「復讐してはならない」  ローマ書一二章九ー二一節


 一四節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福して祈るのであって、呪ってはいけません」と勧められています。

 自分たちを迫害する者たちを呪うのではなく、祝福し、祝福を祈る、そんなことができるでしょうか。一九節には「復讐するな」というのです。われわれにとって、自分を迫害する者、自分に意地悪をする者に仕返しを禁じられるということは、いってみれば、被害者にとって、唯一の生き甲斐を封印させるようなことではないか。

 よくテレビドラマに出てきますが、自分の家族が殺されたときに、その殺した者に対して復讐するということは、被害にあった人の生き甲斐になっている、生きる原動力になっている、それを封じられたら、自分の家族が殺されたときに、それ以後、どのように生きていいかわからなくなるくらいのことではないかと思うのです。

 古今東西、文学作品のなかには、この復讐をテーマにした物語がたくさんあるのではないかと思うのです。たとえば、わたしは少年向きの本としてしか読んだ記憶はありませんが、「巌窟王」とか、あるいはもう日本の歌舞伎や映画の十八番といってもいいかもしれませんが、「忠臣蔵」の話などは、いってしまえば、復讐物語であります、そしてそれはわれわれの血を沸き立たせるのであります。

 しかし、ここでは、あなたがたを迫害する者のために呪うのではなく、祝福を祈りなさいというのです。

 竹森満佐一が「主の祈り」という小さいパンフレットをだしておりますが、そのなかで「我らが罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をお赦しください」という項目の解説でこんな例を書いているのであります。
 第一次大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の聖日に、ある町で、こわれた会堂のなかで、礼拝が行われた。しかし、いつものように、主の祈りになって、この句のところ、「われらが罪を犯す者をわれらが赦すごとく」という句に来ると、みんな黙ってしまったというのです。そのときに、みんなの者がドイツ人が自分たちに対してしたことを思いだして、それを考えるととても赦す気持ちにはなれない、だから、誰も、「われらが赦すごとく」とは言えなかったというのです。しかし、少し、時が経つと、だれからともなく、「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と祈り続けたというのです。

 そして竹森満佐一はつづけてこういうのです。「この話を聞いて、共鳴しない人はいないと思う。誰にとっても、人をゆるすことは、難しいことだから、おそらく、一番難しいことではないかと思う」と、続けるのであります。

 少し横道にそれるかもしれませんが、主の祈りのなかで、この「われらの罪を赦すごとく、われらの罪を赦し給え」というところは、いちばん躓くところではないかと思います。ここでは、自分に罪を犯した者を赦す決心をしますから、というのではないのです、もう赦しましたから、というのです。これはどういうことなのだろうか、われわれの罪が赦される条件として、われわれが人の罪を赦したということが条件だったら、とても主の祈りは祈れなくなるということであります。

 ここでの竹森満佐一の説明では、この主の祈りは、弟子達に対して教えた教えだというのです。つまり、もうキリストによって罪ゆるされた者の祈りだ、というのです。だからこの祈りの意味は、「キリストによって罪赦されたことをいっそう深く悟らせてください」という意味なのだといっているのであります。

 その主の祈りは、キリストによって罪赦されたことを知っている人の祈りなのだというのであります。それはわれわれが罪が赦されるという条件なのではないということであります。キリストによって罪赦されたことを知っている人間は、完璧ではないかもしれませんが、また始終というわけにはいかないかもしれませんが、自分が罪赦された者として、人の罪を赦したことが一度や二度、ある筈であります。

 迫害する者のために、祝福を祈りなさいというのです。祈りなさいと勧めるのです。直接、祝福しなさいというのではなく、神様、あなたが祝福してくださるようにと祈りなさい、というのです。少し、逃げるようないいかたになるかもしれませんが、自分が自分を迫害する者を直接祝福するのではなく、「神様、あなたが祝福してくださるように」と祈りなさいというのです。

 自分と自分を迫害する者、自分に意地悪をする者との間に、第三者を設置するということであります。そうでなければ、われわれは自分と相手という関係だけでは、もう復讐の連鎖を産むだけであります。復讐は一倍の復讐から、七倍の復讐に、いや七の七十倍の復讐になるのであります。
 旧約聖書の創世記に、レメクの復讐の歌というのがあって、こういうのです。「レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのためには、七十七倍」と豪語するのであります。

 それで、「目には目を、歯には歯を」という戒めができたのであります。それだけを見れば、なにか復讐を容認する言葉に聞こえますが、そうではなく、あのエスカレートしていく復讐の連鎖を食い止めるための戒め、七倍の復讐をしてはいけない、七十七倍の復讐してはいけない、「目を奪われたら、目だけにとどめよ」という戒めとなったのであります。

