤのユダと諸外国に対する神の裁きを伝えた言葉が記されていて、二六章から、エレミヤの弟子バルクという人が、エレミヤが迫害にあった、いわばエレミヤの受難の記事が記されております。そして二六章には、この七章に記されている、エレミヤがエルサレム神殿の前で語った状況が記されておりますので、その二六章を見ておきたいと思います。。

 「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主の言葉がエレミヤに臨んだ。主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ」、エレミヤはそういわれて、神殿に礼拝しにくる人々に悔い改めを迫ったというのです。その内容は「主はこういわれる。お前達がわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に従わいならば、わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上にすべての国々の呪いの的とする」と語りだしたというのです。
 すると祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤを捕らえ「あなたは死刑に処せられねばならない。なぜ、あなたは主の名によって預言し、この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる」というのかとエレミヤを捕まえて、裁きの座に着かせたというのであります。

 エレミヤはその裁きの座でこういうであります。「今こそ、お前達は自分の道と行いを正し、お前達の神、主の声に聞き従わなければならない。わたしを殺せば、お前達自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くと言うことを知っておかなくてはならない。主なる神がこの言葉を告げよ」といわれたからだと述べるのであります。

 すると高官と民衆は恐れをなして、祭司達に「この人には死に当たる罪はない。彼はわれわれの神、主の名によって語ったのだ」と言いだして、この時はエレミヤは難を逃れたのであります。

 なぜこの時エレミヤは祭司達によって殺されそうになったのか、エレミヤがただ人々に正義を行え、律法を守れと悔い改めを迫っただけならば、これは預言者として当たり前のことを言っているのですが、祭司達の怒りを買ったのは、エルサレム神殿そのものを真っ向から批判し、それは北イスラエルにあったシロの神殿のように神によって滅ぼされると言ったからであります。

 つまり祭司達を初め、みんなが後生大事にしていたエルサレム神殿そのものを否定したからなのであります。
 それはたとえば、バチカンに行って、あの壮大なサンピエトロ寺院の前に立って、こんな教会堂は意味がない、こんなものは中身のない空洞だと批判するようなものだったのであります。

 このエレミヤのエルサレム神殿の批判の背景にはこういうことがありました。ヨシヤがユダヤの王になったときに、律法の巻物がある城壁を修理してる時に発見されまして、それが今日の申命記だといわれておりますが、その律法の巻物ヨシヤは読んで、心動かされ、今まで自分たちはいかに律法に忠実に従わないで、偶像礼拝をしていたということを反省して、王みずから先頭に立って、宗教改革をしたのであります。

 そして何よりも神殿の改革に立ちました。その時には、神殿はエルサレム神殿だけでなく、地方にもそれぞれ礼拝する場として礼拝堂と称するものがあっちこっちにあったのです。しかしそこは偶像礼拝する場にもなってしまっていた。それでヨシヤは神殿はエルサレム神殿ひとつにして、地方にある神殿は偶像礼拝の巣窟となっているから、それらを全部破壊して、神殿はエルサレム神殿一つにしたのであります。このようにして、政治的にも中央集権をはかったのであります。

 それ以来人々は、このエルサレム神殿に来て礼拝するようになりました。ここがヤハウェを礼拝するただ一つの礼拝の場になっていたのであります。それだけにユダヤの人々にとってこの神殿があるということは、自分たちの魂を安定させる場所になった。ここに来て、犠牲のささげものをしていさえすれば、自分たちの国は敵の侵略を受けないという、そういう神殿信仰を持ち始めたのであります。
 
 エレミヤは初めは、このヨシヤ王の宗教改革に賛成していたようであります。しかしそのうち、そのヨシヤ王の宗教改革も結局は中身のないただ形式的なものになっていくことを見抜いて、この王の宗教改革に失望していくのであります。
 それでヨシヤ王が不幸な死に方をしたあと、ヨヤキムが王になった時に、公然とこの神殿批判をし始めるのであります。
 それはエルサレム神殿を守っている祭司達が黙っている筈はないのでりあます。
 
 宗教改革をして、すべての偶像礼拝をやめさせたその由緒あるエルサレム神殿、自分たちの信仰のよりどころであります、エルサレム神殿そのもをエレミヤは「そんなものはなんの頼りにもならない、主の神殿、主の神殿、主の神殿と言って、そんなものを頼りにするな」というのであります。

