「不信心な者を義とする神を信じる」 ローマ書四章一ー
先週の説教のテキストに旧約聖書のハバクク書をえらびましたけれど、説教のなかではひとつもこの箇所についてふれていませんでした。時間がなかったということもあって、この箇所は今日の説教の内容と関連するので、先週はこれにふれるのは省きました。
このハバクク書の二章の箇所は、ハバククという預言者が神からこの言葉をみんなに見えるように板に書いてかかげよ、といわれるのです。それは「神に従う人は信仰によって生きる」という言葉です。これは口語訳では、「義人はその信仰によって生きる」となっていて、こちらのほうがはっきりしているのですが、義人は、つまり正しい人は、信仰によって生きるというのです。これは、信仰によって義とされるというパウロの主張と一致するわけで、パウロも一章の一七節ではこのハバクク書の言葉を引用しているのであります。
行いによって救われるのではない、何か善いことをしたから救われるのではない、信仰によって救われるのだといわれて、われわれは確かにほっとするかもしれません。われわれは行いにあまり自信がないからであります。しかし信仰によって救われるのだといわれて、われわれは自分の信仰に自信をもてるでしょうか。われわれは自分の行いに自信がもてない、しかし信仰のほうがもっと自信がもてないのではないでしょか。
信仰というのは、何なのでしょうか。
パウロはわれわれが救われるのは、律法を守ることによって救われるのではなく、神の恵みを信じる信仰によって救われるのだといって来たのであります。
それは律法をもっているユダヤ人にとっては、大変衝撃的でした。そのユダヤ人からの反論を見越して、パウロは「それでは肉による私達の先祖、つまり自分たちのユダヤ人の先祖、アブラハムの場合についてはどうなのか」と、いうのです。
ユダヤ人たちは、アブラハムはわざによって救われたのではないか、と言いたいのです。そのときにユダヤ人が持ち出すのは、創世記にある記事、アブラハムは神に命じられて我が子イサクを神に捧げた、それによってアブラハムは義と認められたのだというのです。これは信仰だけでは駄目で、行いも大事だと主張するヤコブの手紙のなかでも、この箇所が引用されて、「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではないか」といっているのであります。
しかし、パウロはそうではないと反論するのです。同じ創世記の言葉を引用するのです。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉です。
この言葉はどういう背景のなかでの言葉かといいますと、アブラハムは神からお前の跡継ぎの子供が与えられると約束を受けていたのですが、百歳になっても、子供が与えられなかった。 創世記の記事は神話的な要素もありますから、百才という言葉をそのまま受け取る必要はありませんが、ともかく子供の出産という年齢では人間的可能性はもうゼロになった。それでアブラハムと妻サラはもう神の約束を信じられなくなって、妻サラを別の男と関係させて子供を産ませて、その子を跡継ぎにしようとする、そういう人間的知恵を働かすわけであります。
その時神の言葉がアブラハムに来た。「その子を養子にしてはいけない。必ずおまえ達に子供が生まれるから、その子を跡継ぎにしなさい」というのです。
そして神は彼を外に連れ出して、「天を仰いで星を数えられるか」というのです。空にはもう無数の星がでていた。満天の星だったのであります。とうてい人間の目で数えきれる数ではなかったのです。そしてこういうのです。「おまえの子孫はあのような星の数になる」と言われた。まだ一人も子が与えられていないのに、であります。
アブラハムにはまだ一人も自分の子供がないときであります。アブラハムにとっては、ひとりでもいいのです。ひとりでもいいから自分の実子がほしいのです。それなのに神はあの満天の星の数ほどに、お前には子孫が与えられると約束するのであります。信じられないでいるアブラハムに対して、神はもっと信じられないことをアブラハムに突きつけて、これを信じなさいというのです。これにアブラハムは圧倒されてしまうのです。
アブラハムは神の約束を信じられないでいるのであります。神の恵みを信じられないでいるのであります。人間的可能性から言ったら、もうだめだと思い、人間的知性から考えて神の恵みを小さく小さく見限ろうとしていたのであります。
その時に神から叱られて、満天に無数にきらめいている星を数えてみよ、といわれ、そしてその数ほどに子孫が与えられるといわれるのです。どうしておまえは神の恵みを小さく見積もろうとしているのか、と叱りつけられるのであります。
この時アブラハムは夜空一杯に拡がる星の数を見て、神の恵みの大きさに圧倒されてしまったのです。それでこの時「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と聖書は記しているのであります。
