「復活の主イエスを信じる」   ヨハネによる福音書二十章二四ー二九節


 今日は主イエスの復活を記念するイースターの礼拝を守っております。クリスチャンならば、だれでも復活を信じていると思います。しかしわれわれは復活を信じるといいながら、その復活をどのように信じているでしょうか。

 マルタとマリアの兄弟ラザロが重い病気になった。
 それでまわりの者がイエスに「あなたの愛しておられるラザロが病気です」と伝えました。しかしイエスはラザロが重い病気になったと知っても、二日間同じところに滞在しておりました。そしてラザロは死んでしまうのであります。そして墓に葬られてしまった。そして四日たってようやく、イエスはその姉妹マルタとマリアのところに行きます。

 マルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟ラザロは死ななかったのに。しかしあなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、今でも承知しております」と、不平と非難をまじえて、イエスに訴え、また一抹の期待を込めてイエスに迫りますと、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われるのです。

 するとマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えます。マルタは復活信仰というものをもっているのです、しかしその復活信仰は、自分の愛する兄弟ラザロの死という現実を前にしては、なんの力にも慰めにもなっていないのです。マルタはイエスから「あなたの兄弟ラザロは復活するよ」といわれても、なにも驚きもしなければ、感動もしていないのです。そんなことはわかています、それはどうせ遠い将来のことなのでしょう、と応答するだけなのです。

 われわれの復活信仰もそうなっていないか。イエスのよみがえりを信じています、自分のよみがえりを信じていますといいながら、それは現実の死という厳粛な事実の前には、なんの力にもなっていないのでなはいか。

 われわれにとっても復活信仰というのが、なにか遠い遠い将来、起こるかも知れない信仰になっていないか。そしてそれは結局は遠い将来のことなのだから、起こっても起こらなくてもどうでもいい信仰になっていないか。

 そのように、遠い将来起こることなのだから、よくわからないけれど、あまり期待していないけれど、信じているというだけの信仰になっていないか。

 このマルタの「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」という言葉は、なんとも力のない空虚な復活信仰をいいあらわしていると思うのです。

 それに対して主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、マルタに迫ったのであります。

 「わたしは復活であり、命である」という主イエスの言葉は大変不思議な言葉であります。本来結びつきようがない言葉が無理に結びつけられているようなのです。「わたしは復活するのだ」といえば、言葉としてつながります。しかし、ここでは、イエスはそうはいわないで、「わたしそのものが復活であり、命なのだ」といっているのです。これはどういう意味なのでしょうか。

 しかし主イエスは「わたしは復活であり、命である」といわれたあと、すぐ続けて「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というのであります。
 つまり、イエスを信じる者は、遠い将来、この世の終わりの日によみがえるとか、そんなあやふやなことではなく、今復活の命にあずかることができるのだ、というのであります。

 それにしても「わたしを信じる者は死んでも生きるとか、生きていて私を信じる者は決して死ぬことはない」ということは、実際問題としては、どういうことなのでしょうか。

 イエス・キリストを信じていた人は、死んでも生き返るのだとか、イエス・キリストを信じている人は、決して死なない、などということはありえないことはだれでも知っていることであります。
 このあと、死んだラザロをイエスはよみがえらせましたが、しかしそのラザロもいずれ時がきたら、死んでしまったことは間違いのないことであります。あるいは、このあと、イエスから「お前は信じるか」といわれて、「わたしは信じます」と、答えたマルタはずっと死なないでいたかといえば、そんなことはないことはわれわれはよく知っていることであります。

そうしますと、「わたしを信じる者は死んでも生きる」とか、「生きていてわたしを信じるものは死ぬことはない」とは、どういうことなのでしょうか。

 中世の修道院では、一日のうち最後に交わす言葉は「メメント・モリ」、つまり「死を憶えよ」という言葉であったということはよく言われることであります。 これは中世で、コレラが流行して多くの人があっというまに死んでいったという時代背景があって、われわれ人間はいつ死ぬかわからない、そのことを憶えて、今日一日、今日一日を大切にして生きなくてならないということで「メメント・モリ」と言い交わしたということであります。

 修道士たちは、しかし、ただ「メメント・モリ」といったのではなく、そのあと「メメント・ドミニ」つまり「主を憶えよ」と言ったのだということであります。「死を憶えよ」というよりも、もっと大切なのは「主を憶えよ」ということなのであります。「死を憶えよ」ということは、同時、いやそれに先だって「主イエス・キリストを憶えよ」ということなのであります。

 ある人の言葉に、「死を見つめれば、死に見つめられてしまう」という言葉があります。「死だけを見つめていれば、死に見つめられてしまう、いつもいつも、死ぬことばかり考えていれば、われわれは死に見つめられてノイローゼになってしまうだけであります。ガンになって、余命いくばくもないと言われてしまって、死のことばかりかんがえていたら、われわれは死に見つめられて、ノイローゼになってしまうと思います。

 修道士たちは、死をみつめ、死を憶えると共に、主イエスのことを憶えなさいと言い交わしたのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言した主イエス・キリストを憶えなさい、と言い交わしたのです。