しかし、今では、あの「目には目を、歯には歯を」という言葉は、復讐を容認し、勧める言葉として用いられるようになってしまったのであります。われわれがいかに復讐したいかということであります。

 しかしイエスはその律法をさらに深めて「あなたがたが聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはいっておく、悪人に手向かうな、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい」といわれたのであります。

 そしてこういうのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたかだの天の父の子になるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださるからだ」といわれたのであります。自分を迫害する者のうえにも、天の父は太陽を昇らせ、雨を降らしてくださるというのです。

パウロの言葉でいえば、「その兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのだ」ということを、思い出しなさいということであります。

 ここでも、自分と自分を迫害する者の間に第三者を思い起こせというのであります。「天の父は」というのです。自分と相手という二項目の人間関係だけでは、どうしても復讐の連鎖は断ち切れないのであります。その二項目の間に、「天の父なる神」という第三者をいれなさいというのです。

 今日では、人間の知恵として裁判制度が設置されて、第三者機関が置かれたのであります。

 ですから、ここでも、迫害する者を直接祝福しなさいと勧められるのでなはく、迫害する者への祝福を神様に祈り求めなさいと勧められていることは、われわれにとってはありがたいことなのではないかと思います。

 われわれは、嘘でも、というと、おこられるかもしれませんが、本当に嘘でも、迫害する者のために、祈ることはできるからであります。あるお坊さんが「嘘も方便という言葉があるが、その嘘をつくときにも、真実がなければならない」といっておりましたが、そういう嘘、そういう嘘の祈りはできると思うからであります。

 「迫害する者のために祝福を祈りなさい」といったあと、すぐ続けて「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がつづくのであります。これはとても不思議なことだと思います。
 たとえば、「愛には偽りがあってはならない」とか、あるいは「兄弟愛をもって互いに愛し」という言葉のあとに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉がつづくのなら分かるのですが、「迫害する者のために祝福を祈りなさい」という言葉にすぐつづけて、この言葉があるのは、不思議であります。

 もっともそのあとに、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と続きますから、あまり前後関係を気にする必要はないかもしれません。パウロはここで系統だって、キリスト者の倫理について述べようとしているのではなく、あるいは思いつきで、勧めの言葉を書いているかも知れないからであります。

 しかし、「迫害する者のために呪うのではなく、祝福をもって祈りなさい」ということは、本当に難しいことであります。その難しさと連動して、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」ということの難しさを述べようとしているのかもしれません。

 ここのところで、竹森満佐一はこういうのであります。「敵のために祝福を祈るのは敵を軽蔑しながらできることではない。敵の立場に立ち、敵の問題を自分のものにしなければ、敵のために祝福を祈る気持ちにはなることはできない。しかし、相手が敵てなくても、他の人を祝福することは、どんなに難しいことか。なぜなら、われわれは非常に嫉妬深くて、他の人が幸福であることは承知できないかからである」と述べているのであります。

 喜ぶ人と共に喜ぶ、ということは難しいことだというのです。ただ表面的にはできるでしょうが、しかし心底から喜ぶ人と共に喜ぶということは、難しいことであります。しかしそれならば、泣く人と共に泣くことは容易にできるということではないと思います。つまり、喜ぶ人と共に、心底から喜ぶことのできない人が、泣く人と共に泣くなんてことはできるはずはないからであります。

 われわれは泣く人と共に泣くというとき、自分がどういう状況にいる時でしょうか。自分もまた泣くしかないという悲しい状況のときには、人の悲しみに共鳴し、共に泣くなんてことはできないと思うのです。

 泣く人と共に泣く、ということは、こちらが泣く状況にいないときに、泣けるのではないか。こちらが泣くしかないときには、泣いている人ともに泣くなんていうことは到底できないのではないか。そんな余裕はないと思います。

 泣く人と共に泣くことができるためには、こちら側に少し心のゆとり、余裕がなければ、できることではないと思います。どういう余裕かといいますと、それはこちらはお金がたくさんあって、経済的にもあるいは家庭的にも幸福であるという余裕ではないのです。金持ちが貧しい人を憐れむように少しのお金を恵んであげるという余裕ではないのです。

 どういう余裕かといえば、自分も悲しい状況にあったときに、神様から慰められた、あるいは人から愛を受けた、そうしてその悲しみから慰められ、そこから脱却できた、そういう余裕であります。

 こちら側は神様からの愛を受けている、あるいは、人からの愛を受けている、そういう人が、そういう心の余裕がある人が、泣く人と共に心から泣くことができるのではないか。

 主イエスが、われわれ人間の悲しみを心底に共に悲しむことができたのは、主イエスが父なる神の愛を一杯受けているからであります。あの十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。自分がなにをしているのかしらないのです」と、自分を迫害する者のために祈ることができたのは、主イエスに心の余裕があった、自分自身は父なる神の愛を一杯受けている、だから自分を迫害する者に赦しを乞うことがてぎたのであります。

