「ただ神の恵みによって救われる」

  ガラテヤの信徒への手紙一章一五節

 今日から「ガラテヤの信徒への手紙」を学んでいきたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙、これは少しまだるっこしいので、これからはガラテヤ書といってきたいと思いますが、これは内容は、ローマの信徒への手紙、つまりロマ書と同じ内容で、われわれが救われるのはわれわれの人間のわざ、われわれ人間の善行の積み重ねというような人間のわざ、あるいは、ユダヤ人たちが主張していた律法を守るというわざ、そうした人間の行い、あるいは、人間の努力によって救われるのではなく、ただただ、一方的に上から与えられる神の恵みを信じる信仰ににって救われるのだということを述べている手紙であります。

 わたしが以前牧会しておりました松原教会では、赴任して、最初に講解説教として、選んだテキストがロマ書だったと思います。そして松原教会を去るに当たって、最後に取り上げたのは、この信仰義認、われわれが救われるのは人間のわざによるのでなく、神の恵みを信じる信仰によるということを中心テーマにしているこのガラテヤ書をとりあげたのであります。それでこのベテル教会でも、わたしが説教を許される間は、これからガラテヤの信徒の手紙を読んで、われわれの救いについて考えていきたいと思います。

 わたしが牧師になって何年くらい経ったか忘れましたが、「教会婦人」という新聞から「あなたの説教のテーマは何か」という趣旨で書いてくれという依頼を受けて、書いたのですが、その時にこういうことを書きました。

 わたしが牧師になって、説教する説教者として一番心がけたことは、ひとつはキリスト教を御利益主義から守りたいということ、ふたつはキリスト教を神秘主義から守りたいということ、そして三つめはキリスト教の律法主義から守りたいということだ、はじめはそれほど意識したわけではないけれど、自然に説教を作るときに、この三つのことを念頭にしながら、聖書の解釈をし、説教にあたってきたことに気付いたということを書いたことを思いだします。
 そして、前のふたつの問題、キリスト教を御利益主義から守りたいということ、キリスト教を神秘主義から守りたいということは、それほど全力をあげて取り組むべき問題ではないことに気づいた。ただ最後のキリスト教の律法主義化の問題、これだけはわたしが全力をあげて絶えず取り組んでいる問題だという趣旨のことを書いたのであります。

 キリスト教を御利益主義から守りたいというのは、当時創価学会とかその他新興宗教が盛んな時でありましたが、自分は牧師になるに当たって、自分はこれからその人々と同じような宗教家になるわけだけど、そのような宗教家にみられることはとても嫌だったのです。自分はそんな新興宗教と同じ伝道者ではないという自負があったのです。キリスト教はそんなものとは違う、キリスト教は御利益を求める新興宗教とは違うのだという気負いというもがあったのです。

しかし聖書をみれば、果たしてそんなことがいえるのか、ということがわたしが牧師としてぶつかった問題です。イエスも病人をいやし、悪霊をおいだすために奇跡を起こしているではないか、それはみな人々の御利益に応えているではないか。イエスはさすがにお金持ちになりたいという御利益には応えたと言う記事はありませんが、しかしイエスは人間の、民衆のさまざまな願い、それは決して哲学的ないわば高尚な要求などではなく、民衆のさしせまっている様々な生活の困難に対して応えているということに気付いたのです。それは新興宗教と同じではないかということに気付いたのです。
 
民衆がというよりも、自分自身の問題としても、自分が病気になったら、あるいは自分の家族のものが病気になったら、必死になって神様に病気を治してくださいと祈るではないか、自分自身が神様に御利益を求めているではないかということなのです。

 それならば、キリスト教と御利益宗教と違うなどといえないではないかときづいたのです。それでは同じなのか。この問題については、わたしはこういう解決しました。
 
御利益宗教の場合には、自分の願いをあくまで求め続け、それがかなえられない時には、自分の願いを満たしてくれる別の神様なり、別の宗教を求める、つまり相手を変えていく、しかしキリスト教の場合には、あくまでただひとりのかたにその願いを求め続ける、そしてただ一人の同じ神様に求め続け、祈り続けるこによって、いつのまにか、自分の願いが、自分の祈りが自分の期待したとおりに満たされなくても、その神様を信頼していこうという信仰に変えられていく、つまり、キリスト教の場合には、われわれもまた新興宗教の人たちのように、神様に対する期待をもって信仰を始めるけれど、しかしそれはいつのまにか、神に対する信頼に変えられていく、期待というのは、あくまで、自分中心ですけれど、信頼というのは、相手を中心にするということです、そのように期待から信頼に変えられていく、これがキリスト教と新興宗教の違いなのではないかということに気付いたのです。そうして、わたしは、キリスト教は御利益宗教ではないとを、ことさら説教で強調する必要がないと思うようになったのです。