 その主イエスは「自分の命のことで思い煩うな」といわれ、「お前達は思い煩ったからといって、自分の寿命をわずかでも延ばすことができるか」と言われた主イエスなのです。そしてそのあと主イエスは「そんな小さなことさえできないのに、どうして思い煩うのか」と言われた主イエスなのです。

 われわれにとって一番大きな死、それを延ばそうとして思い悩んでも、われわれは一日たりとも自分の力では、人間の力では延ばすことはできない死という厳粛な事実、そういう厳粛な死の前に恐れおののいているわれわれに対して、主イエスは「そんな小さいことさえできないのに」といわれるのです。

 われわれ人間にとって一番大きなことが、イエスの目からすれば、そんな小さなこととしてしかうつらないのです。それは逆にいえば、それほどに、主イエスというかたは大きいということであります。その大きな大きな存在である主イエス・キリスト、その「主を憶えよ」ということなのであります。

 主イエスは「わたしは復活するのだ」と平凡にいうのではなく、「わたしは復活そのものなのだ、わたしは命そのものなだ」、だからその復活そのものであるわたしを信じなさい、というのであります。そうしたら、死んでも生きることができる、死なないだということであります。

 私が四国にいたときに、近くの友人の牧師がガンになって、もう余命いくばくもないという事態に追い込まれて、入院しました。まだ四十歳代だったと思います。われわれ牧師仲間でも、その牧師をお見舞いすることに躊躇していたのです。まだ若いのです。使命半ばでガンで倒れて死ぬ、本人ももう自分がガンのために余命いくばくもないことは知っているのです。そういうときにお見舞いすることは本当につらいし、躊躇してしまいます。そのときに、その牧師夫人は、主人はイエス様を信じておりますから、復活を信じておりますから、大丈夫ですよ、と実にあっけらかんとして、お見舞いに来た牧師たちを病室に招き入れたのです。

 もともと明るい人ですけれど、そのあっけらかんとした信仰というか、態度にわれわれ牧師たちはかえってとまどったものであります。わたしなんかはそんな無理をしなくてもいいのに、思ったほどでした。

奥さんはそのようにある意味では、強い復活信仰をもって、明るく、あっけらかんとしていましたが、死を前にして病床に横たわっている夫である牧師はそれほど死を前にしてあっけらかんとしていたわけではないのです。

 あるとき、彼は奥さんにこういったというのです。「教会の周りの雑草を抜かないでくれ。あの教会の周りの雑草を抜かれていく様子を思い浮かべると、自分の命まで抜かれていくようで、つらい」といったそうです。

 その教会の庭の雑草を抜くのは、彼の日課だったようなのです。しかし彼は病気になってしまった。それで今では彼の代わりに奥さんがその雑草を抜くことになったわけです。彼は正直いいまして、あまり優秀な牧師ではありませんでした。本当に地味な、愚直とさえいわれるような牧師だったのです。彼は自分の生涯をふりかえって、自分は雑草のような存在だったと思っていたのだろうと思うのです。

 わたしは、彼が奥さんに「教会の庭の雑草を抜かないでくれ、自分が抜かれるような気かするから」と言ったという話を聞いたときに、ほんとうに胸がつまりました。
 彼はやはり死を恐れていたのです。死の前に恐れおののいていたのです。

 確かに、死を前にして、自分は復活を信じているから死なんか少しも怖くないという信仰をもてたらこんなにいいことはないと思います。
 しかし、復活を信じるということは、そんなにあっけらかんとして信じることができるものでしょうか。そんなに脳天気に信じることができるものでしょうか。

ディディモと呼ばれるトマスは、復活の主イエスが弟子達に現れたときに、その場にいなかったのです。ほかの弟子達が「わたしたちは主を見た」といいますと、トマスは、自分は「イエスがよみがえったなんてことは信じられない。その手に釘跡を見、自分のこの指を釘跡に入れてみなければ、あの十字架で死んだイエスがよみがえったなどとということはとうてい信じられない」というのです。

 復活というこは、ただ科学知識が発達した現代のわれわれにとって信じるのが難しいということだけでなく、イエスの時代にも、古代の人にとってもそれを信じるということは決してたやすい事ではなかったのであります。

 八日たって、弟子達が家にいたとき、そのなかにトマスもいたときに、戸に鍵がかかっていたのに、復活の主イエスが「あなたがたに平和があるように」と言われながら入ってきて、彼らの真ん中に立ちました。
 そして、トマスに言われた。「お前の指をここに当て、わたしの手の釘跡をみなさい。お前の手を伸ばしてわたしの脇腹に入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になれ」と言われたのです。

 トマスは、復活したといわれているイエスの手に、あの十字架のときに傷つけられたあの釘跡をみて、その釘跡に、自分の指をつっこんで、それが本当にあるかどうか確かめてみないうちは、イエスが復活したかどうかを信じるわけにはいかないといっていたのです。つまり、自分の目で見、自分の指で確かめて、証明されなければ、復活は信じられないといっていたのです。