わたしはこの記事がとても好きで、満天に輝く星をみて、神の恵みに圧倒されたいと思って、何回も星が見えそうなところに旅行するのですが、天候に恵まれなくて、この数年そういう機会に恵まれないのです。
アブラハムは神の圧倒的な恵みの深さにうたれた、これが彼の信仰だったのであります。これが彼が義と認められた経緯であります。
「もし彼がその行いによって義とされたのであれば、彼は誇ってもよいが、神の前ではできない。なぜなら、聖書はなんと書いているか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』とある」というのであります。
その後、パウロはさらにこういいます。「いったい、働く人に対する報酬は、恵みではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、不信心な者を義とされるかたを信じる人は、その働きがなくても、その信仰が義と認められる」というのです。
今日肝に銘じて学んでいただきたい聖書の言葉はこの「不信心な者を義とする神」というところです。つまり、ここでは「信じる者、信仰深い者を義とする神」ではなく、驚くべきことに、「不信心な者を義とする神」といっているのであります。
今まで、パウロは、われわれが義とされるのは、律法のわざを守ること、つまりわれわれの良い行いによって、ではなく、信仰によって救われるのだといって来たのであります。われわれはその時、その信仰という言葉を、信仰深い敬虔深さとか、信仰が厚いという言葉で言い現される信仰を想像しているのではないか。
そのために、われわれが救われるのは、行いによるのではなく、信仰によるのだといわれて、すぐ安心できないところが出てくるのではないか。確かに自分の行いなど、とても不完全で、行いによって救われるとは到底思えない、それならば、信仰はどうか、信仰もまたとてもだめだ、いや信仰のほうがもっとだめだということにならないでしょうか。
しかしここでは、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」とはっきりと明言されているのであります。
いってみれば、神は信仰者を義とするのではなく、不信仰者を義とするのだいうのです。それがいいすぎであるならば、信仰をもっている人、立派なゆるぎのない信仰をもっている人を義とするのではなく、なかなか神の恵みを信じられないでいる、そういう信じられない人を義としてくださるのだというのです。
そういう「不信心な者を義としてくださるかたを『信じる』人は」、と、ここではじめて「信じる」という言葉が入ってくるのです。
ですから、最後は「信じる」というわれわれの決断、意志、信仰が問題とされるわけですが、しかし出発点はわれわれの不信仰から始まるのであります。
アブラハムがまさにそうだったのです。彼は決してゆるぎない信仰などもっていたわけではないのです。神の約束をなかなか信じられないで、疑って疑って、それどころか、奥さんのサラなどはその神の約束をあざ笑って一笑に付したのであります。そういう不信仰者だったのです。
そのアブラハムは、満天の星を見せられて神の恵みの大きさに圧倒されて、主を信じたのであります。神はそのアブラハムの信仰を義と認めたのであります。
福音書には、こういう記事があります。ある父親が、重い病気をもった自分の息子をイエスに治してもらいたくて、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とイエスに訴えますと、イエスはその父親の信仰を叱って、「できればというのか、信じる者には、なんでもできる」と言われた、それに対して父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」といったのです。ここは口語訳では、「信じます。不信仰なわたしをお助けください」となっております。
信じるということは、「信仰のないわたし」「不信仰なわたし」を捨てて、「信じます」ということなのであります。
ですから、われわれが「信仰によって義とされるんだ」ということを考える時、いつもこの信仰は「不信心な者を義とするかたを信じる」信仰なのだと考えなくてはならないと思います。それが神の恵みを信じる信仰なのであります。
これ以外の信仰はみな「立派な信仰」とか、「厚い信仰」というような、その信仰になにか人間的な形容詞がついてしまうような厚化粧の信仰になってしまうのではないかと思います。
われわれのなかにはいつでも不信仰がくすぶっているのです。それはもう仕方のないことなのです。そういう自分のなかに絶えずくすぶっている不信仰を見いだしても、絶望しないことです。いや、絶望したら、すぐその不信仰を捨てればいい、捨てて「信じます、不信仰なわたしをお助けください」と、信じることに自分を賭けてしまえばいいのです。