 そして神秘主義の問題ですが、これも宗教にはつきもので、なにか超現象というものをかならず前面におしだして、自分がいかに優れた宗教家であるかという事を強調する。わたしは牧師になるにあたって、そうした宗教家にはなりたくはないと思ったのです。自分自身にそうした神秘的体験をしたわけではないということもありますが、それ以上にそうした神秘的体験を強調する人のひとりよがり、傲慢さ、いんちきさというものにへきへきしていたからです。

 それでは聖書にはそうした神秘的というようなことは皆無かといえば、決してそんなことはないし、イエスの山の上で神々しく輝いたという記事はつくりものなのか、第一それでは復活というのは嘘なのか、聖書からそうした神秘的体験というものを全部排除してしまったり、非神話化してしまったら、大変うすっぺらな、単なる道徳の書物になってしまうと思います。そのことに気付いてから、わたしは説教において、キリスト教の神秘主義化というものにそれほど勢力を注いで闘うテーマでもないと思い始めたのです。
 ただ自分自身が神秘主義的になることを警戒していればいい、牧師がなにか神秘的存在であるかのようにふるまうのを警戒すればいいと思うようになったのです。牧師も普通の人間であることを示していけばいいと思ったのです。
 
そして最後の三つ目、キリスト教の律法主義化、これだけは、わたしが説教者として全力をあげて、取り組まなくてはならないテーマだと思って、今日までそれは続いているわけであります。

 律法主義というと、大変難しく聞こえますが、簡単にいえば、律法を守ることによって、救われるのだという生き方であります。つまり、自分が救われるのは、神の恵みとか神のあわれみとか、神の愛などというものではなく、自分が律法を完璧にまもることによって救いを獲得する権利と資格を得るのだという生き方なのです。神の恵みを信じて救われるという信仰によって救われるという、これを信仰義認といいますが、つまり、信仰によって義とされる、信仰によって神から正しいと認められるという、信仰義認ではなく、自分が律法を守ることによって、自分の行いによって、救いを獲得する、神に義に義と認められるという行為義認の生き方であります。これについては、わたしは牧師になってから、今日まで全力をあげて闘ってきた問題であります。

 これはどういうことかといいますと、このことで一番いい例は、主イエスが語られた例え、ルカによる福音書一八章九節からのところを考えてみたらわかりやすいと思います。
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスはこういわれたというのです。ふたりの人が祈るために神殿に上った。ひとりはファリサイ派の人で、もうひとりは徴税人だった。ファリサイ派の人は立って祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通をする者ではなく、また、このような徴税人でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈った。
 一方の徴税人は遠く立って、目を天に向けようとしないで、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったというのです。
 主イエスはこの話しをして、「神に義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」といわれたのであります。

 このファリサイ派の人々の生き方、救いの求めかたが律法主義ということなのであります。それは律法を守れば守るほど、自分はこんなに正しいことをしている、こんに立派な行いをしている、だから神は自分を救ってくれるのだ、神は自分をよしとし、義として救ってくださるのだと、自分を誇りだすということなのです。それはあげくの果てには、神は自分を救ってくれる義務があるのだ、自分は救われる権利と資格があるのだといいだすわけです。
 そのようになったならば、これはもう神に従う生き方ではなく、ただ自分を誇る生き方であります。それはもう自分が主人となって生きる生き方、神を自分を救う奴隷とするというような生き方なのです。

 もし自分の正しい行為で、自分の善行で救いを獲得しようとし始めるならば、必ず他人を見下げて、自分の行いの立派さを主張することになるわけです。そのようにして、自分の正しさを際だたせようとすることになるわけです。あのファリサイ派の人は、「この徴税人のような者でないことを感謝します」と、自分と徴税人と比較して、自分の正しさを主張することになるのであります。
 
 律法を守ることによって救いを獲得しようとする生き方をすれば、必ずそういう生き方になっていくのです。それは神がわれわれに与えようとしている救いの道からどんなに離れようとしているかということであります。

 この手紙を書いたパウロという人は、クリスチャンになる前は熱心なファリサイ派の人として、自分は律法を完璧に守っている、律法を守るという点では落ち度がなかったいって、自分が救われていることに確信をもっていたのであります。そして自分を誇っていた。そうしては、律法に頼る生き方を否定するクリスチャンを迫害していたのです。
 