 そういうトマスに対して、イエスは「そうか、そうしないと信じられないというのならば、そうしてみなさい」、それで納得できるのならば、そうしてみなさい、それでもいいから、ともかく「信じない者にならないで、信じるものになれ」と主イエスはいわれたのです。
 イエスがどんなにご自分の身を低くして、トマスのかたくなさをなんとかして打ち砕き、なんとかして、復活信仰に立てるように促しているかがわかるのであります。

 そのとき、トマスはただちに、イエスに向かって「わたしの主よ、わたしの神よ」と、言ったのです。もうこのとき、トマスは、自分の指をイエスの釘跡に入れようとはしないです。イエスの脇腹に手を入れようともしないのです。
 ある人が、「この時、トマスはもはや自分の手も、自分の目も信じなかったからである。そして、ただ主イエス・キリストだけを信じたからだ」といっております。

 人間の、自分の知性的な科学的証明によって、復活という事実を証明して、その上で復活を信じようしても、それはできないことだし、たとえできたとしても、それでは復活を信じたことにはならないのです。復活を信じるということは、人間の、自分の知性とか理性を信じるのではなく、神を信じることだからであります。自分を捨てて神を信じることだからであります。

 ここでトマスはなんと告白したか。「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白しているのです。トマスはここで「わたしはあなたが復活したことを信じます」などとはいっていないのです。そうではなくて、「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白しているのです。それは単にいえば、「わたしはあなたを信じます」という告白であります。もう自分を信じることをやめて、あなたを信じますということであります。

 ですから、復活信仰というのは、ただ死人のよみがりということを信じますという信仰ではないのであります。つまり、この主イエス、父なる神の存在、神の恵みということと切り離して、ただ死人が生き返ったということを信じる信仰なのではないということなのです。恵み深い神を信じるといことのなかで、復活ということを信じることなのです。

 とつぜん、あなたは死人のよみがえりを信じますかと問われて、はい信じますと、いうようなことではないのです。ただいきなり、あなたは死人がよみがえることを信じますか、と、問われれば、そんな非科学的を信じるのですか、と、と問われているように思われて、はい信じますなどとは答えられないと思います。

 大事なことは、神の恵みと共に、主イエスの復活を信じ、また自分の復活を信じるということなのです。

 トマスは「わたしは復活を信じます」とは答えていないのです。「あなたを信じます」と告白しているのてず。

 そして不思議なことに、あのマルタもこのトマスと同じような信じかたをしているのです。マルタは主イエスから、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことはない。このことを信じるか」といわれたときに、マルタは「はい、死人のよみがりを信じます」とは答えていないのです。そうではなく、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えているのです。

 つまり、ここでもマルタはイエスの問いに対して「わたしは死人のよみがえりを信じます」とは答えないで、「あなたを信じています」ということだけを告白しているということなのです。

 大事なのは、復活という事実、復活という事柄を信じるということではなく、「復活の主イエス・キリストを信じる」ということなのです。それはイエスはよみがえったという事柄を信じるというよりは、よみがえった主イエス・キリストを信じるということなのです。

 同じことをパウロがこういっているのです。ローマの信徒への手紙四章一七節のところなのですが、アブラハムの信仰に言及しているところなのですが、パウロはこういっているのです。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた」とあるのです。ここは口語訳のほうがいいと思います。「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」となっいて、ここでも、アブラハムは、神は死人を生かすことができることを信じた、というのではなく、「死人を生かし、無から有を呼びだされる神を信じた」ということであります。

 大事なことは、主なる神を信じることです。その主の恵みと共に、復活を信じることなのであります。

 トマスが「わたしの主よ、わたしの神よ」と告白しますと、復活の主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人はさいわいである」といわれたのであります。これはどういうことかといいますと、「わたしを見たから信じたのか」ということは、「お前は自分の手と目で確かめて信じようとしたのか、自分の知性で納得した上で信じようとしたのか」ということなのです。

 しかしトマスは復活の主の前に立たされて、もうそうした信仰は捨てたのです。見て信じようとしたのではないのです。トマスもまた「見ないで信じる」信仰に立たされたのであります。そうして、「わたしの主よ、わたしの神よ」と、主イエスを信じたのであります。

 われわれの信仰などというものは、ほんとうに頼りないものであります。今日は自分はしっかりと復活を信じますとか、信じることができますと、大きな声でいっても、いつのまにか、あっさりとそういう信仰をしすててしまう人も何人もいるのです。

死を前にすれば、自分のもっていると思っている復活信仰などというものは頼りないものであります。死ぬときには、みな多少呆けがきてますから、なにをいうかわからないと思います。南無阿弥陀仏とおもわずいってしまうかもしれません。しかしそんなことはどうでもいいことです。われわれはどんなにじたばたして死んでいこうが、あるいは、誤解を招くかもしれませんが、復活信仰があやふやになったとしても、復活の主イエスがわたしの死のかたわらてにいてくださり、わたしをよみがえらせてくださる、だから安心なのであります。

 昔の修道士達は、「死を憶えよ」といい、そして「復活を憶えよ」といったのではないのです。「死を憶えよ」そして「主イエス・キリストを憶えよ」といったのです。
 復活の主イエス・キリストを信じたいと思います。