「十字架につけられたキリスト」 ガラテヤ書三章一ー六節

 三章の一節からは「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人たち」という言葉で始まっております。「物分かりの悪い」というのは、訳としては穏やかな訳で、原文をみたら「バカなガラテヤ人たちよ」であります。しかも、一章の十一節では「兄弟たち、あなたがたにはっきりいいます」と、「兄弟たち」と呼びかけておりますが、ここではもう「兄弟」ではなく、「ガラテヤ人たち」であります。

 パウロがいかに、いわば、頭に来ているかがわかります。なぜこんなにパウロは怒り、あきれているかといえば、その前の句にありますように「キリストの死は無意味になってしまう」ということを憂えてであります。そのことをパウロはもう一度いうのです。
 「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」というのです。「はっりと示された」というのは、公に示されたという字で、いわプラカードにかがげられたように示されたということだそうです。

 ここで大事なのは、単に十字架という事実ではなく、「イエス・キリストが十字架につけられた姿で」ということで、口語訳では、「十字架につけられたイエス・キリストがあなたがの目の前に描きだされたのに」となっております。つまり、十字架という事実とイエス・キリストという生身の人間が切り離されてはいないということなのです、切り離してはいけないということなのです。

 鶴見俊輔の本を読んでおりましたら、昔われわれがよく読みましたユーモア作家、佐々木邦という人をとりあげている文章のなかで、その佐々木邦の小説にこういうところが出てくるというのです。
 夫が会社から帰宅する場面なのですが、細君が、今の人には細君という言葉はもうわからないかもしれませんが、奥さんのことです、細君が出迎えて、「きょうはボーナスがでたでしょう」という。すると夫が「なんだ僕を待っていてくれたのではなかったのか、ボーナスを待っていたのか」というと、細君は「ボーナスを持ってくるあなたを待っていたのよ」といったという一節があるというのです。

ここには、目的と手段というものが切り離されていないという意味で、鶴見俊輔は自分が考えているプラグマティズムという哲学がここにあるというのです。
つまり、ボーナスという目的と、それをもってくる夫という手段が切り離されて考えられていないという点が大事だというのです。

 プラグマティズムというのは、日本語では実用主義とか実用哲学とか訳されておりますが、要するに生活に密着して考える哲学ということです。カントとかヘーゲルとかいわば観念哲学、いわば頭だけで考えようとする観念哲学に比べると、プラグラ哲学というのは、実用的で、日本ではあまり重んじられない哲学なのです。ある意味では軽蔑されている哲学なのです。

 鶴見俊輔がいうには、自分の考えているプラグマティズムという哲学は、生活に密着した哲学なのであって、ここで大事なのは、この目的と手段が切り離されていないということなのだというのです。

 わたしはこの文章を読んだときに、「十字架につけられたイエス・キリスト」、というパウロの表現について考えさせられたのであります。つまり十字架という事実と、イエス・キリストという生身の姿とかしっかりと結びついていわれているということで、これは十字架の救いということを考える場合に、大変大事なことだと思ったのです。

 パウロがここでガラテヤ人の人たちに訴えているのもそのことなのです。十字架の救いというのは、十字架につけられたあの生身のイエス・キリストと切り離して考えてはいけない、われわれが十字架の恵みによって救われるということは、そこには十字架で傷ついて、血を流している生身のキリストが存在しておられる、そのかたのことをしっかりと自分の脳裏に、自分の目に刻みつけなくてはいけない、「目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されている」というのです。
 
 大事なのは、夫がボーナスをもってきてくれる、そのボーナスではない、ボーナスをもってきてくれるあなたを待っていたのよ、ということなのです。ボーナスという目的と、それをもってきてくれる夫、それは手段かもしれません、その目的と手段が切り離されてはならないということなのです。

 十字架はわれわれに救いをもたらしてくれる目的なのです。そしてその目的を果たすためにキリストは十字架について下さったということでは、キリストは手段なのです。しかし、もしこの目的と手段を切り離してしまったら、イエス・キリストは救いをもたらす手段という単なる道具になってしまうということなのです。 
 十字架の救いというものを、そのように、受け取るならば、われわれの救いとは、大変安易な、いや大変御利益的な救いになってしまうということなのです。

 今日は礼拝のあとに讃美歌の一三六番を歌いますが、この讃美歌はその歌詞は「血潮したたる主のみかしら、とげにさされし、主のみかしら」となっていて、あまり日本人にはなじみにくい歌詞だといわれております。しかしこれはバッハのマタイ受難曲の主要コラールで何度も何度も、歌われますから、讃美歌としても有名なのですが、確かにいきなり「血潮したたる主のみかしら」というのは、なんとも生々しすぎる歌詞であります。
 われわれ農耕民族にはあまりにもグロテスクな歌詞だといえるかもしれません。