 自分自身が神からの罪の赦しを一杯受けている人がはじめて、人の罪を赦すことができるのであります。自分自身が、神の愛を受け、そして具体的にも人からの愛を受けている人が、泣く人と共に泣けるのではないか。そういう余裕のない人は、人を真に愛せないと思います。

 旧約聖書に、預言者エリヤが当時の王イスラエルの迫害にあって、サレプタの山の中に逃げ込んで、何も食べるものがかなかったときに、ひとりのやもめによって救われたという記事があります。エリヤは食べるものがなくて、ひとりのやもめ女にであった。その女は薪をひろっていた。そこでエリヤは女に「わたしにパンの一切れをください」と頼むのです。すると女は「わたしは焼いたパンなどありません。ただ壺のなかに一握りの小麦粉と、瓶のなにわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物をつくって、それを食べて死のおうとしているのです」と答えて、エリヤの申し出を拒否するのであります。自分達ももう食べるものはないのです、これから死のうとしているのです、とてもあなたにパンをあげる余裕などはありませんと拒否するのです。

 すると預言者エリヤは、「イスラエルの神はあなたに壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなることはないように、必ず恵みをあたえくださるから、今わたしのためにパンを焼いてください」と、頼むのであります。するとやもめ女はそのエリヤの言葉を信じて、その通りにして、それからのち、幾日もエリヤも女の家族も食物に欠けることはなかったというのです。

 女は預言者のエリヤを一度は拒否しているのです。しかし主の恵みの約束を信じて、なけなしの小麦粉でパンを焼いてエリヤに差し出したのであります。
 女は貧しさのままでは、エリヤを助けることはできなかったのです。自分自身が神の恵みを受けられることを信じたから、信じることができたから、人の不幸を助けることができたのであります。

 泣く者と共に泣く、悲しむ者と共に悲しむことができるためには、自分自身が悲しいときに、神からの慰めを受けて、救われたという経験、そういう余裕がないと、できないことではないかと思います。

 パウロのコリントへの信徒へ当てた手紙の中で、「神はあらゆる苦難にさいしてわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難のなかにある人々を慰めることができます」といっているてのであります。

 一六節には、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」という勧めが続きます。「互いに思いを一つにする」ということは、お互いに妥協点を見いだして、譲り合うということではなく、一つのことを思うことだとある人が説明しております。つまり、みんなが同じひとつのこと、一人のイエス・キリストのことを思うことだというのです。そうすると、お互いに譲りあい、赦し会うことができるようになるというのであります。

 そして再び、復讐のことが取り上げられます。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」といいます。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と聖書に書いてあるではないかというのです。
そしてさらに、聖書の旧約聖書の箴言の言葉を引用します。「あなたの敵が飢えていたら、食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というのです。
 「炭火を頭に積み上げる」というのは、この時代のエジプトの習慣から、そうすることによって相手を悔い改めさせることを意味するのだそうです。

炭火を頭に積み上げることによって、相手をいたたまれなくさせる、悔い改めに導くことなのだというのです。

 ここのところで、竹森満佐一はこういうのです。これは「そうやって敵を苦しめることが目的ではない。もしそうならば、愛は復讐の手段にしかならないだろう。これは敵を苦しめることではなく、敵に対して親切にして、敵を悔い改めに導き、敵を救うことになるのだ」と説明しているのであります。

 しかし、それは少しきれい事過ぎる説明なのではないかと思うのです。本当に敵にひどい目に遭わされた者は、そうやすやすと敵を赦すことはできないと思うのです。復讐したい気持ちでどうにもならない時なのです。そのときに、その復讐したい思いを神に委ねよ、というのです。
 ここでは、「神の怒りに任せなさい」といっている、「神の憐れみに委ねなさい」ではないのです、神の怒りに任せよといっているのですから、それは神に復讐してもらいなさいということだと思うのです。そうすることによって辛うじて、自分の相手に対する復讐心をおさえることができるのだと思います。

 われわれはこういうときには、無理をして、敵を救うことなど考えなくても良いと思うのです、ただ神様に復讐してもらう、そういう思いをもってもいいと思うのです。そうでなければ、本当にやりきれないと思います。詩編にはそういう復讐を神様に願う詩編は沢山あるのです。

 竹森満佐一がこのところの説教で最後にこう締めくくっているのです。「最も大きな不信仰は、自分を神の立場におくことだ。自分が正しい時でも、自分を神の立場に置かない人間の生活の仕方が大事なのだ」といっているのです。

 自分が正しい時もです、自分が正しい時に、われわれはともすれば、自分を神の位置においてしまうのです。自分が正しいときにも、自分を神の立場に置かないことであります。