 それは苦労して苦労して、建てた教会堂を、それまで苦労してきたことを全面否定するようなことを、牧師が説教したら、それを聞いた人々は怒りだすだろうと思います。

 しかし神殿というものは、そもそもなんなのでしょうか。エルサレム神殿を最初に建てたのは、ダビデの次の王、ソロモンでした。そのソロモンが莫大な費用をかけて、神殿を建てたあと、その献堂式の祈りで祈ったという祈りの言葉が列王記上八章に記されております。ソロモンはこう祈るのであります。
 列王記八章二七節からです。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」と、その献堂式の場で、祈るのであります。こんな神殿などあなたの住まいとしてふさわしくないことはよくわかっていますと祈るのであります。これは自分のしてきたことの全面否定してしまうような祈りであります。

 そしてソロモンはこう祈ります。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕がみ前に捧げる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください」と祈るのであります。そしてこう祈りを続けます。「人が罪を犯し、その罪を悔い、この神殿に来てあなたに祈りを捧げる時には、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦してください」と祈るのであります。
 
 自分が総力を挙げて建てた神殿、それは決して神を納めるような場所ではないないということはよくよくわかっています、しかし、この神殿をわれわれの悔い改めの祈りの場にしたいというのであります。これがエルサレム神殿の最初の献堂式の祈りだったし、神殿そのものの果たす役割だつたのであります。
 
 しかしいつのまにか、神殿そのものが神をその神殿に閉じこめ、神をこの神殿に固定化させることができる場所だと、人々は思うようになってしまった。神殿信仰というものができあがっていったのであります。

 ソロモンの前の王ダビデが自分は自分の宮殿を建てていながら、神殿を建てないのは申し訳ないから、神殿をこれから建てますと、祈った時に、主なる神はこういわれるのであります。「わたしは神殿などいらない、わたしのいる場所は幕屋で充分だ」といわれたのてす。幕屋というのは、テントであります。いつでも折り畳んで移動できるものであります。それこそが神の自由をあらわす、この地上での神の住まいにふさわしい場所なのだと言って、ダビデには神殿建築を許さなかったのであります。

 イスラエル人にとっては、契約の箱というものがありました。それはモーセが神からいただいた十戒が記された石版が二枚入っていた、ちょうど日本でいう御神輿みたいな箱がありました。イスラエルの人々は、その契約の箱に神が臨在するところとして、大変大事にいたしました。ダビデ王が自分が王になったときに、まず第一にしたことは、自分がこれから政治を行う場所にこの契約の箱を運び入れることでした。しかしそれほど大事にしていた契約の箱についての記事は、聖書をみますと、いつのまにかなくなってしまうのであります。それはいつのまにか、その契約の箱が偶像化されるようなったからだとも言われております。
 
 また、イスラエルの民が荒野をさまよっていた時に、彼らの罪のために神が怒って、蛇を民の中に送った。そのために多くの人が蛇にかまれて死んだ。それで民はモーセにどうにかしてくださいと頼み、モーセが神に祈りますと、「青銅でへびの形を作り、それを竿の上に掲げなさい。へびにかまれた者がそれを仰ぐと生きる」と主なる神からいわれて、モーセは青銅でへびを造り、それを仰いだときに人々は生きることができたという記事があります。それは、その青銅のへびを仰ぐことによって自分たちの罪を覚え、神の裁きのために神から遣われたへびを仰いで、罪赦され、救われて生きることができたということであります。

 しかしその青銅のへびはいつのまにか、ネホシタンといわれるようになって、人々はこれに香をたくようになっていった。偶像化していくのであります。そのためにヒゼキヤ王は、これを破壊したのであります。
そしてこれが後に、イエス・キリストが十字架の上にかかげられた時、それを仰ぎみることによって救われることを経験をした時に、人々はこのネホシタンのことを思いだしたのであります。
 
 一度は、そして最初は、それによって悔い改めのきっかけになったものが、やがてそれが偶像化していくというのは、宗教の世界にはつきものなのであります。われわれはどうしても目に見えるものが欲しくなる。目に見えない神だけを信じるというのは、どうも不安で仕方ないのです。目に見えるものを造って、それを拝んでいれば、自分たちは救われるという安心できるものを欲するのであります。つまり救いの確かさというものを自分の取り出しが自由にできる自分のポケットにしまっておきたいのです。それが偶像であります。自由な神を自分のなかに閉じこめておく、それが偶像なのであります。

 エルサレム神殿も、その偶像になってしまったのであります。それがエレミヤによって今痛烈に批判されたのであります。「主の神殿、主の神殿、主の神殿といって、安心するな」と痛烈に批判したのであります。

 目に見える形のものは、うつかりするとたちまち偶像化になりはててしまうのであります。キリスト像もそうであります。マリア像もそうであります。そして十字架という像もまた偶像になる危険をもつのであります。