 しかし、今パウロが言おうとしていることは、その血潮したたるキリスト、十字架につけられたイエス・キリストを忘れていいのかということなのです。

 教会には、礼拝堂の正面に十字架像が掲げられている教会が多いと思います。しかしプロテスタントの教会では、その十字架像はたいてい美術的に造形化されて単なるシンボルになっております。つまりそこには、キリストの像はない場合が多いのではないかと思います。それに比べてカトリックの礼拝堂には、十字架につけられたキリストの姿まで描かれているのが多いのではないか、ステンドグラスにせよ、彫刻にせよ、キリストの像がはっきりと示されているのではないかと思います。
 しかしプロテスタント教会では、たいていの場合、もう十字架をシンボリックにしてしまって、生身のキリストは姿を消してしまっているのです。

 カトリックの場合には、文字などが読めない人々に対する伝道ということがあって、聖書物語をステンドグラスにして、つまり絵にして教えるという伝統があって、十字架像もプロテスタント教会のようにシンボリックにしないで、生身のそれこそ血潮したたるキリストをかかげて、十字架の救いを教えようとしたのではないかと思います。

 われわれにとって十字架による救いというのは、単なる教えででもなく、単なる教理でも、救いの論理構造だけではないのです。そこには血潮したたるという生身のイエス・キリストがおられるということなのです。

 われわれは「自分の行いによっては救われない、ただ神の一方的な憐れみがなければ救われないのだ」という教えだけを示されて、救われたのではないのです。そういう神学書を読んで救われたのではないのです。そこにはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたイエス・キリストという生身の存在がいてくださってこそわれわれは救われたのだということなのです。それなのにどうしてそのかたのことを忘れようとするのかというのです。

 二節から学びたいと思いますが、二節でパウロは「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも福音を聞いて信じたからですか」とガラテヤ人の人たちに訴えます。「霊を受けたのは」というのは、ここでは難しく考える必要はなく、「救われたのは」という意味にとっていいと思います。福音による救いは、「聞いて信じる」ということによって得られる救いだということであります。

 律法の場合には、自分が何かをする、行動する、それは自分の側に自分の中に自分がこうしたという手応えというものをもつことができるのです。しかし「聞いて信じる」というのは、確かさは自分にあるのでなはなく、全く相手を信頼するというところにあるのです。

 「聞いて信じる」ということ、それはなにも信仰の問題だけでなく、われわれの社会生活においても大変重要だと言うことを鈴木正久がここのところの説教でいっております。こういうのです。
 「文明社会、高い文化をもつ国家とはどういう国家か。それは聞いて信じられる社会、国家ではないか。町でだれかのいうことをうっかり信じたらだまされる、買い物をするときも商人のいうことは信じられない、政治家の立候補のときの公約も聞いて信じていたらとんでもないことになる。これは文明社会ではない、文化国家ではない」というのです。

 そしてこんなことも言うのです。「あの痛ましい『吉展ちゃん事件』を考えてもわかる」というのです。もう吉展ちゃん事件というのは昔の話しになってしまいましたが、幼児誘拐事件で痛ましい事件でした。「幼い子供というのは、大人の言葉を聞いて信じるものだ。その聞いて信じる幼児の性質につけ込んで、これをだますということが、すべての人が憤りと悲しみを感じたのだ。それはちょうど美しい花が無惨に踏みにじられてしまうという痛みと同じだ」というのです。

 そうして鈴木正久はこういいます。「聖書の中心は『聞いて信じる』ことである。この神の言葉を聞いて信じることを頂上にして、それから広い裾野がわたしたちの日常生活の中にひろがり、お互いに相手のいうことを信じあえる社会が築きあげられていく、このことは大変深い意味がある」というのです。

 最近では、吉展ちゃん事件のことが昔話になってしまうほどに、それと似たような事件、それよりももっと悲惨な事件があいついで起こったために、今では子供の教育で、学校でも、人を信じてはいけない、大人を信じてはいけないということが教育の一番の基本になってしまっているように思えるのは、本当に嘆かわしいことだと思います。

そうした事件は、統計的にみれば、なんといってもごくごく限られたことなのに、それに対してあまりにも過剰反応してしまって、目先のことだけにとらわれて、子供に大人のいうことを信じるな、ということが教えられていくというのは、広い目でみれば、長い目でみれば、子供の心にただ不信感を植え付けるだけで、それはとんでもない社会をつくっていくだけではないか。

 騙す人間は確かに憎いと思います。しかし絶対に騙されないぞといつも気張っている人間、人を信じようとしないで、身構えている人間のほうがもっと悲しいではないか。自分は絶対に騙されないぞという人間よりも、時には騙されてしまう人間のほうが、人間として上等ではないかと思うのです。

 鈴木正久がそのあとのほうの文章でこういうこともいっております。「お互いの言葉が信じられない、聞いて信じられない社会は、腕づくで自分を守る、互いにけんか腰の社会になる。この腕づくとけんか腰の生活は実に律法主義的だ」というのです。

 聞いて信じるということは、ただただ相手を信頼するということであります。もう自分を信じないということであります。もう自分で自分を守ろうとしないということであります。
 それに対して、律法主義というのは、ただ相手を信じるというだけでは、信頼するということだけでは頼りない、すべてを相手に下駄を預けてしまうということはどうも不安だということで、少しでも救いの確かさを自分の中に確保しておきたいという卑しい動機が隠されているということではないかと思うのです。

