「うしろをふり返るな」 創世記一九章一五ー二九節
  ルカ福音書一七章二八ー三三節

 主なる神はアブラハムの甥ロトが住んでいる町ソドムとゴモラの町が罪に満ちているために滅ぼそうとしました。神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からアブラハムの甥ロトを救い出そうとしました。

 神の使いはロトに告げます。「人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすためにわれわれをここに遣わしたのだ。お前達一族だけはみなここから逃げなさい」と告げます。

 一六節をみますと、「彼はためらっていた」というのです。ロトはこの神からの「逃げなさい」という勧告を受け入れることにためらった。すると、主なる神は「あわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れだし、町の外に置いた。」彼らは外に連れ出した時にこういうのであります。

 「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」口語訳ではここを「逃れて自分の命を救いなさい」と訳されております。リビングバイブルでは、「自分の命を惜しんで、逃れよ」となっております。逃れる時、逃げる時には、命がけで逃げなくてはならない、従って後ろを振り返る余裕などないのだというのであります。

 「うしろを振り返るな」ということで思いつくのは、さいさい引用して申し訳ありませんが、芥川龍之介の「くもの糸」の話であります。生きている時にさんざん悪いことをしたカンダタという人間が死んで地獄に落とされた。ある時お釈迦様が天上から地獄をみていたら、そこにカンダタがいた。彼は生きている時にさんざん悪いことばかりしていたが、ただ一度だけ自分の足下にいた一匹のくもをふみつけていこうとして、可哀想に思って踏みつけるのをやめたことがある。それをお釈迦様は思い出して、彼を地獄から助けだそうとして、くもの糸を地獄に降ろしてあげた。カンダタはこれはしめたと思い、その細い糸を頼りに天に昇っていこうとするわけです。そして途中で、自分がいた地獄の連中はどうしているかと下を見下ろすと、なんと自分のあとにその細いくもの糸を頼りに地獄の連中がみな天に昇ろうとしている。

 それで彼は「これはおれの糸だ。お前達にはこれを上る権利などない。降りろ、降りろ」とわめくのであります。するとその振動でくもの糸はぷっつりと切れてしまって、カンダタもまたもとの地獄に落ちてしまった。
 それを天の上でお釈迦様が悲しそうな顔でみておられたという話であります。

 カンダタはお釈迦様のあわれみにすがってただくもの糸を上ればよかったのです。それを途中で自分がいた地獄の連中はどうしているか、などとうしろを振り返ったために、彼は再び地獄に落ちてしまったというのであります。

 これは彼の功績で地獄から極楽に救われるのではないのです。自分の足下のくもをただ一度哀れに思って踏みつけなかったなどということが自分が救われる功績などになりようはないのです。
 彼の目の前に降ろされたくもの糸は、これはただひたすらお釈迦様の憐れみであります。彼はお釈迦様の憐れみにただすがっ上らなくてはならないのです。下をみる余裕などない筈なのであります。

 今天の使いもロトとその妻に「逃れて自分の命を救いなさい。うしろをふりかえってはならない」というのであります。ただひたすら神の憐れみにすがって逃げなさい、うしろを振り返るな、というのであります。

 ところが二六節をみますと、ロトの妻はうしろをふりかえったので、塩の柱になってしまったというのであります。

 なぜロトの妻はこの時うしろをふりかえったのか。なにも書いていませんからわかりませんが、後にルカによる福音書では、終末のさばきの時にはただひたすら逃げなさいという勧告をして、その例としてこのロトの妻のことをとりあげております。

 こういう文脈のなかでロトの妻のことをとりあげます。「その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りに降りるな、畑にいる者も同じようにあとへもどるな。ロトの妻のことを思いだしなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うもの、保つのである」というのです。

 つまり、うしろを振り返ったロトの妻は「自分の持ち物を家の中からとりにいこうとして引き返した者」の例として取り上げられているのであります。

 うしろを振り返るということは、この場合、自分の持ち物に執着し、自分に執着することなのだというのであります。カンダタの例で言えば、自分の功績のお陰でこの救いのくもの糸が降ろされたのだと自分のことを誇りたくなって、地獄にいる連中を見下そうとするということであります。

 われわれが救われるのは、自分の功績などを頼りにしてはならない、自分というものに執着してはならない、ただただ神のあわれみによりすがる以外にないのだということであります。自分の命を救うために逃げる時には、ただひたすら神のあわれみを信じて逃げることに徹しなくてはならないのであります。

 ただここでルカによる福音書の記事では、こういう言葉をその後に付け加えているのであります。それは「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言った後、すぐ続けて「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」という言葉であります。
 つまりロトの妻は自分の命を救おうとして、うしろを振り返って、そのために命を落として塩の柱になってしまったのだということになるのであります。