パウロはその後、追い打ちをかけるように、この信仰の内容について、ダビデが書いたと言われている詩篇の言葉を持ち出します。「同じように、ダビデも、行いによらずに、神から義と認められたひとの幸いを、次のようにたたえている。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、さいわいである。主から罪があると見なされないひとは、さいわいである。』」
イスラエルの王ダビデは自分の部下であるウリヤを卑劣な手段で殺してしまい、その奥さんを奪ってしまったという罪を犯してしまうのであります。ダビデはその罪を神様から糾弾されて、彼は自分の罪に気づき、その自分の罪を告白した。その時に神からその罪が赦された。その事を歌った詩篇が引用されているのであります。
パウロは「行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのである」という例証として、この詩篇を取り上げるのであります。考えて見れば、これも驚くべきことであります。
といいますのは、このダビデの罪が赦されるということと、アブラハムが義とされる、ということとは、一見全く事柄が違うことのように思えるからであります。
アブラハムはただ「おまえたちに子供が与えられる」という神の約束を信じられなくて、それを疑っただけであります。
それに対して、ダビデは人の奥さんを奪い、あげくにその夫を殺して、知らん顔していたという大変な罪を犯しているのであります。
それをパウロは平気で同じこととして、「同じようにダビデも」という言葉で、つなぎ、「行いがなくても神に義と認められる人の幸福について次のように述べている」というのです。
あのアブラハムのいわば小さな不信仰と、このダビデの大きな罪とが「同じように」という言葉で平然と同列に並べられているのであります。
しかもここには、ダビデの信仰のことなんかひとつも言及されていないのです。神に赦された人は、幸いだ、と、ただ神の大きな赦しのことしか書かれていないのです。
この事は「信仰によって義とされる」というときの「信仰」の内容が、われわれが想像する清らかな敬虔深い信仰なんかではないことははっきりしてくると思います。
それは間違ってもわれわれのわざとか行いとか、われわれの心のありかたなどと、誤解されるようなものではなく、それは「われわれ不信仰な者を義とする神」を信じるという信仰であり、「われわれの罪を覆ってくださる神、われわれの不義をゆるしてくださる神、われわれの罪を認めないといって赦してくださる神」、その神を信じる信仰、自分の信仰を信じる信仰ではなくて、神を信じる信仰なのだということなのであります。
われわれは本当に愚かなことに、しばしば神を信じるのではなく、自分の信仰を信じようとしているのではないか。
そして、ここで言われている、罪の赦しについての表現も考えさせられます。ここでは罪の赦しついての表現がある意味では、ずいぶん消極的な表現で言われているのではないか。
つまり、罪を取り除くとか、罪を清める、ということで、罪の赦しが語られているのではなく、「罪がおおわれる」とか、「罪を認めない」ということで表現されているのであります。
「おおわれる」ということは、一枚はがせば、その下には厳然として罪がそこに存在しているということであります。「認めない」という言い方もずいぶん消極的な言い方であります。
もちろん、聖書では、罪の赦しについて、もっと積極的な表現もされているところはあります。罪を取り除くとか、罪を清めるとか表現されているところもあります。しかしここでは、「罪が被われた」といわれているのです。
われわれの罪の現実からいうと、どうでしょうか。救われたわれわれは、もう完全に罪が取り除かれたのだ、そしてもう清らかになったのだと言われるよりも、わたしの罪はただ覆われているだけなのだ、一枚はがせば罪はたちまち露呈されてしまうのだという表現の方が、罪が赦されたという、われわれの現実にあっているのではないか。
そういう現実のなかで、あの父親のように「信じます、信仰のないわたし、不信仰なわたしをお助けください」と、叫ぶように、訴えるのがわれわれの信仰なのではないか。
このローマの信徒への手紙の四章の一六節では、ここは口語訳で読みますと「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって」となっていて、「すべては信仰による」といったあと、それをすぐ言い換えて、「それは恵みによる」というのであります。
すべては、神の恵みにかかっているのです。不信心な者を義としてくださる神の恵みを信じたいと思うのです。
カトリックのほうで聖人として親しまれているテレジアという人がおりますが、その人がこんなことを言っているそうです。
「わたしは困難に出会ったときには、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐりぬけようと思います」といっているそうです。
「もっと小さくなって」というのです。これが信仰の厚い聖人といわれているひとなのであります。