 そのパウロがキリストに出会って、クリスチャンになったときに、自分は律法を守れるば守るほど、自分は律法を守っているという誇りを、神と人に対して主張していて、それは律法が一番われわれに求めている謙遜さというものからどんどん離れていることに気がつくのです。そうして自分のしていることがわからなくなる。自分は善をしたいのに、善をしたいと思えば思うほど、自分を誇るという悪をおこなおうとしているということに気がついて、自分はなんというみじめな人間なのだろう、だれがこの自分を救ってくれるのかと嘆くのであります。

 われわれ日本人にとって、律法というとなにかなじみがないかもしれませんが、要するに善行を積んで救いを獲得しようとする生き方であります。行いによって救いを獲得する、つまりそれは神の憐れみとか、神の恵みに頼るということではなく、自分の力で救いを獲得するという生き方であります。そこには、われわれが真面目になればなるほど、われわれの自我が執拗につきまとって離れないということなのであります。そしてそれは、主イエスが批判したように、ファリサイ派の人々の偽善性からまぬがれることはできないのです。われわれが自分の行いによって救いを獲得しようとするときに、われわれは必ず偽善的になるということであります。

 それでは律法とは何かということであります。律法というのは、もともと神様がわれわれの救いのために与えたものなのです。その律法とは何かということであります。神はわれわれになぜ律法を与えたのかということであります。
 律法というのは、われわれがその律法を満たす事によって救いを獲得するという、律法を完璧に守ったならば、天国に入って救われるというような、いわば、入学試験のようなものではないのです。

 律法はわれわれが神に従うには、具体的にはどのようなことかを教えるために神が与えた指針のようなものであります。
 入学試験というものは、偏差値が問題になり、必ず他人をけ落として自分が救いに奪い取るということになります。

 律法はそういうものではないのです。神に従っていく具体的な指針であります。ですから、われわれは律法を守れたときには、ちょうど幼子が自分はお母さんのいいつけ守れましたといって、喜んでお母さんのところに報告しにいく、また律法をまもれなかったときには、律法をどうしてもまもれませんでした、自分は自分の弱さから嘘をついてしまいました、偽証をしてしまいました、自分の欲望にまけてしまいましたといって、神に赦しを乞いにいかなくてはならないのです。
律法を守ることに失敗したら、その時こそますます神に祈り、神に赦しを乞い、神からの助けを求めにいかなくてはならないのです。それが神がわれわれに与えた律法というものであります。

 ところが、その律法がひとたび人間の手に渡ったときに、人間はそれを救いを獲得するための入学試験にしてしまったのです。そのために、律法を守れない自分に気づいたときに、われわれは神に赦しを乞いに神のもとにいく、神から力を与えられたいと思って神のもとにいくのではなく、全く逆に神から遠ざかっていことになるのであります。

 残念ながら、その律法主義の痕跡が旧約聖書には残っているのです。そしてそれがファリサイ派の人々の生き方になったのであります。

 そしてそれがただユダヤ教にあるだけではなく、ただキリストの十字架の贖いによって救われる、ただ神の一方的な恵みによって救われるという福音を信じるキリスト教会にも忍び込んでいるのです。

わたしが最初に触れたキリスト教は今から思うとまさにそういう律法主義的なキリスト教だったのではないかと思います。わたしは中学校が青山学院というキリスト教主義の学校で、そのときにはじめて聖書にふれたわけです。学校教育というのは、生徒を指導する、訓練しなくてはなりませんから、どうしても道徳教育としてのキリスト教という面がつよくならざるを得ないのです。清廉潔白、禁欲主義的なキリスト教教育とならざらを得ないところがあります。

 そういうなかでキリスト教にはじめてふれましたから、たとえば、マタイの五章から始まる山の上の教え、たとえば、「女を見て情欲を抱く者はすでに姦淫を犯したのだ、右の目が罪を犯したら切って捨てよ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがいい」というような聖書の言葉にであって、震えたものであります。そうしては、「心の清い者は神を見る」というような聖書の言葉に感動して、一生懸命に自分を清くしようとした。しかし清くなれる筈はないのです。

 わたしが出会ったキリスト教は、清くなれなければ、神を見ることはできない、従って救われない、そういうキリスト教だったのです。わたしはキリスト教に出会ったお陰で、本当に暗い青春時代を送ったのです。毎週かかさず礼拝にでましたが、礼拝に出て、牧師の説教を聞く度に、暗い気持ちで、絶望的な気持にさせられて教会を出てきたのです。それが実に六年以上続きました。洗礼を受けることなんか到底できなかったのです。

 そうい時に、わたしはある牧師に出会って、その牧師から、「あなたを見ているとかわいそうで仕方ない」といわれたのです。「あなたのキリスト教は律法主義だ」といわれたのです。徹底的にわたしのキリスト教理解は批判され、われわれはただ神の恵みによって救われるのだと教えられたのです。
 