 しかし創世記の記事は、天の使いはもともとロトとその一家に対して「自分の命を救うために逃げなさい、うしろを振り返ってはならない」と命じているのであります。自分の命を救うことに懸命になって、うしろなど振り返る余裕などもたないほどに自分の命を救うことにひたすらになって逃げなさいという勧告であります。

 ところがルカによる福音書では、「自分の命を救うおうとする者はそれを失うのだ」と、逆のことを言っているようなのであります。

 この勧告の言葉は全体の文脈からすると、終末のさばきの時にはただひたすら逃げなさいという勧告であります。つまりもう懸命に自分の命を救うために逃げなさいという勧告であります。ですから、自分の命を救おうとしてはならないというようなことではないのです。むしろ自分の命を救いだすことに徹底しなさいということであります。

 そうしますと、この「自分の命を救おうとする者は、それを失い」というのは、屋上にいる者が自分の持ち物に執着してそれを取りに戻ろうとすること、ちょうど火事になっていったんは建物から逃げ出したけれど、家の中に貯金通帳があることを思い出してそれを取りに帰って返って焼け死んでしまうのと同じようにして、そういう意味で、「自分の命を救おうとするもの」という意味であります。

 つまり自分の命を救うためにただひたすらに逃げるということは、自分の持ち物に執着して、自分の持ち物を誇りにして、それを持ち出して、だから自分は救われる権利があるのだなどということではない、われわれが救われるのは、ただただ神のあわれみを頼りにすることなのだ、そういう意味では「自分を捨てる」ことなのだ、神のあわれみによりすがって救われるということは、自分を捨てること、自分で自分の命を救おうなどと思わないことなのだということであります。自分の貯金通帳などを頼りにするなということであります。

 この「自分の命を救おうとする者はそれを失い、それを失う者は、保つのである」という言葉は、「自分の十字架を負うて、自分を捨てて、わたしに従ってきなさい」というイエスの勧告の言葉のあとにでてくる言葉であります。

その前の言葉は「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」そういう言葉があって、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのたに命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言う言葉が続くのであります。

 それはルカによる福音書の一四章にも同じように記されているのであります。

 これらの言葉はキリスト教の神髄を表している言葉であるかもしれません。この言葉によって、多くの殉教者が自分の命を賭して、迫害に耐えて、福音の宣教に身を挺してきたからであります。われわれクリスチャンの生き方を示す言葉なのかもしれません。

 しかし、わたし自身は、この言葉のところにくるとそこをすっと通り抜けたくなる箇所なのです。殉教者を尊敬し、その生き方死に方に感銘はいたしますが、自分自身はとてもそんな生き方はできないと思ってしまうからであります。

 しかし、わたしがこの言葉を避けたくなるもう一つの大きな理由があります。それはこの言葉は、まるでかつての日本国家が戦争中にわれわれ国民を叱咤激励して戦争に駆り立てた同じ言葉ではないかと思ってしまうからであります。
 「欲しがりません、勝つまでは」という標語のもとにどんなに若い命が失われていったか。あの滅私奉公という精神と同じものを感じてしまうのであります。

 「欲しがりません、勝つまでは」、私心を捨てよ、私欲を捨てて、公に、つまり国家に奉仕せよ、という勧めであります。私心を捨てよ、私欲を捨てよ、ということがあまり軽々しく言われるとどんなに危険なことかということであります。

 最近、物議をかもしている国会議員の発言があります。それは安保関連法案に反対する学生のデモに対して、こう発言したということであります。
 デモに参加する彼らは、戦争に行きたくないという極端な利己的な考えだというのです。そして彼はいうのです。「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだ。戦争を起こすな、憲法九条守れという訴えは利己的なものだ、滅私奉公のような徳の高い日本精神を破壊し、社会を荒廃させたのは日本国憲法だ、中でも主犯は基本的人権の尊重だ」といってるということであります。

 「滅私奉公」という精神は、日本精神の徳の高さをあらわしているというのであります。新渡戸稲造は日本の武士道はキリスト教に通じるものがあるといって、外国のクリスチャンに高く評価されたようであります。それは「滅私奉公」ということは武士道の神髄であり、それはイエスが「自分の命を捨てるものは、それを失い、それを失う者はかえってそれを得る」というイエスの勧めの言葉に相通じるものがあるということのようであります。

 確かに、殉教する人は、私利私欲をすてなくてはできないことであります。しかし、この殉教ということは、それはある意味では、かつての特攻精神と似ていないか。あるいは今日のイスラム原理主義にみられる自爆テロに似ていないか。殉教ということが手放しで称賛されるのは、大変危険があるのではないか。

 神がロトに言われた言葉、「うしろを振り返るな」ということは、「命がけで逃れよ、後ろを振り返ってはならない」という命令であります。口語訳では「逃れて自分の命を救いなさい」となっております。リビングバイブルでは「命が惜しかったら、一目散に逃げなさい」と訳されております。