 それはまさに三節にありますように、「あなたがたはそれほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようするのですか」ということであります。「霊によって始めた」というのは、はじめは、クリスチャンなら誰でも、キリストの十字架を聞いて信じて、神の恵みがわかり、救われているはずなのです。クリスチャンなら、だれでも自分の行いによっては義とされない、救われないということをいやというほど知って、ただ一方的に与えてくださった神の恵みを信じて救われた筈なのです。それなのに、信仰生活が長くなると、その初々しい感動が薄れてしまって、それだけではどうも頼りないということになって、少しでも善い行いをしておこう、それを保険にしておこうという、さもしい思いが働いて、自分の功績を少しでもためておこうとする、それが肉で仕上げるということであります。

 四節で「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄だったはずはないでしょうに」とパウロはガラテヤ人の人たちにいいます。「あれほどの体験」ということがどういう体験だったかはここには示されておりません。それはクリスチャンになってからのさまざまの迫害ということかもしれないとも考えられます。あるいはそういう苦しい体験だけではなく、クリスチャンになってからの大きな喜び、楽しい体験も含んでいるかもしれないと言う人もおります。
 
 どちらにせよ、クリスチャンになった時の大きな体験であることは確かだと思います。そしてその中心に、「目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示された」という経験があるのではないかと思います。

 そう考えますと、ここでいう「聞いて信じる」ということは、ただ「聞いて」ということではなく、「十字架につけられたキリスト」、それこそ「血潮したたるキリストの姿」を「見る」、それを自分の脳裏に刻みつける、そういうことが、ここでは「聞いて信じる」という時の「聞く」と言うことの中には含まれているのではないかと思うのです。

 十字架というものをアクセサリーのように、シンボリックにしてはならない、抽象化してはならない、イエス・キリストという生身の人が十字架につけられたのだということを忘れてはならないということであります。われわれのために血を流してくださったキリスト、われわれのために痛みを引き受けてくださったキリストのことを思うならば、そうやすやすとわれわれは自分の功績を積んでおこうなどという律法主義にもどることはあり得ないと思うのであります。

 今日学びたい最後の句、六節の言葉にも注目したいと思います。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」という句であります。パウロはその旧約聖書の創世記にある言葉を引用して、信仰義認のことを語るのであります。

 それは創世記の一五章にある記事なのですが、神はアブラハムに「お前の子孫を繁栄させる」と約束するのです。しかしもうこの時、アブラハムは百才、妻サラは九十才という年齢、到底子供など産めない年齢なのであります。

 それでアブラハムは神様の言葉を信じることができないのです。だから自分には子供がないし、これからも子供は生まれないから、「自分の召使いエリエゼルが自分の家のあとを継ぐことになるのでしょう」といって、神の言葉を信じようとしないのです。

 すると神は「そうではない、お前たちから生まれる子があとを継ぐことになる」とさらにいうのです。そうしてアブラハムを外に連れ出した。そこには満天の星が輝いていた。そして神は「お前は天を仰いで星を数えることができるか。お前の子孫はその星の数ほどになる」と言われるのです。
 その数え切れないほどの圧倒的な数の星を見て、アブラハムは神を信じた。神はそれを彼の義と認められたというのです。

 これはどういうことかといいます、神の約束を信じられないアブラハムに対して、神様は何か信じられることを例にあげて、彼に信じるようにと促したのではなく、信じられないアブラハムに対して、さらに信じられないさらに大きな約束をして、神の大きさの前にアブラハムを圧倒させたということであります。満天の星の数など数えられないのです。その数えられないほどの子供と子孫が与えられると神はいうのです。まだ一人の子供を与えられていない状況にいるアブラハムに対してであります。

 ですから、アブラハムは自分の信じる力などによって信じたのではないのです。神の圧倒的な大きさの前に打ちのめされて、信じることへと導かれて、信じたのです。
 その信仰を神は義とされたというのです。アブラハムは最初神を信じられなかったのです。神の約束を信じられないで、自分の召使いエリエゼルが家を継ぐと神に答えているのです。しかし自分の疑いを吹き飛ばすような神の大きな恵み、満天の星を見て、到底数えることのできない星の数に圧倒されて、「アブラハムは主なる神を信じた、主なる神はその信仰を義とみとめられた」というのです。

 それはパウロが後にローマの信徒の手紙で書いているように、「不信心な者を義とされるかたを信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められる」ということであります。くどいようですけれど、それは不信心な者を義とするかたを信じる信仰なのであって、信心深い者を義とするかたを信じる信仰ではないのです。「不信心な者を義とするかた」なのです。

 信仰は聞くことから始まると言われます。しかし、アブラハムは満天の星を見て主なる神を信じたのです。今パウロは「目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」というのです。血潮したたる十字架のキリストを見よ、というのです。

信仰は聞くことから始まると共に、見ることによって、十字架につけられたキリストの姿を脳裏に焼き付けることによって、見ることによって、確かなものにされていくのではないでしょうか。