 それでわたしはその牧師の指導を受けるようになって、あまりわからないまま、洗礼は受けたのです。しかし六年以上わたしの全身に染みついた律法主義的なキリスト教から脱却するなんてことはそう簡単ではないのです。頭ではわかっているのです。自分のわざとか行いによってなんか到底救われないということはわかっている、ただただキリストの十字架の一方的な贖いの恵みによって救われるのだということは頭では理解しているのです。しかし心のかたすみでは、本当にそうだろうか、そんなにうまい話しはあるかと疑っていたのです。ただただ神の恵みによって救われるということを体ごと信じはいなかったのです。疑っていたのです。教会も変えて、その牧師の教会に転会もしたのです。

 わたしには、どうしてもただ神の恵みによって救われるということは信じることができなかったのです。そのようにして、とうとう行き詰まってしまって、その牧師からもどうしてあなたはわからないのか、といわれてしまい、こんなにも熱心に信仰を求めても自分には神の愛というものを実感できないのは、自分にはキリスト教とは縁がなかったのだと思って、その牧師の叱責を契機にして、もうキリスト教をやめようといっさいキリスト教を放棄してしまったのです。

 それまで毎週かかさず教会に通っていたのをやめてしまいました。聖書もよむこも祈ることもやめてしまいました。その時、わたし自分はこんなにも自由なのだと思います。その時くらい自由というものを味わったことはありませんでした。
あんなにうれしかったことはないかもしれません。

 しかしそれはふた月ともちませんでした。それまでまがりなりも自分を支えていたキリスト教を捨ててしまったので、わたしはなんの支えもなく自分の弱さのなかに立たされたのです。確かに律法主義からは自由にはなりましたが、自分の弱さからは、つまり自分自身からひとつも自由にはなっていないことに気がついたわけです。

 そうしたなかである晩、眠れないままに夜寝床に入っていたときに、突然聖書の言葉が自分に迫ってきたのです。それはパウロの言葉ですが、コリントの信徒の第二の手紙の十二章の言葉、「わたしの恵みはお前に十二分に注がれている。わたしの力はお前の弱いところにあらわれる」という言葉です。それはその牧師が礼拝で何回となく語っていた聖書の箇所でした。パウロが重い醜い病気にかかったときに、必死になってこの病をいやしてくださいと主に祈ったときに、主から与えられた言葉なのです。つまり、「お前の病という弱さのなかにわたしの恵みし十分そそがれている、神の力はお前の弱さにおいてこそあらわれる」とい言葉です。
 その言葉はその時、わたしにとって、このままの自分でいいのだ、このままの自分で赦されているのだ、なにも自分の力で自分を清くする必要はないのだ、この汚れたままの自分が神に赦され、肯定され、受け入れられているのだという言葉として迫ってきたのです。その時にはじめ神の恵みによって救われるということがわかったのです。

 しかし、わたしは一方では、そのように感激している自分を醒めた思いで自分をみつめてもいたのです。なんで一度捨てたキリスト教にまたおめおめと帰ろうとしているのか、この感激は一夜あけたらきっと醒めてしまうだろうという思いでした。そして朝起きたら、見事にこの感激は醒めてしまっていました。前にまして暗い気持ちにかえっていったのです。
 そしてその日の夜、眠れないまま床に入っていたときに、再びその聖書の言葉が自分に迫ってきたのです。そして今度は、これはきっと翌朝になってもこの思いは醒めないだろうなという強い確信がありました。
 
 わたしはわたしのほうからキリスト教を捨ててしまい、いわば、神を見捨てたときに、神のほうから救いの手をさしのべてくださった、それはもう自分の業によって救われるという救われかたはどこにもなかったのです。ただ神の憐れみによって救われたわけです。

 わたしはそのようにして律法主義から解放されたのです。こんな個人的な私的な証のようなことは本当は恥ずかしいのですが、しかしどうしても律法主義からの解放ということを語る時に、語っておきたっかたのです。

 そういう自分の苦い苦しい経験があったものですから、わたしは牧師なって毎週の説教において、なんとかして律法主義的なキリスト教と闘うということをしてきたのであります。

 今日はほとんどガラテヤの信徒の手紙の内容に触れることはできませんでしたが、パウロが自分が使徒であるということをガラテヤの教会に証明しようとするときに、なによりも、自分はただ神の恵みによって自分は使徒となったのだ、それは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたパウロ」というときに、なによりも、自分はただ神の恵みによって救われたのだということを証しようとしたのであります。