 ここでははっきりと「自分の命を救え」と命ぜられているのであります。決してただ私利私欲を捨てよ、といわれているのではないのであります。
 
 「自分の命を救え」と言われているのであります。そして主イエスが「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」といわれ、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」といわれたときに、そのあとにこう言うのです。「人は全世界を手に入れても自分の命を失ったら、なんの得になろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を払い得ようか」といわれるのです。

 「自分の命」というものがどんなに大事なものか、それは「全世界の富で買うとしても買えないほどのものなのだ」と言われているのです。ですから、ここではただ自分の命を捨てよ、といわれたのではなく、その「自分の命」という本当に尊い「自分の命」を得るために、自分を捨てなさい、わたしのために、自分の十字架を負いなさい」と勧められているのであります。
 
 自分の本当の尊い命を救うためには、私利私欲を捨てよ、私利私欲に走って、うしろを振り返って、火事場で貯金通帳をとりもどそうとするな、そういうようなあさましい私利私欲に走ったら、自分の命を失ってしまうということであります。

われわれはふだんは、私利私欲に明け暮れて、自分の命、自分の生活をまもっているのは確かであります。しかし、ただ私利私欲に走っているだけでは、われわれの命は、われわれの生活はまた大変浅ましい生活になり、貧弱な命になってしまうこともわれわれは知っているのであります。

 いざというときには、私利私欲をすてなくてはならないときがある。

 主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれました。これは、つまり「友のために自分の私利私欲をすてること、これよりも大きな愛はない」ということであります。
 
 しかし、イエスはその前に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われているのです。「互いに愛する」ということが一番大事なことなのであります。しかし、その互いに愛し合うという交わりを支えるためには、あるときには、いざというときには、相手のために「自分の命を捨てる」という覚悟がなければならないのであります。私利私欲を捨てて、自分の命をすてるのであります。そうでなければ、互いに愛し合うという愛は成り立たないのであります。
 主イエスはわれわれが主イエスと父なる神と互いに愛し合うようになるためにご自分の命を十字架ですててくださったのであります。

われわれは「滅私奉公」という怪しげな忌まわしい精神のために、私利私欲を捨てるのではない、「互いに愛し合う」ために私利私欲を捨てなくてはならないのであります。

 「自分の命を救う」ということがどんなに大事な事か、そのために「後ろを振り返らない」で、懸命に逃れることが、どんなに大事なことかということであります。

問題は、大事なことは、その自分の命を救う救い方であります。「命がけで逃れよ」、「逃れて自分の命を救え、後ろを振り返ってはならない」という、「自分の命の救い方であります。それは自分の命を救うために、あわてて預金通帳をとりもどそうとしてうしろをふりかえってはいけないということであります。ただただ、ひたすら、神の憐れみを信じて、自分の命を救うために懸命に逃れよということであります。自分で自分の命を救おうとするなということであります。

 つまりここで「自分の命を救おうとする者とは、それを失う」というのは、自分を捨てきれないで、自分に執着して自分の命を救おうとするものであることがわかります。救われるためには、自分を捨てなくてはならない、それが自分の十字架を負うということなのであります。

 そして自分を捨てるということは、具体的にはイエスに信頼し、ともかくイエス従っていくということ、ロトの場合で言えば、途中でうしろを振り返るなどということをしないで、ただひたすら神の憐れみによりすがるという逃げかたをするとことなのであります。

 われわれが救われるためには、自分を捨てて、ただ神の憐れみにすがる以外にないのです。自分の功績などを頼りにしてはならないし、また逆に自分の過去を反省してばかりしていてもだめなのです。

 悔い改めと後悔とは違うのです。悔い改めというのは、回心という言葉が使われておりますように、自分のことを後ろ向きに反省して後悔することではなく、自分に向かっている視線を回転させて、神に方向転換すること、それが悔い改めということであり、それは後悔とか、反省とは違うのであります。

 日記ばかりつけて、自分の過去をあまり反省してもそこからはなにも生み出さないのです。ある意味では、もう日記をつけることを捨てて、ただ神のあわれみにすがっていくことが大事なのではないか。

 ロトの妻は後ろを振り返ったために、塩の柱になってしまいました。

 しかしロト自身もほめた話ではないのです。神の使いから「うしろを振り返るな、自分の命を救うためにただひたすら逃げよ。低地にとどまってはならない。山に逃れよ、そうしなければ、あなたは滅びる」といわれながら、ロトは「わが主よ、どうかそうさせないでください。しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなる慈しみを施されました。しかしわたしは山までは逃れることは出来ません。災いが身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこに逃れさせてください、それは小さいではありませんか。そこで救ってください」というのであります。

 ロトという人間がいかに不徹底な人間か、安易な人間か、いつも楽な道、楽な道に逃れようとする人間かということがわかるのであります。逃げる時には、もうただひたら逃げなくてはならないのに、それができなかったのであります。