 今日のわれわれの問題でいえば、目に見える形の聖餐式という儀式も、われわれの信仰を危うくさせるものなるかもしれないことにわれわれは警戒しておかなくてはならないと思います。

 われわれの教会では、というよりは、われわれの教団では聖餐式というのは、洗礼を受けた人だけがこれに預かるようにしております。そうしますと、なにか洗礼を受けたということが、ひとつの特権のように感じられるかもしれません。それは洗礼を受けていない人に対する差別ではないかといわれるのであります。しかしわれわれがこの聖餐式を洗礼を受けた人だけがあずかってくださいというのは、聖餐式というものを大切なものとして受け止めたいからなのです。これはパンと葡萄酒、われわれの教会では、ぶどう液にしておりますが、このパンも特別なパンではありません、ある教会の人が造ってくださるパンを今は用いております。それは場合によっては、市販されているスーパーで売っているパンであるかもしれないのです。ぶどう液もそうです。そのパンとぶどう酒をキリストの十字架で流されたからだと血としてうけとめるためには、どうしても信仰が必要なのです。これをただ配られたからということで、意味もよくわからないままに、あずかって欲しくない、これを受け取る時に、自分の魂をうち砕いて、自分の罪はキリストの十字架のあがないの肉と血潮によって救われたのだという 思いをもって、これにあずかってほしい、そうでないと、パンとぶどう酒は意味をなさないのです。それは何かのおまじないのようになったりしては困るのです。それでキリストの十字架のあがないの意味というものを知って信じて、救われたという経験をもっている人、すなわち洗礼を受けた人がこれにあずかることによって、聖餐式をおまじないから救い、偶像化させないものにさせているのです。

 ですから、まだ洗礼を受けていない人に対しては、あなたがもし今信仰があったとしても、信仰があるのだから聖餐式にあずかってもいいではないかと思うかもしれないが、これを受け取るのを、もしその信仰があるならば、自分が洗礼を受けるまで待ってほしい、待つという謙虚な信仰に立って欲しいと願って、待ってもらっているのです。もしそれが差別だ、それはけしからんと思うならば、もうその人は洗礼を受ける資格を失ってしまうのではないかと思います。どんなに自分には信仰はわかっていると思っていても、洗礼を受けるまで待ちますという謙虚な信仰をその人にもってほしい願いながら、聖餐式の時にはそれに預かるのを洗礼を受けるまで待ってもらつているです。

 ですから、逆にいいますと、聖餐式に預かるものが、これは信仰者の特権だなどと思いながら、そして洗礼を受けていない人に対する優越感にひたりながら、聖餐式に預かるならば、聖餐式そのものを、エレミヤが神殿批判したように、それは偶像的なものにしてしまっていることになるのであります。もし洗礼を受けていない人があやまってそれに預かっているのを見て、けしからんと思ったり、なにか汚れたもののにように感じるとするならば、それは信仰者の特権意識の現れであって、もっとも警戒しなくてはならないことであります。

 イエスの弟子達が、彼らはみなガリラヤといういわば田舎の出身ですから、エルサレムに来てその神殿をみて、感心して、「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったときに、イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに、他の石の上に残ることはない」と、真っ向からこの神殿を批判したのであります。そしてこのイエスの言葉が祭司長たちに伝わって、彼が捕らえられ、死刑になる口実になるのでりあます。

またイエスはあの十字架につく前の週、エルサレムに入った時に、まず第一にしたことは、エルサレム神殿の宮清めをしたのであります。そこで行われている祭司達を利するために行われていた商売を一掃したことであります。その時イエスはこのエレミヤの言葉、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前達の目には強盗の巣に見えるのか。そのとおり、わたしにもそう見える、と主はいわれる」というエレミヤの言葉を受けて、お前達は祈り場であるこの神殿を強盗の巣にしてしまっていると怒ったのであります。

 イエスがある時にサマリヤの地方を歩いていた時に、のどがかわき、井戸の水をサマリヤの女からもらっている時に、その女からこういわれるのです。
「わたしどもの先祖はこの山で礼拝をしましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っていますが、どうなのですか」と、尋ねられました。その時イエスはこう答えたのであります。

 「わたしを信じなさい」といわれたあと、「この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時がくる。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時がくる。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたのであります。
 
 イエス・キリストが来てくださったことによって、もはやゲリジム山でもなく、エルサレム神殿でもなく、霊と真理によって父なる神を礼拝する時が来たのだというのであります。
 
 われわれの聖日ごとの礼拝がその霊と真理による礼拝であり、砕けた魂を捧げる礼拝であり、そうあり続けることを、心から神に求めたいと願うのであります。